大正時代の三条さん
目が覚める。
「…………」
当然のように、見知らぬ家屋の畳の上に寝かされていた。
開け放たれた窓からそよ風が吹き込み、由緒正しき日本庭園が目に入ってくる。庭石や草木が配置された庭園には、灯籠と東屋が設置されており、錦鯉が泳いでいるであろう池が中央に位置していた。
鈍い痛みがある。
傷口に手をやると、包帯が巻かれており、適切な処置が行われていた。
ゆっくりと身を起こす。
「…………」
部屋には楕円形の鏡台があり、見知らぬ誰かが映っていた。
黒髪、美形。
長く艶めいている黒髪を後ろになびかせ、中性的な容姿を見せびらかしている。どことなく女装燈色に似ているが、ヤツとは違って凛と張り詰めた雰囲気があり、鋭い目つきに険があった。
「あ、どうも、助けてもらっちゃったみたいで……」
へこへこしながら、俺は、彼女に頭を下げる。すると、鏡の中の彼女も、へこへことお辞儀を返してくる。
なに、猿真似してんだコイ――
「鏡に映ってるの俺じゃねぇかぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! 三条燈色じゃねぇええええええええええええええええええええええええええええええええええ!? 誰だコイツぅううううううううううううううううううううううううううううううううううう!?」
パニックに陥った俺は、大声を張り上げる。
その大声を聞きつけたのか、廊下からバタバタと足音が聞こえてきて、ひとりの少女が襖を勢いよく開いた。
「どうなさいまし――ふぎゃぁ!!」
彼女は、なにもないところで躓き、俺の胸に飛び込んでくる。
柔らかくて、細くて脆そうな身体。
西洋人形。
そんな印象を抱かせる小柄な彼女は、金色の髪先を自然にカールさせている巻き毛で、蒼色の瞳をこちらに向けていた。紫陽花柄の絽を着た彼女は、恥ずかしそうに頬を染めて俺を見上げる。
「……も、申し訳ございません」
ささやくようにそういった彼女は、バッと立ち上がり、お櫃の蓋を構えてキョロキョロと辺りを見回した。
「そ、それで賊は!? 賊は何処に!?」
「い、いや、別に賊はいな――」
「この御方は、わたし、ロザリー・フォン・マージラインが後見しております!! 殺すなら、その前にわたしを殺しなさい!! 病身ながら、わたし、負けん気だけは負けません!!
さぁ、来なさ――ふぎゃぁ!!」
着物の裾を踏んだ彼女は、ころりと後ろに倒れて俺の胸に戻ってくる。
「……か、重ね重ね」
「あ、はい。大丈夫です」
顔を真っ赤にして、両手で顔を隠していた彼女は、ようやく落ち着きを取り戻す。
美しい所作で、俺から距離を取って正座した。
「ぞ、賊がいないということで安心いたし――げほっ!」
彼女は、俺から顔を背け、涙を滲ませて咳き込んだ。
「げほっ、げほっ、かはっ!」
その咳の音を聞いて。
彼女が命の恩人であると確信し、慌てて、俺は背を撫でてやる。
「す、すみませ……げほっ……コレでは、あべこべですね、ふふ……怪我人に病人の世話をさせるとは……マージライン家の名折れです……」
「……ロザリー・フォン・マージライン?」
そこで、ようやく、寝起きでぼやけていた俺の頭が実像を結んだ。
不思議そうに、彼女はこくりと頷く。
「はい、わたし、ロザリー・フォン・マージラインです。
失礼ながら、どこかでお会いしたことが……?」
ロザリー・フォン・マージライン。
幼少の頃から魔力欠乏症に苛まれ、お嬢に『彼女がいなければ、今日のマージライン家はなかった』とまで言わしめた女性……お嬢と一緒にマージライン家の玄関ホールで眺めた写真……額縁に収められていたそのひとりが、俺の前で息づいていた。
「い、いえ、会ったことはないです。あの、はい。本当に、その、この度は命を助けられまして……ありがとうございました」
正座した俺が、深々と頭を下げると、彼女は慌てて手を振った。
「いえいえ! いえいえいえ! いえいえいえいえいえ!! そんなそんな!! わたし、あの、魔人討伐に赴いた方々の中で!! 生き残っておられた方がいたというだけでも!! 感謝感激しております!!」
「……魔人討伐?」
「……此程、帝都を脅かしている万鏡の七椿の討伐に赴いたんですよね?」
「帝都……ココは、東京ってこと……?」
「トウキョウ……トウケイ……あぁ、気象報告でもそう呼ばれていますね。ハイカラですね、わたしは、まだ帝都と呼んでしまいますが」
まだ、この時代は『東京』という通称が一般的には定着してないのか。公的には東京という呼び名で呼ばれていたんだろうが……東京駅が完成するのも来年だし、大正二年ではまだ馴染みがないのかもしれない。
「実はですね、どうも、頭を見事にすこーんっと打った模様でして。その衝撃が記憶をばこーんっと吹き飛ばして、ずこーんっと我を見失ってしまったんですね。はい」
「では、御自身が何者なのかもわからないんですか?」
「そうみたいですね、なんて可哀想なんだ」
「うぅ……自分で自分を哀れむなんて……可哀想……」
ロザリーはハンカチを目に押し当ててから、俺の手を取った。
「ご安心ください! わたし、ロザリー・フォン・マージライン! 貴方様の記憶が戻るまで面倒を視ます!! ご安心ください!! ご安心ください!! ご安心ください!!」
「三回も言ってくれるなんて……なんて、安心度の高さだ……!!」
「はいっ!! ご安心率には定評があります!!」
彼女はえっへんと胸を張り、俺は、思わず拍手を送り――襖が開いて、こちらを睨めつける龍人の女性が姿を現した。
「お嬢様、その必要は御座いません。
彼の名は、三条緋路。三条家の有名な遊び人で、女と遊ぶための金を工面するため魔人討伐に参加し命を落としかけた愚か者です」
「三条……」
俺は、ぽかんと口を開いて――
「緋路ォ!? 俺がァ!? はぁ!?」
「こ、こら、いけませんよ、レイリー! 彼には、記憶がないのですから! せっかく上げたご安心率が落ちてしまいます!」
「記憶があるもないも関係がありません。彼には帰る家も面倒を視てくれる家もあるのですから、お嬢様がわざわざ関わる必要はひとつもない。むしろ、面倒事の種になるし、既に嗅ぎ付けた三条家の者が表に迎えに来ている」
いやいやいや!! 待て待て待て!! 意味がわからんのだが!? 大正二年にタイムスリップして!? それで、俺の意識は三条緋路の中にあるって!? ていうか、七椿のヤツ、俺のことを『三条緋路』とか呼んでたよな!?
