カルイザワ決戦
ただ、呼吸するだけでも苦しいのか。
俺の前に横たわったロザリーは、苦悶の表情で息切れを起こしており、必死に息を吸うことと吐くことに注力していた。
安定していたロザリーの容態が悪化した。
あたかも、近づいてくる魔人に感応したかのように……呼吸を繰り返すロザリーは、身を捩りながら苦しみに耐えている。
「…………」
俺は、ただ、彼女の手を握る。
汗ばんだその手は、拠り所を求めて彷徨い、指が千切れんばかりの強さで俺の手を握り込んで離さなかった。
必死に。
必死に、この子は生きようとしている。
俺とルミナティとレイリーとアステミルを信じて……自分自身の未来を、その手で、掴もうとしている。
――なぜ、わたしは生まれてきたのでしょうか
その問いかけに答えるため、ロザリー・フォン・マージラインは生きようとしている。
「…………」
俺は。
ゆっくりと、顔を上げて、自身に問いかける。
俺は、彼女にどうやって応えればいい?
時が流れる。
うつらうつらと半分眠っていた俺の意識が、ふと覚醒した時、ロザリーが穏やかな笑みを浮かべていた。
「……たおれちゃいましたか?」
「あぁ、急に、胸を押さえて」
「……手」
ロザリーは、嬉しそうに布団の中から組んだ手を出した。
「……握っててくれたんですか」
「一応、俺は、お前の恋愛ティーチャーだからな」
咳き込みながら、ロザリーは笑う。
痩せこけた頬と青白い肌、徐々に食欲を失っていった彼女は、細い腕を布団の中に仕舞い込み天井を見上げた。
「わたし……死にませんよ……」
か細い声で、彼女はささやく。
「ヒロさんと……したいこと、たくさんあるんですから……まだまだ、いっぱい、教えてもらわないと……わたし、満足してませんから……もっともっともっと……わたし、ヒロさんのことを知りたい……好きな食べ物も好きな音楽も好きな書物も……全部……お祭りにも一緒に行きたいし、また、湖にも行きたいです……ヒロさん、あんなに思い切りボートを漕ぐから……わたし、濡れてしまったし……今度は、お返しするんです……だから……わたし……いっぱいいっぱいいっぱい……でぇーと……したいです……」
「…………」
「わたし……この病を治します……」
微笑んで、彼女は、俺の指をぎゅっと握る。
「命を……繋ぎます……生まれてくるマージライン家の子供たちに……教えてあげたい……ヒロさんに教えてもらったこと……ボートの漕ぎ方も……『あーん』の仕方も……手の繋ぎ方も……恋するってことも……ちゃんと……教えてあげたい……」
流れ落ちた涙が、布団に染みてゆく。
綺麗に。
とても綺麗に、生きている少女は、泣きながら俺を見つめた。
「好きです……わたし……ちゃんと……」
ボロボロと涙を零しながら――ロザリー・フォン・マージラインは、ひとりの女の子として笑った。
「ヒロさんのこと……好きになれました……」
血混じりの咳をして、彼女は、ぜいぜいと喘ぎながら言葉を紡ぐ。
「ヒロさん……わたし、もう、恋愛ド素人じゃない……ですよ……もう、喧しい劣等生……でもないです……だから……欲しいです……ちゃんと……ヒロさんを好きになれた証明……生きてるってこと……」
ロザリーは、俺を見つめる。
「教えてください……」
己を折って。
俺は、天井を見つめた彼女に覆いかぶさって――その乾いた唇に口吻た。
「……なんで」
呆然と、ロザリーは俺を凝視する。
「なんで……なんで、接吻するんですか……この戦いが終わったら……一緒にいられるんですよね……でぇーとできるんですよね……なんで……なんで、何時もみたいに茶化さないんですか……ヒロさん……ねぇ……?」
「ロザリー」
微笑んで、俺は、彼女の頭を撫で付ける。
「絶対に、もう一度、逢いに来る……もう一度だけ……もう一度だけ、俺は、お前に逢いに来る……だから……」
俺は、笑って、彼女にささやく。
