大正二年六月二十日
万鏡の七椿の権能は、対象を任意の時空間に召喚することだ。
原作の設定資料集によれば。
七椿の持つ魔眼『鏡面上の万面鏡像』は、己も含めたすべての生物の生まれてから死ぬまでの生涯を『鏡像』として見通すことが出来る。
鏡像とは、生物の持つ歴史であり、その時空で生存していた証左である。
要するに、魔眼によって過去と未来を見通し、対象を己の支配領域である『鏡の国』に招き入れて行うタイムスリップだ。
魔人は支配領域を通して、眷属や魔物の召喚を行っているが、その召喚の時間と空間を任意に指定できるモノだと考えればわかりやすい。
例えば、三条燈色という生体の持つ歴史は、現状、0歳から16歳までであり、七椿は己の権能により彼を赤ん坊の時代に飛ばしたり、小学生の頃にまで戻したりすることが出来るし、また、彼女だけが視える未来にまで早送りすることも可能だ。
ただし、彼女が飛ばすことが出来るのは対象の意識のみだ。
そのため、三条燈色が高校生の時に赤ん坊の時代に飛ばせば、高校生並の知識と経験を持ったスーパーベイビーが誕生する。
やったぜ!! 赤ん坊からリスタートだ!! チートチート!!
とか、喜んでられるかと言えばそうでもない。この権能の凶悪なところは、空間すらも指定出来るというところだ。
万鏡の七椿はその気になれば、0歳児に戻した三条燈色を水深10000メートルのマリアナ海溝チャレンジャー海淵に召喚することも出来る。
17歳並の知識と経験を持ったスーパーベイビーでも、水深10000メートルに召喚されれば水圧で潰れておしまいである。
残念ながら、エスコという百合ゲーは、ピコンピコンとメッセージを出しながら、水圧耐性やらのスキルを大量獲得して生き残っちゃうタイプの世界観ではない。
エスコではよくあること、魔人特有の初見殺し。
原作でも、地下天蓋の書庫イベントを通して、万鏡の七椿の権能が明らかになり『どのようにして、その権能を防ぐか』に焦点が当てられる。
イベントを通して対策を講じなければ、1ターン目に『時空間転移召喚』を発動され、急に主人公が消えたかと思えば、GAME OVERになるという理不尽ゲーっぷりを見せつけてくれる。
なぜ、俺は、百合ゲーをプレイしていた筈なのに、魔人相手にタイムスリップ対策を講じているんだろう……。
コントローラーをポチポチしながら、当時の俺は虚無に陥っていたものだが、実際に魔人と対面しているのだから虚無感に感じ入っている場合ではない。
『タイムスリップ』という七椿の権能を踏まえて、俺が講じた策とはなんだったのか。
俺は、魔人の力は魔人の力によって歪められるという観点をもって、七椿の権能を逆に利用して任意の時空に飛ぼうとしていた。
本来、フェアレディの夢畏施の魔眼に囚われた対象は、彼女の支配領域である『夢の国』での記憶を持ち帰ることが出来ない……だが、アルスハリヤは、その前提を捻じ曲げて、俺とクリスの記憶を現実へと持ち帰った。
フェアレディ戦での前例によって確信を抱いた俺は、今回の分岐点となる『三条燈色がカルイザワに居た時代』に戻り、七椿が探し求めている『あの魔導書』を処理しようと考えていた。
ほぼ、確信しているが。
七椿の封印は、半分、成功している。
七椿の魔力は107年前のカルイザワ決戦で、彼女が『あの魔導書』と呼んでいる魔導書に封じられており、彼女は本領を発揮することが出来ていない。
そして、その魔導書は、七椿が勘付いていた通りにマージライン家が持っている。
だからこそ、オフィーリア・フォン・マージライン……お嬢は七椿派に狙われており、危機に陥ろうとしていた。
なぜ、107年間、マージライン家はその魔導書を処理しなかったのか。
その理由は、マージライン家が抱いてきた『魔力欠乏症』と関係がある筈だ。
ロザリー・フォン・マージライン。
ルミナティ・レーン・リーデヴェルト。
三条名無し。
この三者が紡いだ『107年を賭した魔人討伐戦』は、マージライン家が受け継いだ呪縛、魔力欠乏症を基点としているのだろう。
すべてを明らかにするためにも、俺は地下天蓋の書庫に足を運んで、万鏡の七椿と邂逅しなければならなかった。
――地下天蓋の書庫には行くな
それこそが、『三条燈色がカルイザワに居た時代』に飛んだ俺からのメッセージの真意だと思っていたのだが。
なぜ、俺は、大正二年にいるんだ?
