対魔の論議
水上に浮かぶ一軒のログハウス。
神聖百合帝国拠点の桟橋で、俺は釣り糸を垂らし、隣では緋墨が水面に素足を浸けていた。
「状況、一変するよね」
ちゃぽちゃぽと、両脚で水音を立てながら彼女は髪を掻き上げる。
「あんたが魔人化したとなったら、各魔人に仕える眷属たちは放っておいてくれないだろうし……本格的に国防に力を注ぐ必要が出てくるかもね」
「悪いな、迷惑かけて」
「いや、まぁ、迷惑とかじゃなくて……そもそも、私の場合は、あんたに命を救われたからココにいるわけで……あんまり、気、遣わないでよ……あんたは、すべきことをしたんでしょ……?」
「お前、さっきから跳ねた水で下着透けてるぞ」
「少しは気を遣えッ!!」
赤面した緋墨に肩を殴られ、俺は、上着を彼女に投げつける。
「あ、ありがと……」
「そういや、取り入れたフェアレディ派の残党はどうなってんの? 新しい百合の生誕をこの目で視られたりする?」
俺の上着で前を隠した緋墨は、水面から足を引き上げ体育座りの姿勢で答える。
「全員、拠点に置いておくわけにもいかないし、異界側の国土を広げたりはしてないわけだから、現界でテナントビルを借りてそこを活動拠点にさせてる。名目上はフィットネスクラブだけど、当然、事業活動なんて行われてないペーパーカンパニー」
「百合は護れてる?」
「そうね、今週だけでも三件の報告は上がってる。
ライゼリュート派のテロ攻撃の阻止に、ダンジョンから溢れた魔物の討伐、ダンジョン内での遭難者の救出も成功させてる。報告レポートの質から言って、虚偽の申告は行われてないし、悪さしている眷属もいないみたい」
俺は、緋墨から投げつけられた画面をスクロールし、昇級推奨のメンバーたちを眺める。
「フェアレディ派を取り込んだことを踏まえて、先週の定例会議で、魔神教の階級制を復活させることに決まったでしょ? 私たち六幹部は最高階級の悪靈として、フェアレディ派の残党のうち何人かを中位の孤烏に任じた方が、指揮系統でバラつくことがないかと思って」
「昇級が早すぎないか?
下手に権力を持たせたら、現在のバランスが崩れるだろ」
「ご心配なさらず」
いつの間にか、背後にやって来ていたシルフィエルが、悪魔めいた笑みを浮かべる。
「適切な手を打ちますので」
「人類っていうのは、表向きには、合理的手段ではなく非合理的手段を好む種族なんだよ……人は、その非合理的手段を道徳だとか倫理だとか言う。
そのため、シルフィエルの提案する適切な手を俺は承認出来かねるので、コレは次週の議題として話し合いましょう」
「承服いたしました、我が主」
胸に手を当てて、シルフィエルは素直に頭を下げる。
反対側の桟橋で、りっちゃんとルーちゃんが巨大な魚を釣り上げて歓声を上げる。恐る恐るの手付きで、ワラキアとハイネに手伝ってもらいながら、たも網で釣果を引き寄せていた。
「俺が魔人になったことで、今後の対応方法も変わってくる……十中八九、魔人とその眷属との争いは避けられなくなるから、事前調査と事前処置に重きを置くことにした。
現在までは、どうしようもない場合以外は、月檻の成長を見込んで彼女に魔人の処理を任せようと思ってたけど、あまりにもリスクが大きすぎるし、俺が魔人になったことで予想外の事態が発生する可能性が高すぎるからな」
「月檻桜か……魔神教の抹消対象にも入ってたし、魔神に睨まれてるってことは特別視される理由があるってことよね?」
「世の中には、往々にしてそういう類の人間が生まれてくるんだよ。それ以上のことは、ノークエスチョンで頼む。
シルフィエル、万鏡の七椿について聞きたいんだが」
薄い笑みを浮かべて、シルフィエルは頷く。
「クズです」
「うん……知ってる……魔人、皆、そうだから……うん……」
「カスです」
「シルフィエル様、ただの悪口大会になっちゃってますよ」
