陽だまりに唄って
走る。
走る、走る。
走る、走る、走る。
紫光を伴った疾走、レイリー・ビィ・ルルフレイムから譲り受けた紫水晶を溶かしながら走り続ける。
疾走りながら、刀を振るう。
錫杖を振り上げた天狗を斬り伏せ、血潮を浴びながら己の活路を斬り開く。
「失せろォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
絶叫し、屍体を乗り越えながら俺は進む。
夥しい数の怪異の死骸は、水溜まりの中に沈み、ぴくりとも動かず雨に打たれている。
気配。
反応が遅れて、俺の剣閃よりも早く攻撃が飛んでくる。
「…………ッ!!」
たたらを踏みながら、回避、だがその軌道は精確に俺を狙い――錫杖――俺の背後から、飛んできた錫杖の切っ先が、俺の命を狙った怪異の頭を潰した。
怪異に救われた!?
驚愕で、俺は、振り返り……そこには、なにもない。
いや、先程の一撃を担った錫杖を握り締め、俺自身の斬撃によってとうの昔に絶命していた筈の天狗の屍体が在った。
息を荒らげながら――俺は笑って、足を踏み出した。
鏡。
鏡と鏡。
合わせ鏡に挟まれた三条緋路の姿が映り込み、その只中を通り過ぎる度に、映っている彼の姿が変じてゆく。
赤ん坊、幼少期、少年期、そして青年期。
どの鏡に映る彼も、たったひとりで孤独に耐えていた。
何時も、彼は独りだ。
男として生まれてきた彼は、自身を女として偽り、自我を持つことは許されず白眼視されてきた。彼を生贄としか思っていない三条家の連中は、冷笑と罵声と暴力を送り、冷たい眼をした少年は一度も笑うことはなかった。
塀だ。
見覚えのある塀、庭木によって目隠しされているものの、三条緋路の身長であれば覗き込むことが出来るくらいの高さ。
少女。
ひとりの少女が、縁側に座り、目を閉じて唄っていた。
子守唄だ。
自身の喉から綺麗な音色を響かせて、金色の髪をもつ少女は目を閉じながら唄う。
そんな彼女を、傷だらけの三条緋路が見つめていた。
彼の近くには、ゴロツキが倒れ伏しており、半人半魔の幼子は涙目で彼に礼を言い少女が唄っている庭へと逃げ込んでいった。
血を流しながら、三条緋路は少女を見つめる。
その距離は、縮まらない。否、縮めようとは思いもしないのだろう。
「…………」
三条緋路は、静かに耳を澄ませる。
喜怒哀楽を表さない彼は、悪夢を模した半生に安らかな眠りを求めるかのように、じっと少女の唄声へと耳を傾けていた。
少女の下へと辿り着いた幼子は、必死で塀の外を指差し、己を救ってくれた恩人に報いようとする。
少女は、顔を上げて塀の外を窺う。
だが、もう、三条緋路はその場から立ち去っている。
傷ついた右腕を押さえながら、足を引きずり、決して丈夫ではない弱々しい身体で逃げるようにしてその場を後にする。
逃げるように、逃げるように、逃げるように。
三条緋路は、醜悪な男の姿を少女に見せないように――通りへと姿を消した。
雨。
鏡の中でも、雨が降っている。
雨という雨が、屍体の山に積もった穢れを流れ落としてゆく。虚ろな眼をした人間の死骸は、悲痛も悲嘆も悲劇も残さず舞台上から退場していた。
血溜まりに沈んだ三条緋路は、口端から血を流しながら、己の口から聞こえてくるひゅうひゅうっという死の音を聞いていた。
腹に、ぽっかりと穴が空いている。
そこから、命が漏れていた。
折れた無銘の刀は、終ぞ、少女に名乗ることのなかった無名の男の手に握られたまま……彼の生涯が潰えることを予兆するかのようにへし折れていた。
彼もまた予感している――自分はココで死ぬ。
徐々に、視界が狭まってくる。
悲しくて、寒くて、辛さばかりが募ってくる。
思い出すのは、嫌なことばかりだ。楽しみひとつない生涯だった。誰も、自分の名すらまともに憶えていないのだろう。
己は、無名戦士の墓へと祀られるのだろうか。
誰も、自分の死を想って泣いてはくれないのだろうか。
体は、焼かれて灰になり無へと至るのだろうか。
自分が生きてきた意味とは、己の命とはなんだったのだろうか。
寒い、寒い、寒い。
雨の音すら聞こえなくなった頃、三条緋路はふと己の胸中に温もりを見出した。
震える手で――彼は、それを取り出す。
そこには、少女が映っていた。
ずっと、塀の外から見守り続けた少女。自分が護りたいと想い続けた少女。ただ、幸せになって欲しかった少女。
鹿撃ち帽とインバネスコートを着た女性が、わざとらしく落としていった写真を見つめながら三条緋路は想う。
歌っている少女の姿を。
笑っている少女の姿を。
幸せそうな少女の姿を。
涙が溢れて――彼は、笑っていた。
初めて、彼は笑顔の浮かべ方を知って、涙を流しながら彼女を見つめる。
雨が止んだ。代わりに、唄声が聞こえた。
子守唄だ。
陽だまりに浮かぶ彼女が、自分のために歌っている。
雨に混じった涙、満面の笑みを浮かべた三条緋路は、ようやく自分が呼吸している意味を知った。
この命は――彼女を護るためにあった。
