百合が視える
オフィーリア・フォン・マージラインの愛犬、その名を『オフィリーヌ』。
こんな巫山戯た名前を付けられた大型犬は、くるくるとした縦ロールの長毛を持っており、お嬢の世話をよく焼く忠犬として名を馳せていた。
エスコ・ファンからは『オジョリーヌ』、『忠犬縦ロール』、『噛ませ犬』などと呼ばれており、たまに人間よりも賢いのではないかと疑うくらいの行動を見せる割には、お嬢の飼い犬というだけで散々な通称を付けられてしまっていた。
そんなオフィリーヌは、舌を突き出しながら、喫茶店のテラス席に括り付けられてお座りをしている。
なぜか、俺に懐いているらしく、さっきからベロンベロンと手の甲を舐めしゃぶられており……撫でるのを催促するかのように、手に頭を押し付けてきて、ふんふん言いながら周りを歩き回っている。
さて、そんな縦ロール犬はどうでもいい。
問題なのは――
「…………」
俺の対面の席で、頬を染め、縮こまっているお嬢のことだ。
よくわからないまま、喫茶店に連れられてきた俺は、アイスコーヒーを前に10分は沈黙を守り続けている。
どうやら、俺の女装はバレていないらしいが、そんなことよりも気になるのは彼女が俺を『ヒロ様』と呼んだことだ。
どういうことだ……意味がわからない……お嬢と女装状態の俺は出くわしたことがないし、この姿に似ている誰かと勘違いしているのだろうか……とっとと、ウィッグを脱いでネタバラシするべきか……。
空気を読んだのか、ひとりでパフェが食べたかったのか。
別のテーブル席に座ったエイデルガルトは、長い足を組んでスプーンを片手にこちらを見守っており、店員から連絡先を聞かれていたがガン無視していた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
いや、マジで、コレはどうすれば良いんだ……? このままでは、折角の夏休みが、刻一刻と削られていってしまう……俺がお嬢のために立てた百合休み計画(夏)が、破綻してしまうじゃないか……。
意を決して、正体をバラそうとした瞬間――お嬢の眦から涙が零れる。
「えっ」
ぽろぽろと涙を零したお嬢は、必死に両手で涙を拭い、俺から顔を隠そうとしていたが失敗してついには嗚咽を上げ始める。
「……泣かせたわね」
ぼそりとエイデルガルトがつぶやき、俺は、オロオロとお嬢の様子を窺った。
おい、嘘だろ!? 女装しただけで、相手が泣くとは思わねぇわ!! 俺のスカート姿には、涙を誘引する機能が備わっていた!?
「ご、ごめ……ごめんなさい……わ、わたくし……ずっと……ずっと……待ってたから……だから……わたくし……」
な、なに、待ってたって……? どういうこと……?
嫌な予感がする。
だから、俺は素顔を晒すことは諦めて、エイデルガルトに視線を投げかけた。
「彼女、喉が腫れているの。
だから、友人忍者のわたしが代わりに彼女の意思を伝えるわね」
声を出せない現状、俺は、忍者を通じてしか己の意思を伝えることが出来ない……頼む、以心伝心してくれ……短い間だったが、お前は、俺のことを尾けてその人となりを視てきた筈だ……エリート忍者、お前なら出来る……俺そのものを……三条燈色を再現してくれ……!!
エイデルガルトは、俺と目を合わせてこくりと頷き――口を開いた。
「泣くなよ、仔猫ちゃん。
そそるね……その透明な涙の味をこの唇で確かめたくなっちゃったぜ」
原作のヒイロでもそんなこと言わない!!
「ヒロ様はそんなこと言わないッ!!」
俺と同じ感想を抱いたお嬢が、ファンガールみたいなこと言い出しちゃってるじゃねぇか!!