「生きろ」
「どういう……意味ですか……ヒロさん……どこに行くんですか……?」
俺は、立ち上がり、腰に刀をぶら下げる。
ロザリーへと背を向けて、俺は歩き出し、背後から音が聞こえてくる。
這いつくばった彼女は、必死で手を伸ばしていた。
「ま、まって……わ、わかんないです……わたし……ロザリー・フォン・マージライン……わかんないです……勝つんですよね……ヒロさんは、七椿に勝って、笑いながら帰ってくるんですよね……や、約束しましたもんね……しわくちゃのおばあちゃんになっても、傍にいてくれるって……言ってくれましたもんね……」
「…………」
「ひ、ひろさんは……」
滂沱の涙を流し、嗚咽を上げながら、彼女は震える手を伸ばす。
「う、うそ……つかないですもんね……ね……?」
「……ロザリー」
俺は、腰の刀を握り締め――ささやく。
「俺は、お前を信じる……だから……」
振り返り、俺は、彼女に笑いかける。
「未来で逢おうぜ」
「いやだ……まって、ヒロさん……わたしも……わたしも連れてって……ひとりで行かないで……わたし……わたし……」
もう、振り返らず、俺は進み続ける。
小さな泣き声と共に、ささやき声が、俺の背にぶつかった。
「こんな気持ち……まだ、教えてもらってない……」
マージライン家の別荘から出て、俺は、静まり返ったカルイザワの街並みを眺める。
寒村。
そんなイメージを覚える寂れたカルイザワは、静寂の大口に呑み込まれており、曇天に包まれた大空は地上を白黒に染め上げていた。
モノクロームの静けさは、俺の視界を埋め尽くし、足元の水溜まりには自身の姿が映っている。
水鏡。
鏡と化した水溜まりには、三条緋路が映っていた。
「……そんな目で視るなよ」
じっと、鏡の中の緋路は俺を見つめる。
「仕方なかった……ロザリーには生きる意味が必要だった……それがその場しのぎの恋心だったとしても……必要だったんだ……あの子に惚れてたあんたには悪いが……俺は、あの子も含めた皆を護りたい……だから許せ……三条緋路……」
微笑を浮かべ、俺は、彼に語りかける。
「用意はいいか、相棒」
水溜まりの中で、彼は、俺と同じように笑う。
「たったひとりの女の子のために、世界の命運を握る用意は――出来てるか」
風が吹いて、水面が揺らぐ。
それは、あたかも、水溜まりの中で頷いているように視えて――俺は、笑った。
「良い返事だ」
俺は、一歩を踏み出す。
歩いて、歩いて、歩いて……いつの間にか、隣にルミナティが並んでいた。
「ミス・ルミナティ、ひとつ聞いておきたいんですがね」
「なんだい、我が助手よ。
今更ながらに、私に尋ねたいことなんてあるのかい?」
「ロザリー・フォン・マージラインのために……いや、あんたの親友のために……」
俺は、真っ直ぐに彼女へと問いかける。
「命を懸ける覚悟はあるか?」
「……初歩的なことだよ、ワトスン君」
咥えていたパイプから煙を吐いて、紫煙の内側で彼女は微笑んだ。
「この道を歩み始めた時から……初歩の初歩から……私は、この命を懸けてきた……あの人のために……あの人が託したあの子のために……この胸に渦巻く謎を解くために……それだけのために……私は……」
鹿撃ち帽とインバネスコートが風に煽られ――ルミナティ・レーン・リーデヴェルトは、満面の笑みを浮かべた。
「呼吸してきた」
俺は苦笑して、彼女は脱いだ鹿撃ち帽を見つめる。
「ようやく、ココまで来ましたよ……先生……ようやくココまで……貴女の遺した手がかりを追って……もうすぐ……もうすぐ、終わります……どうか、もう少しだけ、待っていてください……」
ふたりで、並んで歩き続け、隣にレイリーが現れる。
「…………」
「…………」
「…………」
「……貴様は」
彼女は、自身の角を撫で付けてささやく。