それに、現在、三条緋路のことを『三条家の有名な遊び人』って称さなかったか……!?
――実際に決戦を主導したのは、リーデヴェルト家と三条家の人間……ルミナティ・レーン・リーデヴェルトと三条名無し
つまるところ。
――ただ、女癖が悪かったのは確からしく『三条家の遊び人』として口伝で語り継がれてる
この時代にカルイザワ決戦を主導した三条名無しは……三条緋路……?
――彼女らはふたり仲良く、エスティルパメント・クルエ・ラ・ウィッチクラフトに首を撥ねられた
それって、もしかしなくても――額からたらりと汗が垂れる――マズくね?
「彼を引き渡しましょう。命を救っただけでも十分な筈だ」
「いけません! 傷が開いたらどうするのですか!? 少なくとも、この傷が癒えるまでの間はマージライン家で預かるべきです!!」
三条緋路は、女性じゃなかったのか……?
いや、そうか、この髪の長さは……女だと偽っていたのか……男であることが弱みになる世界だ、この時代、女性だと己を偽って生きていてもおかしくない……三条家にそう強制されていたのかもしれない……。
しかし、仮にも、三条家の人間が魔人討伐戦に参加したりするのか?
おいおい、嫌な予感がするんだが。
足音。
ドタドタと廊下を歩いてくる音がして、着物姿で帯刀している三人の女性が現れ、こちらを睨めつける。
「緋路様」
彼女らは、跪き、そっと目を上げた。
「お迎えに上がりました」
「貴女たちは、面白いことを言いますね」
俺を護るように、前に立ったロザリーはささやく。
「堂々と帯刀している人間が迎えに? 見たところ、軍人でも警官でもないようですが廃刀令はお忘れですか?」
「……魔人現出に伴い、有事の帯刀は禁じられていない」
「ただの御迎えが有事……なぜ、鯉口に手を置いているのですか」
「…………」
俺は、ロザリーに足払いをかける。
「きゃっ!」
彼女の前髪の数本が切れ落ちて宙を舞い、抜刀を終えた三条家の刺客は目を見開き――ロザリーを布団に下ろした俺は既に飛び出している。
「残心が甘ぇんだよ」
前蹴りで、一人目の手首を蹴りつけ刀を落とす。
続けて、刀を抜こうとした二人目よりも速く、彼女の鞘から刃を抜き放った俺はその喉に刃先を押し当てた。
「頸動脈」
俺は、微笑んで、刃を動脈に当てる。
「ココだろ?」
「……だ、誰だ、お前?」
「意外と記憶だけでも、動きは再現出来――」
咆哮を上げて、三人目が上段から斬りかかってきて――その刀身が燃え上がり、どろどろと溶け落ち、悲鳴を上げた彼女は火傷した手から刀を取り落とす。
「貴様ら」
龍人の女性は、煌々と燃える両眼で刺客たちを見下ろす。
小瓶から落とした蒼白に輝く粉で、畳の上に魔法陣を描いた龍人は、左の手のひらを右の人差し指と中指で弾き飛ばし――落とした刀を拾おうとした刺客は炎弾で吹き飛ばされ、割れ落ちた窓と一緒に池に落ちる。
「誰に手を出したか、あの世で閻魔に教えてもらってこい」
「ま、魔法士か……!?」
ちらりと、龍人の彼女は俺に視線で合図を送ってくる。
俺は、眼前の三条家の女性を蹴り飛ばし、奪い取った鞘に刀身を仕舞い、庭に走り出てそのまま塀を越える。
「ヒロさんっ!!」
「ありがとうございました!! いずれ、この借りは返すっ!!」
見慣れない街並み。
擬洋風建築の建造物が並び、路面電車と馬車と人力車が走り、殆どの人間が着物を着ている帝都を走り抜ける。
刀を持って裸足で駆けている俺を訝しむように眺める人たちの装いは、かつて、教科書で視た通りのものだった。
走って、走って、走って。
想定よりもずっと早く、限界を迎えた俺は、へろへろになって地面に座り込む。
「ご、五キロも走ってねぇのに……こ、コイツ、体力なさすぎだろ……つーか、魔導触媒器がないから……か、身体も刀も重い……強化投影くらい使わせてくれ……」
ぜいぜいと喘ぎながら、俺は、吐きそうになり――気配。
刀を抜き放ち、汗だくの俺は、裏通りに潜んでいる人影と相対する。
「どぉどぉどぉ、安心したまえ」
ゆっくりと、その影は、俺に近づいてきて――
「所謂、天才、私だよ」
鹿撃ち帽をかぶった洋服の少女は、ニコリと微笑んだ。




