息魔の魔導書
日は落ちた。
川は流れている。
世は寂静に呑まれてゆく。
俺の隣を歩くルミナティ・レーン・リーデヴェルトは、木々の狭間から覗いた星を指した。
「視給え、星だよ」
「視てください、ロマンチスト気取ったキザ女です」
ルミナティを指すと、人差し指を逆方向に倒される。
「ぁあ~ッ!! 俺のお母さん指がブリッジしちゃってるぅ~ッ!!」
「面白い冗談を口にするではないか、少年よ。興がノッてきたから、ついつい、君のお父さん指を大回転させてしまいそうだよ。指という指を破壊し、二度と、箸が持てないように改造しちゃうぞ」
「良い度胸じゃねぇか。カウンターで、二度と重いモノを持てねー身体にしてやるよ。
俺が代わりに持つからな」
「優しい……」
大岩の上に腰掛けて、ルミナティはぽんぽんと自分の隣を叩く。
「まぁ、遠慮せずに座り給えよ」
「客に座布団も出さねーのか、この岩は!!」
「大自然相手に遺憾の意を唱えるその姿勢、ボクは嫌いじゃないぞ。むしろ、好ましい。ふむん、その意気揚々とした傲慢さ、私も見倣うべき姿勢というやつかな」
ぷかぷかと、煙を吐き出しながら。
名探偵様は、沈黙の海に視線を泳がせ、ふと顔を上げて俺を見つめた。
「万鏡の七椿を封印しようと思っている」
彼女は、口笛を鳴らし――モップのような縦ロールの長毛を持った犬が――俺が107年後に『オフィリーヌ』と呼んでいる大型犬がとことこと歩いてくる。
「おぉ……オフィリーヌのご先祖犬か……?
可愛いですね、なんですか、犬でも飼い始めたんですか?」
俺は、大型犬を撫で付け――
『我が名は、テジュ・ジャグア』
頭の中に声が響き渡り、思わず、勢いよく仰け反った。
「紹介しよう」
犬の頭を撫でながら、ルミナティはささやく。
「第四の助手、息魔の魔導書だ。
私が大圖書館から盗――借りたかったのはコレでね。この魔導書は、文字通り、生きているわけだ。だがしかし、その真価は、このように可愛い大型犬として四足歩行で闊歩し人語を解することではない」
名探偵は、俺の前で人差し指を立てる。
「息魔の魔導書は、対象の魔力を吸って分裂する。増えた魔導書は、対象から吸った魔力を吐き尽くせば消滅する。
また、魔導書の本体は、取り憑いた対象を主人と解して行動を共にする。現在、この犬は私の魔力を吸って増殖を繰り返しているわけだ」
「魔導書の養殖っていうのは……?」
「ふむ、所謂、隠れ蓑だな。稀代の天才たる私の慧眼光ることこの上ないが、息魔の魔導書は、運用次第で世界を滅ぼしかねないので『養殖』と理由付け人の手を介在すれば止められるモノだと周知したわけだ。
ふふん、さすがは私、抜かることはないね。誰に抜かれることもなく、抜いてゆくばかりというわけだよ」
「じゃあ、なに、下手すればこのクソみたいなモップ犬が世界中に溢れることになっちゃうってことですか……?」
「いや、息魔の魔導書は姿かたちを固定しない。思うがままだ。
例えば」
ルミナティは、懐から藁人形を取り出す。
「この藁太郎とか」
「おいおい、マジかよ……第一の助手とか、第二の助手とかって……テストケース1番と2番ってことかよ……そりゃあ大事にするわ……」
「まぁ、嘘だが」
「嘘かよ!! それっぽい嘘つくんじゃねぇよ!!」
「まぁまぁ、そう興奮せずに落ち着き給えよ。この息魔の魔導書の優位性をご教授してやっただけだ。要は、この息魔の魔導書は姿かたちに縛られないため、敵の眼を欺くのに長けているということなのだよ。
初歩的なことだよ、ワトスンくん。人間も魔人も、『思い込み』で騙されるのさ」
名探偵はゆっくりと指を振り、同じリズムで、口に咥えたパイプを左右に振った。
「息魔の魔導書を七椿に取り憑かせ、その膨大な魔力を幾千幾万にも分割し、各地のダンジョンにばら撒く。
それが、私の考えた万鏡の七椿の封印方法だ……ただし、この封印方法にはひとつの欠点がある」
川の流れの音が響き渡り、パイプから溢れた煙が空に上がる。
「息魔の魔導書は、主人から自身が許容出来る最大量の魔力を吸い込んだ後、増殖した分身体の魔力をすべてひとつに集約させた『核』となる。この核となった本体は、分身体と同じように魔力を吐き続けるが、魔力を吐いている途中で破壊されれば、現在まで吐いた分も含めて主人に全魔力を返済する」
「なんだそれ……要は、魔導書に期限付きの補償が付いてるってことか……? 七椿の魔力を吐き出し切るのには何年かかる……?」
「ざっと、現在から107年」
俺は、思わず、口端を曲げる。
「名探偵様に謎掛けなんて失礼かもしれないが……あんた、なんのために七椿を封印するんだよ?」
「……君には」
彼女は、微笑む。
「もうわかってるだろう?」
ざわめき。
木の葉が擦れて音が立ち、それが風によるものではなく、振り向けばひとつの人影が立ち尽くしていた。
木々の間。
ロザリーは、呆然と――ルミナティ・レーン・リーデヴェルトを見つめる。
「叔母様……?」
俯いたルミナティは、ゆっくりと帽子のツバを下げる。
「……まったく」
彼女は、そっと、ささやいた。
「来客も教えてくれないのかね、この風は」
冷たい風が彼女を煽って、緑光を纏った蛍が宵闇を飛んだ。




