降臨の鏡夜
橙色の着物に臙脂色の行灯袴。
バンプスを履いた美しい少女たちは、往来では手を繋がず、人気のないところに着いた瞬間に指先を触れ合わせる。
恥ずかしそうにはにかんだふたりは、しっかりと手を繋ぎ歩き去っていった。
「……しんどい」
ゴミの奥に潜んでいた俺は、号泣しながら大正百合浪漫を目に焼き付ける。
「しんどい……しんど過ぎる……心が浄化される……鬱屈としたこの世に咲いた百合の花よ……咲き誇り給え、命短し恋せよ乙女……この美しき光景を護るために俺は存在するのだ……」
ゴミを押しのけて起立した俺は、背伸びして空を見上げる。
「んじゃあ行くか」
ぼそりとささやき、ひとり、大通りへと歩き始めた。
1883年。
明治の外務卿による宥和政策の一環で建てられた鹿鳴館。
人の栄える時代から、度々、発生していた『神隠し』により、現界と異界は意図せずして異文化交流を果たしてきた。
明治の世においては、神隠しで現れた半人半魔は保護対象にあり、転移の儀式によって現界に足を運んでいたエルフや龍人や精霊種は、当時の政府と友好的に接しており不可侵を暗黙の了解としていた。
現界と異界を繋ぐ社交場として機能していた鹿鳴館は、ルルフレイム家やフリギエンス家といった有力華族(異界では種族と家名による階級分けが行われているが、正確に言えば華族のような特権階級は存在していない)に留まらず、かのルーメット王家まで招き豪華絢爛な接待を行っている。
この時代、現界と異界は、少なくとも表側では上手くやっていた。
だがしかし、大正の世で流れは変わる。
日本に現れた万鏡の七椿……魔人という名の災害に襲われた日の本は、徐々に政策を歪めていき、軍閥が幅を利かせるようになってきていた。
斯くして、現界と異界の関係性は急激に悪化し、本来の目的を遂げられなくなった鹿鳴館は華族会館へと姿を変えており、華族同士の馴れ合いと差別主義者を生む温床へと変じてしまっていた。
そんな鹿鳴館は、現在、本来の機能を取り戻そうとしている。
燕尾服を纏った俺は、無銘刀を腰に差して蝶ネクタイで喉元を締め、黒の長髪を後ろで縛っている。
金唐紙の壁紙が貼られた豪奢な壁。
異界と外国から持ち込まれた西洋文化と日本の七宝文化が絡み合い、吊り下がるシャンデリアからはゆるやかな光が舞い散っている。磨き上げられた木張りの床には、礼服を着込んだ異界と現界の有力者が集っていた。
白綸子地に菊や桜といった華柄を刺繍したバッスル・ドレスを着たロザリー・フォン・マージラインは、ふわりとした金髪を結い上げて、マージライン家の家宝たる首飾りを胸元で輝かせていた。
彼女は、レースの手袋で彩られた美しい指先を俺に差し出した。
微笑んで、俺は、その手を取る。
俺と彼女は、ほんの一瞬、目を合わせて意思を共通させる。
さぁ、始めようか――魔人殺しの舞踏会を。
「皆様、本日はお集まり頂きましてありがとうございます」
俺にエスコートされ、中央のシャンデリアの下まで導かれたロザリーは微笑む。
「本日、お集まり頂きましたのは――」
「ご歓談は結構」
金銀財宝。
全身を綺羅びやかな宝物で飾っている一匹の龍人は、金銀と鱗で覆われた両手脚を綺麗に組んで微笑んだ。
「人が龍に求めるのは力だろう、お嬢さん?