疑問が渦巻く中、腹の傷を押さえた俺は、必死に応急手当てを行う。
「…………ぐっ」
かなりの深手だ。
魔人の肉体修復を活用するため、人体構造を学び、応急処置を会得していなければ止血も出来ずに死んでいただろう。
手元に魔導触媒器はない。
覚束ない手付きで、屍体の服を破って腹の傷を圧迫止血した俺は、渦巻いている疑問に苛まれ続ける。
おかしい。
三条燈色が、大正二年に生まれているわけがない。ジュラ紀に生を受けたと豪語するどこぞの白髪メイドでもあるまいし有り得ない。
――過去も未来も、鏡像が視えんと思うたら
七椿の言っていたあの言葉。
――理の外におるな
理の外……俺は転生者で、この世界の住人ではないことを見通された……俺の意識、つまり、精神は三条燈色のものではないから……七椿の権能によるタイムスリップは失敗してしまったのか……?
「だとしても……なんで、大正二年に三条燈色がいるんだよ……」
腹を押さえながら。
俺は、屍体のひとつひとつを見分し、生き残りが一人もいないことを確認する。
「アルスハリヤ……アルスハリヤ、いるかっ!? アルスハリヤッ!!」
ザーザー降りの中、必死に声を張り上げるがアルスハリヤからの応答はない。
そもそも、俺の裡からアルスハリヤの魔力が感じられない……体内を巡っている魔力量が少なすぎる……空気中に漂っている魔力が少ないのか違和感を覚える……筋肉量が足りていないのか足元が覚束ない……。
やべぇ。
眼が霞んできた。血が足りない。
ふらふらと、屍体から回収した刀を杖にしていた俺は、力の入らない足でふらふらと歩き続ける。
ちくしょう、やられた……なにがなんだかわからないが……七椿の権能で、大正二年に飛ばされて……あのクソ魔人の望むとおりに……ココで死ぬのか……。
力尽きた俺は、どさりと、泥濘の中に倒れ込む。
悪ぃ、月檻……しくじった……あとは頼む……あの子たちのこと……百合を……護ってくれ……お前なら……大丈夫だろ……?
温かい泥の中で、俺は、安寧の眠りに身を任せようとし――
「もし」
雨が止んだ。
「もし」
呼びかけられている。
眼を開けて、上を、見上げる。
俺に傘を差し掛けた少女が、泥と血でまみれ、涙を流しながら微笑んでいた。
「生きていた……良かった……」
「…………」
彼女は、小さな身体で、必死に俺をおぶって歩き始める。
「げほっ!! げほっ、かはっ、げほげほっ!!」
「…………」
病身だ。
彼女は苦しそうに咳き込みながら、何度も泥の中に膝をつき、それでも俺を見捨てずに歩き続ける。
「大丈夫ですよ……大丈夫……きっと助かりますから……誰かっ!! 誰か、来てっ!! 誰か、誰かっ!!」
泥の中に馬車が止まって。
必死の形相で、捻くれた角を持つ龍人や精霊種、半妖の女性たちが駆けてくる。
「お嬢様!! なぜ、こんなところに!? 使用人たちは!?」
力尽きた彼女は抱き留められ、ぜいぜいと喘鳴を上げながら微笑む。
「屋敷に……帰られました……付き合ってられないと……」
「あの連中……ッ!!」
「この女性は?」
「生き残りです……助け……ないと……他の人たちは、全員、死んでしまった……誰も誰も……」
龍人の女性に抱き締められ、少女は嗚咽を上げる。
傷の具合を確かめるためか、俺の服の前が開けられて――息を呑む音が聞こえた。
「……男?」
「男だ。
髪を伸ばしているし、女のような面をしているが確かに男だ」
「どうしますか?
さすがに、男を屋敷に連れ帰るわけには……」
「お嬢様に拾われておきながら、今更、バカなことを言い出すな!!
彼を連れて帰るぞ。お嬢様に付いていた使用人たちの氏名をまとめておけ。奴ら目にもの見せてやる」
俺と同じように、ぐったりと。
半ば意識を失っている少女は、龍人の手に抱かれ、俺もまた異界の民たちに担がれて運ばれていく。
どこへ行くのかもわからずに。
俺は、ゆっくりと意識を失った。