「貴様は、信じ難い愚か者だが、お嬢様を笑顔にしてくれた。たまには、道化が世界を救うこともある」
柔らかく微笑んで、俺と肩を並べた龍人はつぶやく。
「ありがとう」
笑って。
俺は、彼女の肩を叩いた。
「前々から思ってたんですが」
音もなく、屋根の上から飛んできたアステミルは小首を傾げる。
「なぜ、貴方の剣技は私そっくりなんですか? 微妙に、現在の私よりも洗練されているところが腹立つんですが?」
「……頼むから、弟子には優しくしてくれよな」
「は? 私、生まれ落ちた瞬間から大天使ですが?」
ありとあらゆる境遇を超え、四人で。
俺たちは、肩を並べて歩き続けて……鞠が弾む音を聞いた。
「まるたけえびすにおしおいけ、あねさんろっかくたこにしき、しあやぶったかまつまんごじょう」
手毬歌。
幼子と入り混じって、鞠を付いている七椿は、着物の裾を揺らしながら歌を口ずさむ。
「せったちゃらちゃらうおのたま、ろくじょうひっちょうとおりすぎ、はちちょうこえればとうじみち、くじょうおおじでとどめさす」
よくよく視てみれば。
その幼子たちの首は存在せず、首を失くした子供たちはぽんぽんと鞠をつき――気配を察知して動きを止め――身体の前面を俺たちの方へと向けた。
「なんじゃなんじゃあ? みんな、どうしたんじゃあ? ほれほれ、鞠をつかんか鞠をつかんか、妾を愉しませなければいかんぞぉ?」
ようやく。
万鏡の七椿は、俺たちに気づき――咲った。
「ほほ、ぬしらも混ざりたいのかえ?」
「……いや、別件で来た」
俺は、ゆっくりと抜刀し、魔人へと刃を向ける。
「泣いている子がいる……その子のために……その子が護ろうとしたモノのために……笑って過ごせる未来のために……テメェに……」
刀を構えて、俺は叫ぶ。
「喧嘩を売りに来たんだよッ!!」
その瞬間。
飛来した人影と共に一対の棺桶が降り注ぎ、凄まじい破砕音と共に地面が弾け跳ぶ。
もうもうと立ち昇る土煙の中から、エスティルパメント・クルエ・ラ・ウィッチクラフトが姿を現した。
「あ? なんだなんだぁ? 雑魚どもが雁首並べて、最弱決定戦でも開催してんのか?」
「ど、どういうことだ……?」
レイリーとルミナティが集めた主戦派の軍人と半人半魔は、キョロキョロと辺りを見回し、ぽかんと大口を開ける。
「け、計画はどうなった……? 裂け目は開いたのか……?」
「な、なぜ、ココに軍閥の人間がいる!? 主戦派か!? どうして、鹿鳴館で、ロザリー様に賛同した筈の半人半魔が主戦派と一緒にいるんだ!?」
俺が呼び寄せた宥和派の半人半魔たちは、どよめきと共に持ち寄った武器を構える。
その狭間で、俺は、笑いながら口を開く。
「残念ながら、あんたらは喧嘩相手を間違えてる。現実を視れば、眼が覚めると思ってな……悪いが、混乱したまま、俺の手のひらの上で踊ってもらうぜ。
来るぞ」
眼。
ぐるぐると廻転する両の眼が、万華鏡と化し、立ち尽くした七椿の背後に――鏡の群体が現れる。
「ごちゃごちゃと五月蝿い、早う去ね」
黒い塊。
鏡の中から怒涛の如く溢れ出した怪異の群れは、意味不明な言葉の羅列を口にしながら、ゲラゲラと歓喜の笑みを浮かべて押し寄せてくる。
漆黒の波濤と化した一群は、一斉に、俺たちの下へと殺到する。
先頭の怪異へと、抜き放った刃を叩き込み――血飛沫――真っ赤に染まった俺は、大口を開けて叫ぶ。
「行くぞぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
その叫声を契機に、対峙していた主戦派と宥和派は、眼前の脅威を前にし肩を並べて怪異へと立ち向かう。
「「「「「ぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」」」」」
疾走する人間と疾駆する魔物。
人と魔がぶつかる。
ココに、現在、歴史の通りに――カルイザワ決戦の幕が上がった。