鏡を抜けた先は闇
鏡。
四方八方が鏡に囲まれている。
俺が足を踏み入れた瞬間、鏡の中を伸びていった足が上方に着地し、縮んだ右腕が真下を指していた。
「臭いが濃いな」
アルスハリヤは、袖で口元を覆って顔をしかめる。
「七椿の巣だ」
四方八方、合わせ鏡。
真正面の鏡に映る俺は、鳳嬢魔法学園の制服を着ていた。
笑いながら駆け回るパジャマ姿の俺が足元に視えて、幼い姿の三条燈色が椅子に腰掛けてこちらを凝視し、様々な年代のヒイロが姿かたちを変えながら拍手喝采を送り、俺は鏡に映っているとおりの制服姿になっていた。
「おっ、変態卒業」
「卒業証書片手に浮かれてる場合じゃないぞ。とっとと脱出しろ。七椿の気色悪い臭いが移るだけならともかく、君自身の精神も侵食されて、ヤツのことを敬愛するクソ脳みそに変えられる」
俺は、とりあえず、正面の三条燈色の顔面に拳を叩き込む。
耳をつんざくような大音響がブチ撒けられ、鏡中のクソ男が弾け飛ぶ。にんまりと笑った俺は、肘で背後の鏡を打ち壊した。
「モグラ叩きならぬクソ男叩きだぜ。
上流階級で流行るね」
「上に位置する人間が己の拳を痛めるかよ。何時の時代も、自身を痛めつけるのは下級の役目だ。
おい、来るぞ」
飛び散った鏡。
それらは鋭利な切っ先を掻き集め、ひとつの刃と化し、勢いよく渦巻きながら俺へと突っ込んでくる。
バックステップを踏みながら躱した俺は、九鬼正宗を抜刀しようとし、そこになにもないことを思い出し舌打ちをする。飛翔してきた鏡を腕で受けてから、俺は、腕時計みたいにそれを前に突き出した。
「腕鏡」
「はいはい、コレで、何時でも髪を整えられるな。
出口を探せ。こんなところで、変態卒業直後の輩と心中なんて、この僕に相応しくない」
「出口たって」
俺は、血まみれの右腕で、鏡の刃を受けながらつぶやく。
「どこもかしこも鏡だろ……『鏡の国のアリス』じゃあるまいし、鏡を通り抜けて異世界に迷い込んだりは出来ねぇだろ」
鏡の中。
そこに映る俺は、笑いながら鏡の刃に串刺しにされており――眼が合って――
「バカ、視るなッ!!」
全身に鏡刃が突き刺さる。
「ぐっ……!!」
ぼたぼたと全身から大量に出血し、外部の魔力を取り込んで治療しようとするものの、なぜかソレは上手くいかず血まみれになる。
「ココは、七椿の巣だ! つまり、七椿の腹の中! 魔人は魔力で出来ているのだから、この中に存在しているのは七椿を構成する魔力のみ、外の世界の外部魔力のように好き勝手には使えないぞ!!」
「要は、致命傷を負ったら終わりってことね……オーケーオーケー……大体の法則は把握出来た……このまま長居したらご迷惑をおかけしちまいそうだしな……」
俺は、顔を上げて――眼を閻く。
「良い子の俺は、そろそろ帰る時間だ」
緋。
全身に染み付いた血はふつふつと煮え滾り、表皮から発生した緋色の霧は、鏡という鏡に纏わりついていく。宙空に視え始めた経路は、緋色の道と化し、ありとあらゆる箇所に走った管がどくんと脈打つ。
指先で。
緋色の道をなぞり、血管のように脈打ったソレは、凄まじい勢いで最善を模索し――反動――眼と脳を痛めつけた俺は、両眼を見開き、飛んできた鏡を握り潰して――ぱらぱらと、赤色の光を撒いた。
「視えた」
突っ込む。
俺の頬を掻き切った鏡刃を顔の横で握り締め、飛来してきた第二の刃をソレで叩き落とし、粉々に砕け散ったきらめきの中を潜り抜ける。
鏡の世界の中で。
紳士服を着た小さな三条燈色は、微笑みながら両手をポケットに突っ込み、俺は真っ赤に染まった右掌を前に差し出した。
呼吸。
吸って、吐いて。
丹田に溜め込んだ内部魔力、そのすべてを四肢に回し、かつて敵に回した最悪の姿を脳裏に思い描いた。
この手は、死神を象る。
弓を引き絞るかのように、内へ内へと、食い込む肘を引きつけて。
ただ、魔力を籠める。
魔力で作られた魔人の肉体、即ち、己の表皮と血液を霧に変じて魔力変換し拳に捧げた。
「お前にはいない姉からのプレゼントだ。
その薄汚ぇ面で、気持ちを受け取れ」
俺は、体外の血液で赤黒く、体内の魔力で蒼白く、鈍く輝いた拳を――打った。
「宣戦布告だ」
顔面に、入る。
俺の拳を中心に放射状に広がった割れ目は、たったの一撃で破滅を招いて、破砕音と共に鏡は砕け散った。
穴。
眼前に広がった穴の中へと滑り込み、うさぎの穴にまっさかさまに落ちていったアリスみたいに俺は落下した。下から吹き付ける強風に煽られながら、足から落ちていく俺は、ただただ浮遊感に身を任せ続ける。
落ちて、落ちて、落ちて。
「うおっ!?」
急に、下ではなく横に落ち、俺は思い切り後頭部を打ち付ける。
「ぐぉお……ぉお……!!」
狭い。
倒れ込んで、ごろごろと転がりたいくらいの激痛だったが、狭苦しい場所にいる俺は直立したまま呻くことしか出来なかった。
「やれやれ、君と一緒にいると退屈しないね……こんな月並みなセリフを口にするとは、僕らしくもないが、その通りなのだから仕方あるまいよ」