「わ、わたくしは、ヒロ様と話したいんですの……喉の調子が優れないというなら、治るまで待ちますわ……」
ちらりと。
俺を見上げたお嬢は、俯き、真っ赤になってもじもじとする。
「ようやく……迎えに来て頂けたんですもの……ほんの数日くらい……待てますわ……」
「迎えに? どういう意味かしら?」
恥ずかしそうに、お嬢は、消え入るような声で答える。
「ヒロ様は……わたくしの親友で……婚約者ですわ……」
その瞬間。
俺の時が止まって、意識が空へと飛んでいき、宇宙へと急上昇し、銀河を飛び出し無の境地へと至った。
お嬢と俺が……三条燈色が……婚約者……?
ぶわっと。
突風が顔に吹き付けて、思考は過去へと遡り、オリエンテーション合宿で乗船したクイーン・ウォッチ号での会話へと導かれる。
――わたくしが、まだ幼かった頃、親友からもらった素晴らしい宝物なのですわよ
お嬢は、『耽溺のオフィーリア』をくれた親友かつ婚約者に恋をしており、ずっと、彼女と再会することを心待ちにしていた。
――き、金でしたわ! 綺麗な金色!
髪の色を聞いたら『金色』だと彼女は答えた。
――髪は短くしていましたが、女の子に決まっていますわ
短髪の彼女のことを、お嬢は女の子だと決めつけていた。
――女性であるにも関わらず、半ズボン姿も、異様に似合っていて
お嬢の婚約者は、女性であるにも関わらず半ズボンを履いていた。
そして、金髪を持つ男の三条燈色には、設定上では婚約者が存在しており、その正体は原作内では明かされることはなかった。
ココから導かれる答えは――
「ヒーロくん」
顔を真っ青にした俺の肩を叩いて、笑顔の悪魔は耳元でささやいた。
「婚約回収、おめでとう」
ガクガクブルブルと全身が震えて。
心待ちにしていたお嬢とその婚約者の百合が、三条燈色とかいうゴミにインターセプトされ、地獄へとダンクシュートされていたことを知り、臓腑から湧き上がる憤怒と悲嘆にガチガチと歯が鳴った。
俺は、ブルブルと震えながら、充血した両眼を上にズラした。
「こ、ころ……ころす……ころす……さ、三条燈色……お、おま……おまえだけは……ころ……ころす……お、おじょ、おじょおの百合……百合を……うば、うばいやがっ……ころ……ころす……ころす……!!」
噛み切った唇から血が流れ出し、俺の両手は、無意識に九鬼正宗を探した。
テーブル上を彷徨った両手が、柔らかいなにかに包まれ、それがお嬢の手だと気付いた。
愛しさの籠もった視線を俺に向けるお嬢は、まさに恋する乙女で、その両眼は男である俺のことを捉えていた。
「わたくしは、ココですわ」
お嬢は、微笑んで、俺のことを見つめる。
「うわぁ」
がたんと、椅子から転げ落ちた俺は、よつん這いになって逃げ出した。
その俺を追ってきたオフィリーヌは、べろんべろんと顔を舐め回し、犬畜生の唾液を浴びた俺は畜生道を四足で歩く。
――す、好きなの、その子……?(自殺)
次から次へと、涙が溢れてくる。
――す、好きなんでしょ? は、恥ずかしがるなよ?
俺さ?
――俺が護るよ!! その首飾りも!! お嬢も!! その女性に逢える日が来るまで!!
バカみてぇじゃん?
――絶対に!! 俺が!! お嬢とその首飾りを護る!! その美しい愛を!! 必ず護る!!
クソ男との愛を護って、クソ魔人と心中しちゃってるじゃん?
なぁ、神様?
泣きながら、俺は、涙でぼやける視界の中を進む。
俺、バカみてぇじゃん……?
限界を迎えた俺は、その場にバタリと倒れ伏し、泣きながら俺のことを揺さぶるお嬢に微笑みかける。
「ねぇ、百合が……」
俺は、空へと手を伸ばし――
「百合が……視えるよ……」
その手は、ぱたりと力を失い、涙を流しながら目を閉じた。