この状況下で、我がルルフレイム家に悪辣な日本政府の醜い面を拝ませた理由ってものがあるんじゃないのかぁ? ぅうん?」
ねっとりとした火焔の息吹を吐き、金と銀の鱗を持つ美しい龍人を侍らせたオルゴォル・ビィ・ルルフレイム、龍人の王たる彼女は指輪で塗れた五指をじゃらつかせる。
「おっと、言葉を間違えるなよぉ、人間」
ニヤニヤと笑いながら、牙を剥き出した彼女は、ロザリーのお付きの従者であるレイリー・ビィ・ルルフレイムを指差した。
「慈悲深いオレは、同門のソイツの願いを聞き入れてやったに過ぎない。仲良くお手々繋いで舞踏会なんて、けらけら、お笑い草でパパラチアサファイアを吐いちまいそうだ。
本来なら、オレはぁ、こんな安普請のゴミ屋敷に来たりはしない」
「……貴様」
肩を怒らせた外務省員が、オルゴォルに食って掛かろうとし――飛び込んだ俺は、彼女を床に引き倒し――現在まで彼女が居た箇所が発火した。
宝石。
指で小さなルビーの欠片を指で弾いたオルゴォル・ビィ・ルルフレイムは、色眼鏡をズラして口端を歪めた。
「どうした? うぅん? 『貴様』の次はぁ? あぁ? 言ってみろぉ?」
「…………」
顔を真っ青にした外務省員を背後に隠した俺は、鯉口に手を当てたまま、微笑を浮かべてオルゴォルを睨めつける。
「大変失礼いたしました。
我々としても、炎を介したご歓談は望んでおりません。大翼を休める龍が、貴重な宝石を通して力を訴える必要など御座いません。一言。一言、『止めろ』と申し付けて頂ければ、俺が貴女様の代わりに望みを叶えましょう」
「おまぇ……」
ニヤつきながら、彼女は、王冠を上下に振った。
「良い殺気だぁ……おまぇ……良いぞぉ……咄嗟に魔力線を通して魔力を籠めたな……魔法士か……質が良い……うぅん……良いぞぉ……」
微笑を浮かべたまま。
胸に手を当てた俺は、膝をついたまま黙礼する。
「単刀直入に言いましょう」
その間隙を縫って、ロザリーはよく通る声で言った。
「我々は、明治期に推し進めていた宥和政策を取り戻そうと考えております。かつて、現界と異界の仲立ちを行っていた井上外務卿は魔人の現出により失脚し、外務省は軍閥に唯々諾々と従う傀儡となっています。
このままでは、いずれ、現界と異界の間で戦が起こる」
異邦人として。
現界に迷い込み現界の人々により殺されかけ、ロザリー・フォン・マージラインという名の現界の人間に助けられた半人半魔の従者たちは、恩義を胸に掲げて彼女の後ろで背筋を伸ばし起立している。
彼女らの視線を受けながら。
「わたしは、ロザリー・フォン・マージラインは」
眩いばかりの光を浴びたロザリーは、輝きながら必死で訴えかける。
「命を無為にしたくはない」
「耳障りの良い言葉は結構だが」
神殿光都の代表団の一員として、派遣されてきている十三の氏族のうちのひとつ、キール家のエルフは首を振った。
「現界と異界の仲の修復は不可能だ。綺麗事で飾り立てられた世の中の行き着く先は、破滅の二文字でしかない。
豊かな人間が慈善事業に走るのは結構だが、その陶酔に巻き込まれる側の身にもなって頂きたい。宥和政策を推し進めるということは、現界の政府と真っ向から対立するということ、それ即ち、新たな対立の火種を生むことと同義ではないか」
精霊種の代表団から同意の声が上がり、ロザリーに賛同している華族のお嬢様たちは不安そうに顔色を変えた。
「ならば、その火種に水をかければいい」
魔法陣を描いたレイリーは、燃えている床に水弾をぶつけ――鎮火して焼け焦げた床を見つめ、ロザリーは微笑を浮かべた。
「そうすれば、我々が踏みしめる床になります。
宥和とは、対立する他者すらも巻き込んで、ひとつの流れと化すことに他ならないのではありませんか?」
「なにを得られる?」
オルゴォル・ビィ・ルルフレイムは、黄金の懐中時計を眺めながらささやく。
「オマエに時を費やして、オレたちはなにを得られると宣う?」
「四季を」
微笑を浮かべたまま、オルゴォルに歩み寄った彼女は、その有効射程距離に踏み込んでからささやいた。
「桜吹雪で染まった春を、湖面に浮かぶ涼気に満ちた夏を、銀杏と紅葉で彩られた秋を、一面の銀景色を望む冬を。
そして」