「アルスハリヤ様以外の魔人は、皆が皆、存在価値のないクズでカスの塵芥であることは疑いようがなく……あの間抜けな魔人は、鳳嬢の地下で魔導書に封じられていると聞き及びましたが」
「でも、たぶん、封印はもう解けてるんだよ」
「ほう」
シルフィエルは、笑顔で釣り竿を引いた。
俺が竿立てに置いていた釣り竿は、勢いよく引き上げられ、色鮮やかな大魚がビチビチと跳ねながら釣り上げられる。
「遠き慮りなき者は必ず近き憂いあり……他派閥に先んじて、間抜けの口に針をかけることが肝要かと存じ上げます」
「そうしたいのは山々だけど、気にかかってる点がひとつある」
俺は、釣り上げた魚の口に指を引っ掛けて、悲鳴を上げて抱きついてくる緋墨の横のクーラーボックスに投入する。
「封印が解けている筈なのに、万鏡の七椿が地上に出てきてないんだよ。鳳嬢魔法学園の大圖書館の地下、地下天蓋の書庫に籠もったままでいる」
「……あの女が?」
万鏡の七椿を知っているシルフィエルは、訝しげに眉をひそめる。
彼女の反応通り、万鏡の七椿という魔人は、封印が解けていれば地上に出ていなければならない存在だ。彼女の性格から考えてみれば、己を称賛する眷属が蔓延る地上で伏魔殿を建て、礼賛の栄光で、己が身を焦がしていなければならない。
「ちょっと待ってよ、三条燈色。
なんで、万鏡の七椿が地上に出てきてないってわかるの? 封印が解けたばかりで力を蓄えるために身を潜めてる可能性だってあるでしょ?」
「いや、地上に出てきたら一瞬でわかるから。
お前、超至近距離で、花火を連発しながら綺羅びやかな装飾を身に纏い、ワイヤーロープでアクションしながら車のボンネットの上で踊り始める集団がいたら……気づくよな?」
「う、うん」
「ならば、万鏡の七椿は地上に出てきていない。そういうことになります」
困惑で目を白黒させている緋墨にもう少し詳しく説明してやろうと思ったが、百聞は一見にしかず、いずれはアレを目にすることになって『あぁ、そういうことか!』となるので詳細説明はやめておいた。
「そんなこんなで万鏡の七椿の狙いを探るためにも、7月か8月、夏休み期間中に大圖書館に潜る。
シルフィエルたちには、フォローを頼みたいんだよね」
「お供させて頂いても?」
「そうしてもらいたいのは山々なんだけど、学園の敷地内ってのが問題でさ……シルフィエルたちは、魔物として分類されるから、間違いなく面倒事になるんだよ。
だから、万鏡の七椿を地上に追い出してからフォローに入ってもらうことになる」
シルフィエルたちは強力な手札だが、切りどころが限られている。
後先考えずにシルフィエルたちを使えば、魔人・三条燈色は大々的に人類の敵対者となり、今後の動きに大きな制限が付いてしまう。
「承知いたしました」
「なら、私たちは?」
「留守番に決まってるだろ。
万鏡の七椿が潜んでる地下天蓋の書庫なんて、地下に根付いた伏魔殿と同じようなもんだ。鬼やら蛇やら、下手すりゃ、ワイヤーロープでアクションしながら車のボンネット上で踊る魔人と同じ舞台に上がることになる」
心配そうに、緋墨は顔をしかめる。
「お願いだから、無茶しないでよね。
あんたが思ってるよりも、あんたの命には重みがあるんだから」
「オーケーオーケー、無茶無理無謀はおくびにも出しません」
緋墨は大きなため息を吐き、シルフィエルは俺に身を寄せてくる。
「教主様、貴方様の後ろにへばり付く蝿は始末しても?」
「いや、アレはまた別件だから……放っておいてあげて」
委員長と喫茶店で恋バナしてから、ずっと後を尾けられている俺は、その理由も察しがついているので配下を制止する。
緋墨たちと別れて現界に戻った俺は、薄暗がりの中で蠢いていた人影が、裏路地から表通りへと消えるのを確認した。
俺は、駅前の表通りへと足を運び――着信音。
画面を開いて、チャットを送ってきた相手を確認し、苦笑してから学園へと戻っていった。