なにも得られなかった少年が、なにも得ようとしなかった少年が、なにも得をしなかった少年が。
ようやく、命の意味を知った。
もう、悲しくはなかった。寒さは消えている。辛い思い出は消えていた。
自分は死ぬ。だが、彼女は生きる。
生きて――きっと、あの陽だまりの中で唄い続ける。
塀の外から眺めていた幸福が、このまま、この世界に留まり続けるのだと知って……暗がりの中にいた少年へと、柔らかな日差しが差した。
丁寧に、丁寧に、丁寧に、己の血を拭き取って。
大切な写真を胸の中に仕舞い、陽だまりの中で、彼は彼女と共に唄う。
「ね……むれ……ね……むれ……やさ……しい……いい……こよ……は……はの……てで……ゆっ……くり……ゆら……れ……なが……ら……」
掠れた声で、唄っているうちに視界が狭まってゆく。
「やさ……しい……やす……み……」
眼を見開いたまま。
笑みを浮かべた三条緋路の命は途絶える。
瞬間。
鏡の中に囚われていた俺は、正気に戻り、眼前に迫っていた鬼の首を刈り取る。
「……退け」
三条緋路と交錯した俺は、涙を流しながらささやく。
「退け……退け……」
そして、叫んだ。
「退けぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!」
刀を振るう。
名もなき彼へと答えるように、刀身を振り払い怪異の壁を打ち払う。
嗚咽を漏らしながら、がむしゃらに駆け抜けた俺は、血で塗れながら必死で魔人の下へと向かう。
疾駆する。
雨粒を全身に叩きつけながら、前に進んだ俺は絶叫しながら信念を振るった。
心音が――重なる。
己の裡で鳴っていた心臓の音色が、俺の耳朶を叩き、進め進めとがなり立てる。己の左胸を掴んだ俺は、豪雨の只中を駆け走り、ありとあらゆる障害を突き破りながら突き進む。
――ヒロさん
ひとりの少年が、命を懸けて護ろうとした陽だまりのために。
閃光が流れて、一縷の剣筋が己の生を保証する。
か細い、現在にも絶えそうな命を繋ぐため、剣を振るい続け、叫び続け、走り続け……ようやく、辿り着く。
口端から、白煙が上がっていた。
発熱し蒸気した体内が、冷えた世界で白い煙を上げている。
「…………」
積み重なった瓦礫、重なる戦闘音、重厚な雲海が天空を押し潰している。
雨が降る。
真っ白な線と化した雨、濡れて重くなり垂れ下がった前髪の隙間から、人間の身体の上に腰掛けている魔人が視えた。
血が降る。
魔か人か。
どこかから飛んできた血が雨と化し、俺と魔人を濡らした。
ルミナティ・レーン・リーデヴェルトは血溜まりに突っ伏し、その上に座った七椿は、きらきらと眼を輝かせながら俺を指した。
「視たぞ~!! 視たぞ視たぞ視たぞ~!! 視えたぞ、おぬし~!! 三条の緋路よ~!! 鏡を通して、お主の生涯を覗いてやったぞ~!! なんじゃあ、おんし、妾の手にかかって死んでおったんじゃないのかぁ~!?」
「…………」
「お主」
万鏡の七椿は、にんまりと咲う。
「あの女に惚れておるのか」
「…………」
「ほほっ、かような童のために生涯を懸けるとは、ほんに人間とは救いようのない阿呆ばかりじゃのう! 虫螻が虫螻を救ってなんになる! 可哀想に可哀想に可哀想にのう! あんな薄汚い肉の塊に価値を見出し、愛とやらで飾り付け、己の命を投げ打つとは! ほんに哀れでならんわ!!」
「…………」
「エスティルパメントは来んぞ、あの銀髪のエルフもなぁ」
七椿は、鏡に映る己を見つめ、いーっと歯を剥き出してから言った。
「妾の鏡中に陥っておる。
さて、ほほっ、妾から問いをかけるぞよ、三条の緋路」
満面の笑みで、魔人はささやく。
「お主の前で、あの女の四肢をもいで遊んでやったら……どういう顔をする……?」
七椿は咲いながら、髪を掴んだルミナティの顔面を地面に叩きつけ――ぐったりとした彼女を放置し、しゃなりしゃなりと、両足で円を描いて水鏡を呼び寄せた。
魔人の足元で水鏡が発光し、せせら笑いを浮かべた七椿の身体が浮き上がり始める。
「ではな、三条の緋路よ。
妾は、現在から、ばびゅーんっとあの女のところへ行――」
跳んだ。
瞬時に飛んできた迎撃は、三条緋路の全身を貫いたがソレでも止まらず――心臓が唸る――絡繰刀の切っ先が、奥深く、魔人の心臓を食い破る。
腹から背へと。
魔人の前面から後面まで貫いた刃を、切腹するかのように――鞘に仕舞った。
天高く、明朗に、鍔音が鳴り響く。
引き金。
「ぐげぇっ!!」
穴という穴から、七椿は血を噴き出し、真っ赤な光が四方八方に閃いた。
光に包まれながら。
引き金を引き絞った俺は、七椿の前髪を掴んで引き寄せ、思い切り――己の額を叩きつける。
眼と眼。
眼前から魔人を覗き込み、俺は、三条緋路と共にささやいた。
「覚悟しろ、魔人。
現在からテメェに」
万鏡の七椿の顔面が――歪む。
「子守唄を唄ってやるよ」
赤紅に輝いた紅玉の剣閃が、真っ直ぐに、魔人の肉体を両断した。