暗闇。
なにも視えない真っ暗闇の中、目の前の空間に両手を這わせて、滑らかな手触りに顔をしかめる。
「コレ、木か……壁……いや、継ぎ目があるな……?」
どこかで、嗅いだことのある匂いだ。
この特徴的な匂い……どこで嗅いだことがあったのか……駆動音……機械……いや、魔力を感じる……敷設型特殊魔導触媒器か……ちくしょう、動けねぇぞ……助けを呼んでみるしかないか。
どんどんどんと、俺は、眼の前の壁のような何かを殴りつける。
「おい! 誰か! 誰かいないか!! ちくしょう、誰もいないのかよ!! どんどん!! どんどん!! どんどん、パッ!! どんどん、パッ!! どんどん、パッ!! どんどん、パッ!! どんどん、パッ!! うぃ――」
「やめろ、危ない。リズムを刻むだけにしておけ、絶対に歌うな。それ以上先に進めば終わりだぞ」
必死に叫びながら、拳と足で120回くらい『どんどん、パッ!』を決めてみるものの、一向に助けが来る気配がなかった。
絶望の気配が染み渡っていき、俺とアルスハリヤは口を噤む。
「ま、まさか、ヒーロくん、君、百合の間に挟まらずに壁に挟まって死ぬつもりか……? ぼ、僕の完璧な計画をどうにかしてくれるんだ……?」
「まさか、こんなところで本願成就が叶うとは……神に感謝」
笑いながら即身仏になることを決意した俺の横で、勝手に画面が開き、通話が開始される。
「おい、テメェ!?」
「もしもし、こちら、魔人救命センターだ!! 生きろ、そなたの絶望は美しい!!」
『はい、もしもし、三条燈色? どうしたの?』
電話をとった緋墨は、コーヒーを口に含む。
『緋墨、お前が好きだ』
ぶーっと、勢いよくコーヒーを吹き出した緋墨は、真っ赤な顔でぽたぽたと顎から黒い液体を零した。
『結婚してくれ』
『え……な、なに、ど、どういうこと……きゅ、急になに……?』
「ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!? なんだ、この音声データ、テメェ、なにしくさりやがんだこの腐れ魔人がァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「おい、よせ、こんな狭い場所で襲いかかってくるな! 今、大事なところだろうが! 僕は、君の人生をめちゃくちゃにするために生きてるんだぞ!!」
『ひ、ひひひひひひひずひずひずひひずみぃ! ひずひずひずひずひずひずみぃ!』
『えっ、ちょっと、なに、なんで急にラップ調になったの!?』
『女の子同士のキスは、マシュマロの香りがすると思うんだよね』
『あんた、なんなの!? ねぇ!? さっきから変よ!? 何時も変だけど、本日は、まごうことなき大変!!』
俺とアルスハリヤは、狭所で揉み合いながら罵声を浴びせ合う。
「助けを呼ぶだけだから助けを呼ぶだけだから……僕を信じろ……その手をゆだねてみせろ……最高の景色を見せてやるから……!!」
「一呼吸の間に矛盾してるのがわからねぇのか、ゴミクズ魔人がァ……!!」
『緋墨』
『なに!?』
『お前』
『なによ!?』
『マシュマロの香りがすると思うんだよね』
『しないわよ!!』
『お前が好きだ』
『私じゃなくて、マシュマロが好きなんでしょ!?』
『結婚してくれ』
『え……?』
『マシュマロ』
『やっぱり、私じゃなくてマシュマロが好きなんでしょ!?』
俺が百合ゲーをプレイしている時に、ヒロインたちに向けて発した『結婚してくれ』といった独り言を録音していたらしく、ソレを悪用して緋墨を落とそうとしている魔人の顔に拳を叩き込む。
「ぐぉお……!! 僕の美しい顔が凹むぅ……!! 比喩でもなんでもなく、拳の形で顔が凹んでくぅ……!! カートゥーンアニメみたいな世界観だぁ……!!」
「二度と視れねぇ面にしてやる!!
整・形・外・科・ク・リ・ニ・ッ・ク♪ 整・形・外・科・ク・リ・ニ・ッ・ク♪」
『本当に、私が好きなら』
緋墨は、前髪をくるくると弄りながら、そっぽを向いてささやく。
『ちゃんと、顔を合わせて告白したら……そしたら、考えてあげないこともない……かも……ばか……今度、ふざけた電話よこしたら……なぐる……あほ……』
通話が切れる。
汗だくの俺は、勝利宣言代わりに右拳を掲げて、顔が凹んだアルスハリヤは「一寸先は闇なんだが」と文句を言っていた。
どうにか、窮地を抜けた俺は安堵の息を吐き――光。
音を立てて、前方の壁らしきものが開き、眩しい光が射し込んでくる。
思わず、俺は腕で顔をかばった。
明順応が行われて、徐々に眼が光に慣れて視界が開け、俺の前に立ち尽くしている少女の姿が視えてくる。
「…………」
漆黒の少女。
黒砂哀は、俺の足元に落ちているタオルを見つめ、それから腰元に視線を注いだ。
「……………………」
全裸の俺は、周囲を見回して。
ようやく、自分が、鳳嬢魔法学園の大圖書館にいることを知った。