一心同体
分断。
上下に分かたれた七椿の半身は、水鏡の中へとぽちゃんと落ちて――上と下。
宙空に現れた鏡からは、逆さまになった七椿が覗き、地に描かれた鏡からは七椿の両脚がすらりと伸びてくる。
ゆっくりと、上下の身体が鏡中に沈む。
正面の鏡から、全身をもった七椿が歩いてきて、ひらひらと袖を振りながら両腕を広げる。
「妾・最・高!! ゆえに!! 敗けはなし!! ほほっ!! 妾は!! 妾は、お主のような驕り高ぶった人間を葬るために舞うぞよ!! 妾の鏡の世界をご照覧あれっ!!」
宙へと舞い上がった七椿が、指を指した。
鏡が――降る。
幾重にも降り注ぐ鏡の合間を駆け抜けながら、腰元に刃先を置いて狙い澄ました。
響音、壊音、心音。
澄ました耳が捉えた音色、とくんと心臓が跳ねて、刀を振り払った。
背後から現れた魔人の首筋から血が噴き出し、鏡という鏡から、四つん這いになった七椿が舌を突き出しながら現れる。
「んばぁ~っ!!」
それら、すべて、ひとつ残らず。
斬り伏せる。
降伏の剣閃が、魔人という魔人の首を跳ね飛ばし、構えた刀の切っ先に風景が重なった。
それは、幸福な光景だ。
たったひとりの少年が愛した、塀を隔てた陽だまりの景色。
「生き方も知らねぇ俗物が」
斬る、斬る、斬る。
斬り上げて、斬り下げて、斬り伏せて。
帯びる血は雨に消え、高ぶる心は音と化した。熱を持った両腕は、鈍い重さをもち、心臓が担った呼吸が世界を輝かせる。
「三条緋路の大切なモノにッ!!」
熱い血潮を浴びて、赤づいた俺は叫ぶ。
「触れるんじゃねぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!」
叩き割る。
粉々に砕け散った鏡片は、俺の頬を斬り刻み、流れた血は雨と混じって落ちる。
きらきらと。
視界を跳び回る透明色の耀きの中へと飛び込み、俺は、残ったひとりの魔人の下へと駆けてゆく。
けらけらと咲いながら。
万の鏡を呼び寄せた七椿は、大量の球面鏡に囲まれ、斬撃という斬撃を弾き飛ばしながら廻転する。引き金を引く度に散乱する光線は、稲光のように闇を照らし、刃と鏡がかち合う音は雷鳴を思わせた。
鏡を踏む。
踏み込んで、割れ落ちて、斬り裂いた。
引き金、引き金、引き金ッ!!
引き絞り、引き絞り、引き絞り……がちゃん……音がして、なにかが詰まり、絡繰刀の動作が止まる。
嬉しそうに。
七椿は咲いながら、太刀のように鋭利な鏡片を俺へと叩きつけ――右肩に突き刺さったソレは、急激な勢いで人間の身体を叩き落とし、地面に叩きつけられた俺の呼吸が止まった。
「がっ……ごぼっ……!!」
悲鳴が漏れる。
熱湯を浴びせられたかのような激痛、どこもかしこも痛みに溢れており、視界が歪んで打った頭が眩んでいた。
雨が降る。
突っ伏した俺の身体に雨粒が当たり、どんどん、身体を冷ましていく。
「阿呆がッ!!」
喜悦に満ちた声音で、七椿は叫んだ。
「たかが人間が!! 魔人に敵うと思うたか!? 眠るのはお主の方じゃ!! この妾に!! この妾に触れられる人間などいてたまるかっ!! ほほっ!! ほほーっ!! 阿呆が!! 阿呆が阿呆が阿呆がッ!!」
咲いながら、七椿は愉しそうに手を打ち鳴らす。
その度に、彼女の手元で雨が弾けて、滑るように寄ってきた七椿は俺の髪を掴んで持ち上げる。
「善い顔じゃ……愛いのう愛いのう……妾は、虫螻の斯様なところを愛しておる……ほほっ、虫螻は虫螻らしく、命なんぞに価値を見出して死んでゆけ……その無価値な生に縋りつき、己の生に価値を見出し、己の価値観がなにかを遺すと曲解しながら死ぬるがいい……」
顔を歪めた俺の耳に、七椿はささやきかける。
「お主の命に価値などない……」
思い切り。
顔面を地面に叩きつけられ、勢いよく鼻血を噴き出した俺は、ぐるぐると回転する視界の中に魔人を捉える。
彼女は、笑顔を咲かせる。
「わかるかのう、三条の緋路……否、たかが人間よ……お主の生なんぞに価値はないよ……うぅん……わかるか、お主は、なにも護れずに死ぬ……あの薄汚い小娘……死にかけている阿呆な娘に焦がれて死ぬ……」
何度も、何度も、何度も。
顔を地面に叩きつけられ、血で塗れた俺は、ひゅーひゅーと喘鳴を上げる。
「あの小娘を想って死ぬことに……価値があるとでも思ったか?」
七椿の指の間に、抜け落ちた黒い髪がぎっしりと詰まっている。
「否、否、否ァ!! 虫螻じゃよ虫螻じゃよ虫螻じゃあ!! 虫螻が虫螻を救ってなんになる!? 命とは!! 命とは、平等に無価値なものじゃ!! 誰も!! 誰も、お主の死に関心なぞもたぬ!! いずれ、お主は忘れられ、消え去り、なにも残らない!! あんな貧相な小娘を護ったことなど!! 誰も憶えてなどおらん!!」