茶目っ気溢れる笑顔を見せたロザリーは、オルゴォルの首に家宝の首飾り、大粒の蒼玉がついたソレをかけた。
「美味しいアイスクリームが食べられます」
オルゴォル・ビィ・ルルフレイムは――口端を歪める。
「良い財だ」
「ふふっ、恐れ入りま――」
身体をくの字に折って、咳き込んだロザリーは白のレースの手袋に喀血し、駆け寄ろうとした従者たちを真っ赤に染まった手で止める。
「わたしには……時が……ありません……」
赤。
胸元を血で染め上げた彼女は、顔を真っ青にして、ぜいぜいと息を荒らげながらつぶやく。
「七椿の手で殺められた叔母からは……『この地に宿る命を大切にしなさい』と教わりました……それは幼子に言い聞かせる普遍的な教訓だったのかもしれません……でも、わたしの胸には残り続けている……道端に咲く草花すらも潰さぬように歩く叔母の姿が……消えないのです……」
口端から流れ落ちる血が、ドレスに染み込み、命の色へと変わっていく。
「現界も異界も……同じ地ではありませんか……争って……争ってどうするのですか……これ以上、命を費やしてなにが得られるのですか……なんの罪もない幼子に有り余る力をぶつけて八つ当たりをするようなこの世が……正しいと言えるのですか……っ!!」
必死に、彼女は、血反吐を漏らしながら口を開いた。
「わたしは……わたしは、土砂降りの中、屍体の山からひとつの命を……残った命を見つけ出して……嬉しかった……なぜ、叔母が草花を避けて歩くのか……ようやく……ようやく、わかった……綺麗事、結構……慈善事業、結構……お嬢様の道楽と受け取って頂いて結構……わたしは……ロザリー・フォン・マージラインは……」
ふらふらと、崩れ落ちそうになった彼女を――俺は、支える。
彼女は、微笑を浮かべ、俺に支えられたまま消えかけている命を吐いた。
「命のために命を懸けましょう」
その宣言と同時に、場は静まり返り――勢いよく扉が開いた。
「七椿ですッ!!
万鏡の七椿が帝都に侵攻し――」
と同時に、天井が吹き飛び、耳を劈くような破壊音と共に夜空が剥き出しになった。
吹き込んだ突風、巻き起こる悲鳴、視界に広がった夜の空。
空に浮かぶは、ふたつの月。
否、そのうちのひとつは――鏡像。
空を埋め尽くさんばかりの怪異を引き連れた魔人は、鏡面上の万面鏡像をもってこの地を見据え、月を映した巨大な鏡を両側面に引き連れ、歓喜で身を震わせながら絶叫した。
「妾・降・臨ゥンンッ!!
勝鬨ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
ぐるぐると、巨大な鏡は回転し、空間に亀裂が入る。
そこから、凄まじい数の怪異が押し合いへし合いながら溢れ出し、ひとつの百鬼夜行となって蒼白い魔力光を発した。その光は宙空に生み出された鏡から鏡へと乱反射し、宵闇は煌々と照らされ一瞬で不夜城と化した。
「ビィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイムッ!!」
ぼっ。
七椿が抱いた円圏素文鏡から、極大の光線が放たれ、静かな小夜を切り裂き帝都の街に一本の線が走った。
一瞬の静寂の後。
猛烈な勢いで爆発音が鳴り響き、床から身体が浮き上がり、火柱が打ち上がった帝都は火炎に包み込まれる。
「妾・最・高ッ!! 妾・最・高ッ!! 妾・最・高ッ!! 敵なし理由なし邪魔立てなしッ!! ほほっ、ほほーっ!! やはり、妾の美と力が映えるのは暴虐と残虐と加虐に満ちた夜ッ!! 終焉を映した我が鏡こそが、妾に寄り添う伴侶として相応しいッ!!」
幾千もの怪異に包まれ、蒼白い鏡光を四方八方に吐き出している万鏡の七椿は、五衣唐衣裳を揺らしながら、龍や鬼や獣の背の上でステップを踏み、逆光の中で両手を絡ませ天上へと向けた。
「妾・最・高ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
飛んできた破片で額を切って血に塗れた俺は、ロザリーを腕に抱きながら、湧き上がる憤怒に任せて怒号を発する。
「七椿ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ!!」
咲いながら、魔人は、二本目の光線を帝都へと放った。




