野花を踏まずに歩くには
「お騒がせしてしまって、申し訳ございません」
病身のロザリー・フォン・マージラインは、真っ青な顔でそう言った。
マージライン家の屋敷では、半人半魔の従者たちが慌ただしく動き回っており、その様子を純人間の従者がニヤつきながら見守っていた。
「療養のために、カルイザワに移ろうと思っております。
カルイザワには先祖代々の別荘があるので……終の棲家はそちらにしろと、一方的に通達を受けてしまいました」
布団から身体を起こし、水差しを見つめたロザリーは微笑む。
襖の前で仁王立ちしている龍人、レイリー・ビィ・ルルフレイムは無表情で宙空の一点を睨めつけている。
以前、眼にした時には、静けさの美しさを見出していた日本庭園は、現在となっては侘しさの醜さを醸し出していた。
「身体は、どれくらい持ちそうなんですか?」
「敬語は要りませんよ。
互いに互いの命を救った仲ではありませんか。寂しいことはしないで」
「……どれくらい持つ?」
「一月……いえ、二週持てば良い方でしょうか」
ロザリーは咳き込み、赤く染まった手を見せつけてくる。
まるで、幼子が拾ったグミの実を己の手で磨り潰し、染まった両手を誇らしげに親へと披露するかのように。
「ちなみに! このわたし、ロザリー・フォン・マージライン! こんなところで、くたばるつもりは毛頭御座いません! ヒロさんと一緒に憎き万鏡の七椿を打倒し、マージライン家の行く末を見届けるのですから!」
「…………」
「ね、ヒロさん?」
さらさらとした金髪を揺らしながら、ロザリーは首を倒して微笑んだ。
「……そーね。
こんなところで、かのロザリー・フォン・マージラインがくたばるわけないか」
「はい、くたばるわけありません! 保証します! 保証書もおつけします! お得な保証権は、このロザリー・フォン・マージラインそのものです! なので、ご安心ください! ご安心ください! ご安心ください!」
「安定のご安心率の高さ、ありがてぇ……」
ロザリーは笑って、苦しそうに胸を押さえて蹲る。
俺は、彼女に寄り添い背を撫でながら布団に寝かせる。申し訳無さそうに、胸を押さえたままロザリーは天井を見上げた。
ぼんやりと、彼女は、四肢を放り出して天を見つめる。
「なぜ、わたしは生まれてきたのでしょうか……」
「…………」
「このまま、なにも成し遂げられずに死ぬのだとしたら……わたしがしてきたことは……叔母が花草を避けて歩いたことは……その後を付いて歩いてきたことは……なにもかもが無駄なのでしょうか……わたしがなにをしたところで、七椿の気まぐれで大量の人が死ぬとしたら……わたしのすることは無駄なのでしょうか……」
「…………」
「死の床に伏せた叔母のところに……叔母が面倒を視ていた子どもたちが見舞いに来たことがありました……その子たちは、無邪気な笑顔で叔母に花束を差し出しました……乱暴に引き千切られたその花々は、叔母が潰さぬように一生懸命に避けて歩いた野花たちでした……ソレを視た時の叔母の顔が……」
ロザリーは、両腕をクロスさせて顔を覆う。
「忘れられない……」
無言で。
俺は、目を伏せて、畳の目を見つめる。
「その翌日、図ったかのように叔母は亡くなりました」
「…………」
「叔母の親友の女性は、泣きながら必死で叔母の胸ぐらを掴んで揺さぶっていました。あまりにも物凄い勢いだったので、叔母とその親友の女性の共通の趣味である小説の山が崩れてしまうくらいでした。
魔力欠乏症で亡くなった叔母を納棺する際に、その女性は走り書きのメモを捧げてくれました」
「なんて?」
「偉大な頭脳にとっては、些細なものなどありえない」
ゆっくりと、俺は目を見開き――人影。
日本庭園に差した人の影、誰よりも早く反応したレイリーは一足飛びに庭へと飛び出し――俺は、彼女の左腕を捕まえて引き戻す。
「……なんの真似だ」
「見逃してやってくれ」
俺を睨めつけるレイリーへと首を振る。
「見逃してやってくれ」
「…………」
人影は消える。
俺の手を振り払ったレイリーは、舌打ちをして元の場所に戻った。
困惑しているロザリーに向かって、微笑みを返した俺は、どっかりと腰を下ろし彼女を見つめる。
「カルイザワに移動すること誰かに教えた?」
「は、はい……身近の者には……隠すようなことではありませんから……」
「そっか、わかった。
なぁ、ロザリー、ひとつ俺からも保証するよ」
片膝を立てた俺は、ニヤリと笑う。
「あんたは、なにも成し遂げずには死なないし、その志は気高きマージラインの血筋を引いた可憐な女の子が受け継ぐ」
「……ヒロさんは」
ロザリーは、嬉しそうに笑む。