視界いっぱいに火花が散って。
ずるりと、全身の力が抜け落ちて、俺から手を離した七椿は咲う。
「たったひとつの命を救って、英雄にでもなったつもりか? うぅん? ほほっ、心音が弱まってきたのぉ?」
「…………」
「毎日毎日毎日、虫螻どもは死んでゆく。まるで、ゴミのようじゃ。お主らに踏みつけられて死ぬアリンコと、ココで無様に野垂れ死ぬニンゲンとなんの違いがある? 薄汚いのう、ほんに、命とは汚いものじゃあ」
「…………」
「要はのう、三条の緋路よ。
命とは」
袖口で口元を覆い、魔人は人間を見下してせせら笑い――俺の胸元から取り出した、ロザリーの写真を泥の中に落とした。
「こうして、足で、踏みにじるためにあるんじゃよ」
七椿は高笑いをしながら、その写真をぐりぐりと踏みつける。
咲って、咲って、咲って。
栄華に咲き誇った魔人は、げらげらと咲いながら、命を踏みつけ――その足が止まった。
手。
泥と傷と血で塗れた人間の手が、魔人の足を止めていた。
後ろで結んでいた髪は解け落ち、全身は泥と傷で塗れて薄汚く、どこからどう視ても無様な人間は魔人の足を持ち上げる。
ゆっくりと。
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。
魔人の足は持ち上がっていき、彼女の顔に驚愕が浮かぶ。
俺は――三条緋路は――泥の中から大切な彼女を拾い上げ、ぐしゃぐしゃに潰れたソレをそっと胸の内に収める。
土砂降りの中で。
たったひとつの命は、輝きながら立ち上がった。
「……妾の」
魔人の手元に集まった鏡片は、ひとつの槍と化して――
「妾の許可もなしに!! 生きるなよ、虫螻がァッ!!」
飛来する。
ただ、前髪の隙間からソレを見つめて、避ける動作すら見せず。
飛来したその槍は、対象を恐怖に落とし跪かせるという目的を果たせず、俺の頬を斬り裂き後ろ髪を引き裂いた。
髪が、流れる。
斬れ落ちた長い髪は、少年に自己を抱かせないための呪いだった。
男性であるにも関わらず、女性であることを強制され、三条家の傀儡として生きてきた少年に巣食ったその呪いは――宙へと流れ去ってゆく。
雨風が、呪縛を運んでいった。
大空へと舞い上がったその黒い髪は、あたかも花弁のように舞い踊り、その只中でたゆたった少年は命を紡いだ。
三条緋路は――己の眼を開ける。
「……なぜ」
満身創痍の人間を見つめ、後退りながら魔人はつぶやいた。
「なぜ、立てる……なにゆえに……なにゆえに……生きる……なんのために……そのような……薄汚い小娘が映る写真のために……なぜ……立つ……?」
俺は、拳を握り込み――左胸に叩きつけた。
「この心臓が」
幾度も。
幾度も、幾度も、その拳を叩き込み。
幾度も、幾度も、幾度も、その心臓は高鳴って。
「この心臓がッ!!」
俺は、重なった鼓動に叫びを乗せた。
「この心臓がッ!! 動いているからだッ!! 命は!! 三条緋路の命は!! 生きたいと!! あの子のために生きたいと望んでいる!! 何度も!! 何度も、何度も、何度も!! あの子のために動けと鳴っている!! だから、俺はッ!! テメェの前にッ!! 何度でもッ!!」
左胸を鷲掴みにした俺は――絶叫する。
「立ちはだかるんだよッ!!」
「き、気分が」
顔を真っ青にした七椿は、後退りながら首を振り両手を構えた。
「気分が悪い!! お、お主は!! お主は気色が悪いッ!! 死ぬれッ!! 死ぬれ死ぬれ死ぬれぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!」
光が迸る。
その光線は、否応なく俺の全身を包み込み――白煙――俺の体内から噴き出た白煙が煙幕を作り上げ、屈折した光の束は見当違いの方向へと曲がり、建造物を貫いて失せていった。
呆然と、七椿は眼を見開き――声。
「やれやれ、僕には理解出来ないな」
振り向いて、俺は、思わず口端を曲げる。
「まったく、君って人間は、どうしてそう死にたがりなんだ?」
煙草。
人差し指と中指の間に挟んだ煙草の白煙が、真っ白な軌跡を示し、その源にある人影は瓦礫の頂上で足を組んでいる。
金色がかった黒い髪。
ベージュ色のトレンチコートを着込んだ彼女は、翠玉のように輝く瞳を開き、全身に纏った凄まじい魔力を発露する。
「お困りのようだね、三条燈色くん」
にんまりと嗤いながら、顔馴染みの魔人は手を差し伸べる。
「僕ならば、この窮地から君を救えるが」
俺は笑って、奴も嗤った。
「どうする?」
死廟のアルスハリヤは、愉悦を顔に刻んで――契約を持ちかけた。