「何時も、わたしの言って欲しいことを言ってくれますね……」
ゆっくりと、眼を閉じて。
薬の効能が現れてきたらしいロザリーは、眠りの世界へと誘われていき、俺は自分の小指を掴んでいる彼女の手を剥がした。
俺は、立ち上がって、襖に手をかけ――
「金輪際、お嬢様には関わるな」
レイリー・ビィ・ルルフレイムから忠告を受ける。
横目で。
俺は、壁に背を預けて腕を組んでいる彼女を見つめる。
「三条家の遊び人が関わることで、ますます、お嬢様の立場が危うくなる。先日の七椿の来襲の件もあって、半人半魔を保護しているお嬢様の肩身は狭くなる一方だ。頭のおかしい連中の標的になってもおかしくない、だから、カルイザワにまで逃亡する。
カルイザワにまで、貴様は付いてくるな。七椿討伐戦に参加した時点で、貴様の命運は尽き、塀の外からお嬢様を見守る時間は終わったと理解しろ」
「三条緋路がロザリーを見守っていることを知りつつ、見逃しててくれたのか?」
「……約束しろ」
レイリーは、静かに眼を上げる。
「お嬢様にはもう近づかないと」
「断る」
胸ぐらを掴まれた俺は壁に叩きつけられ、首に鋭利な爪を突きつけられる。
「誓えッ!!」
「……大事なお姫様が起きちまうぞ」
「いいから誓えッ!! お嬢様にはもう近づくなッ!! 貴様が遊び人のフリをしていることはわかっている!! お嬢様のことを本当に愛していることもッ!! だからこそ!! だからこそ、もうお嬢様には近づくなッ!! 貴様は、もう、越えてはいけない線を越えているんだッ!!」
「答えは変わらない」
俺は、彼女へとささやく。
「断る」
レイリーの爪先が首に沈み込み、激痛と共にだらだらと血が流れ始める。
「魔人の被害者の一覧表に、貴様の名前も並ぶことになるぞ……?」
「俺が、未来から来たって言ったら信じるか?」
一瞬。
レイリーは、呆けて力が抜ける。
「107年後の未来には、マージライン家やルルフレイム家の末裔もいるし、悲しいことに三条家にもクソ野郎が生まれたりする。この時代と比べれば、平和なもんだよ。魔人によって、あそこまで壊滅的な被害が出たりもせず、平穏を愛する女の子たちがキャッキャウフフと楽しい学園生活を謳歌していたりする。
でもなぁ」
俺は、レイリーの腕を掴む。
ゆっくりと、その爪を引き抜いていき、ごぽりと血が噴き出した。
「ココで俺がしくじれば、その未来は台無しになるんだよ……107年を賭して、ロザリーが護ろうとした未来がなくなっちまうんだよ……俺が護りたいと願った未来が、粉々に砕け散って消え去ることになんだよ……」
レイリーは、渾身の力を籠める。
だが、その爪は、それ以上先に進まない。
必死で押し引きを繰り返している彼女へと、俺は、ゆっくりとささやきかける。
「三条緋路の命運は、七椿討伐戦に参加して尽きた……仰られる通りだ……大切な女性を護ろうとしてヤツは死んだ……なぜ、自分が生まれたのかも知らずに消え去った……でもなぁ……ッ!!」
爪を押し返しながら、俺は、懐から取り出したロザリーの写真を突きつける。
「消えねぇんだよ、意思は……ッ!! ヤツが遺した意思は……消えたりしねぇんだ……譲れない矜持のために命を捧げた人間の意思は……生命が失せても失せたりしねぇんだよ……ッ!!」
押し返して。
俺は、レイリーの胸ぐらを掴み、壁へと思い切り叩きつける。
「俺も緋路もロザリーもッ!! 護りてぇモノのために、ココに立ってんだッ!! そこも定まらずに、余所見してるテメェがッ!! 立ち塞がる権利なんてねぇんだよッ!!」
「…………っ!」
レイリーは顔を背け、彼女の胸ぐらから手を離した俺は、ズキズキと痛む首の傷口を押さえる。
拳を握り締めたまま、立ち尽くすレイリーの横を通り過ぎ、俺は彼女へとささやきかける。
「よく考えろ」
俺は、彼女に視線を向ける。
「あんたの意思はなんだ?」
「…………」
答えはなかった。
だから、俺は傷口を押さえたまま外に出て、立ったまま月見蕎麦を啜っているアステミルを見つめる。
「おふぉひゅでひゅよ!!」
「飲み込んで?」
ごくりと飲み込んで、未来の我が師は俺の横に並ぶ。
「で、どうでした? うまくいきました?」
笑って、俺は、首に空いた穴を見せる。
アステミルは、笑いながら俺の傷口に塗り薬を塗り始め、その懐かしい臭いにこの時代からコレ使ってたんだと感慨深くなる。
「さぁて、徐々に役者も脚本も整ってきたぜ」
俺は、ニヤつきながら未来の師を見つめる。
「次は、立ち食い月見蕎麦娘の登場場面について語ろうか」
無言で。
アステミルは、蕎麦をズルズル啜ってから飲み込んだ。




