皆の絆の力で、ヒイロくんを救おう!
「キスしたんだよ」
「……は?」
「だから、キスしたんだよ」
俺の前にお茶を置いたスノウは、威圧感と共に低い声を出す。
「あ? 誰と?」
「す、スノウさん、声が……冬眠明けのグリズリーみたいになってるよ……?」
「誰と?」
「クリス」
無言で。
席を立ったスノウは、抜き身の日本刀を携えて戻ってきて、立ち上がった俺は壁際にまで逃げて震える。
「なんすかぁ!? お、お前、武器を下ろせぇ!! 俺ひとりでお前を包囲した気になってるから無駄だぞぉ!!」
「いや、冗談ですが。模造刀です。浮気をした婚約者を追い詰める薄幸の美少女を気取ってみました」
ぽいっと、模造刀を放り捨て、スノウは綺麗な姿勢で正座する。
「どうやら、ついに一線を越えたようですね。まぁ、いずれ、そうなるだろうとは、2億万年前からこの明晰な頭脳で見抜いてましたが」
「お前、ジュラ紀に生まれたの……?」
「おめでとうございます」
お茶を飲みながら、スノウは素っ気なく言い放つ。
「コレで、私もお役御免ですね。貴方のような男の偽婚約者を気取らなくても済むと思うとせいせいします。肩の粗大ゴミが下りたというやつですね」
「……怒ってんのか?」
「はぁ!?」
卓袱台を叩いたスノウは、顔を真っ赤にしながら唸る。
「誰がっ!?」
「動画撮って送って差し上げますよ?」
「……私が怒る理由はひとつもないので、私は怒りを抱いておりません。Q.E.D.」
「まぁ、怒ってないなら怒ってないで良いけどさ。
お前の主人のファーストキスが、無様に奪われたことに対して、俺たちは直ぐにでも対策を講じなければなら――」
「……ファーストキスじゃありませんよ」
「はい?」
胸の前で、ぎゅっと手を握っていたスノウは、そっぽを向いて「別に」とささやく。
不気味で恐ろしい言葉が聞こえた気がしたが、俺は、己の心を護るために聞こえなかったフリをすることにした。
「とりあえず、俺、責任を取ろうと思うんだよね」
「は?」
「クリスと結婚しようと思って」
ぶーっと、スノウは勢いよく茶を吹き出し、中身がすべて俺にかかる。
「ば、バカですか……ただのキスでしょ……?」
「いや、でも、この世界のキスは特別な意味を持つし……夢の中とは言え、アレだけのことをしたんだから責任を取るのは当然だろ。結果として、百合を殺すことになったとしても、現実逃避してあの子の心を傷つけるよりはマシだ。
人道外れた先に百合はなし」
「い、いや、子供を作る魔法のことを言っているのであれば、アレは然るべき機関で然るべき処置をした場合の儀式めいたもので、普段のキスで子供が出来たりはしませんし、というか、ちょっと意味がわからないので待って」
「結婚式って幾らくらいかかんの?」
「待てって言ってんでしょうがっ!! 頭と心を整理するから少し待て!!」
荒げた息を整えながら、深呼吸をしたスノウは、人外を見定めるかのような目つきで俺を見つめる。
「ほ、本気ですか……?」
「うん。
俺、この学園を辞めて、三条家を潰したら定職に付くから。後は、もう、誰とも関わらないし、九鬼正宗は手放して穏やかな余生を過ごす」
「……せ、先方のお気持ちは確かめたんですか?」
「あぁ、確かに。
じゃあ、ちょっと、クリスにプロポーズしてくるわ」
「ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! ストップストップストップ!! 取り返しがつかないことを我が物顔でするのはやめろッ!!」
画面を呼び出そうとした俺は、スノウに背後から蹴り倒され、床にずざーっと倒れる。
「なによ?」
「わ、私のことはどうするんですか……?」
「一緒に住めば良いじゃん」
「こ、コイツ……本気で言ってやがる……」
俺を正座させたスノウは、うろうろと歩き回り始め、右へ左へ行ったり来たりしていた彼女はブツブツと何事かつぶやき……止まった。
「貴方の助けを求める女の子はどうするんですか?」
「月檻がいるから大丈夫だろ。三寮戦で、最後の最後、アイツが来た時点で問題ないと確信したしな」
俺は、爽やかに笑う。
「切腹に失敗した以上、俺は、地獄へと失踪するしかない」
「の、脳が破壊されている……」
劉(姉)の胸の中で、考え続けて、ついに辿り着いた答えだった。
どうせ、ピクニックで死ぬのであれば、その前に、己の手で決着を着けてやればいい……俺の手で穢してしまった彼女に対して責任を持ち、姉妹百合を破壊した罪悪を抱きながら、虜囚として余生を償いに捧げるのだ。
感慨深さに浸る俺を余所目に。
顔を赤くしたスノウは、ちらちらと俺を視てから、覚悟を決めたかのように寄ってくる。
「え、なに?」
彼女は、俺の肩を押した。
ころんと、俺は後ろに倒れて、真上に影が出来る。
微笑み。
綺麗な白髪を掻き上げたスノウは、両足と左手で俺を押さえつけ、目を細めながらゆっくりと顔を近づけてくる。
俺は、避けようとして――満面の笑みのアルスハリヤが、俺の顔の横で「チェックメイト」とささやき――四肢の動きが制限される。
さらりと、頬に、純白の髪が触れる。
「…………んっ」
漏れた吐息と共に、スノウの唇が俺に触れる。
かぶっていたホワイトブリムを俺の胸に落とした彼女は、腹に跨ったまま、指で自分の唇をなぞって――小首を傾げて微笑む。
「責任、取ってくださいね?」
「…………」
「もっかいしとこ」
「ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! いやぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、お姉ちゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!」
屋根を勢いよくぶち破って、降ってきた劉は、ネギの突き出たエコバッグと己を軟着陸させ駆け寄ってくる。
「失礼」
俺の唇を啄んでいたスノウは、危なげもなく、ふわりと投げ飛ばされた。
俺を抱きかかえた劉は、おろおろとしながら髪を撫で付けてくる。
「ど、どうしましたか、燈色? 大丈夫? 可哀想に、こんなに怯えてしまって……もう、大丈夫ですよ、お姉ちゃんが来ましたからね」
「あ、あのクソメイドがァ!! やっちゃいけないことをしたよぉ!! この世界の住人が!! この世界の住人がしちゃいけないことをしやがった!! 唇!! 唇、唇、唇!! お、俺の唇に!! コイツ!!」
「唇?」
瞬きをした劉は、俺の頬を優しく両手で包み込み、流れるように俺に口付ける。
「毒ではない。
唇になにをされたんですか、燈色?」
「ぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
絶叫しながら痙攣した俺は、海老反りになって身悶える。
「ひ、燈色!? やはり、毒!? 大丈夫、今、お姉ちゃんが吸い出してあげますから!!」
「殺されるぅうううううううううううううううううううううううううう!! 誰かぁああああああああああああああああああああああああああああ!! 殺されるぅううううううううううううううううううううううううううう!!」
必死で、俺は、床を掻きながら逃げる。
手を打ち鳴らしながら、大笑いをしている悪魔が追いかけてきて、嗚咽を上げながら這った俺は廊下まで逃げる。
人影。
恐る恐る、上を見上げると、首筋まで赤くしたラピスが立っていた。
「ら、ラピス、良かった……たすけてくれ……あ、悪魔が……悪魔の群れがやってくる……たすけて、ラピス……たすけて……たすけて……」
「わ、わたし、ヒイロが学園を辞めちゃうのは嫌だから。だ、だから、こういうことする……この気持ちがそういうのかはわからないけど……でも、少なくとも、わたしは嫌じゃ……ないから……」
悪寒が――走り抜ける。
潤んだ瞳で、覚悟を決めたかのように。
こちらに寄ってくるエルフのお姫様の視線は、真っ直ぐに、俺の唇を捉えており――開眼――払暁叙事を閻いた俺は、アルスハリヤに拘束された四肢を捨てて、己の魔眼のみに信を置いた。
心臓が跳ねて、汗が滲み、世界が遅くなってゆく。
最善だ。
最善を……俺にとっての最善を……捉えろッ!!
俺は、緋色の瞳で、森羅万象を見つめる。
視え――ちゅっと、音がして、ラピスの唇が俺の唇から離れる。
「…………っ!!」
顔を両手で押さえつけたラピスは、バタバタと足踏みをして、指の隙間から俺を視てから背を向けて座り込む。
「…………」
呆然と。
天井を仰いだ俺は、爆笑するアルスハリヤを横目に涙を流した。
魔眼にすら……裏切られた……。
「お兄様」
頭を持ち上げられて、柔らかな太ももの上に置かれた俺は、震える手で髪を掻き上げるレイに死んだ目を投げかける。
「と、遠縁ですから」
俺は、レイのキスを受けながら、つーっと涙を流す。
遠縁ですからを連呼しながら、俺にしっとりとしたキスを降らせた妹は、頬を桜色に染めたまま恥ずかしそうに俯く。
「じゃあ、ヒイロくん、わたしともキスしようね」
あやすように。
いつの間にかやって来た月檻は、ニコニコとしながら、俺に優しく教え込むようにキスをした。
最早、なにも感じない俺は、事切れた死体のようにそれを受け入れる。
「皆様、主人のためにご協力ありがとうございます」
この地獄を呼び寄せたスノウは、月檻たちに深々と頭を下げてから、どことなくむすっとした顔でささやく。
「で、御主人様、キスをしてしまったこの全員と婚姻を結びますか?」
「…………」
「はい、このように、頑固な主人も納得してくださいました。ご協力、ありがとうございます。お陰様で、クリス様と結婚して学園を辞めると言い出した主人を止めることが出来ました」
「まぁ、別に、キスくらいなら。減るものじゃないし、相手、ヒイロくんだし」
「ね、ねぇ、桜も黎も、ヒイロに何回もキスしてなかった? わ、わたし、一回だけしかしてないんだけど?」
「でも、私、遠縁なので」
「関係ないよね!? ズルくない!?」
「そんなにしたいなら、今のうちにしちゃったら? 半分意識ないから、キスなんてし放題だよ?」
「そ、それは、犯罪の臭いがするっていうか……あーっ!! また、桜、どさくさ紛れにヒイロにキスした!!」
ぎゃーぎゃーわーわー、外界から雑音が響いてくる。
気がついた時には、俺は、キスマークだらけで廊下に放置されており、劉お姉ちゃんはおろおろと右往左往していた。
「な、なんだか」
微動だにしない俺を視て、魔人はささやいた。
「可哀想になってきたな……その、なんだ、元気を出せよ……大丈夫か、これからピクニックもあるんだぞ……僕は愉しみで仕方ないが……ふふっ……あ、すまない、ちょっと笑っちゃった……」
「…………」
「愉悦」
そう言い残して、アルスハリヤは消える。
俺は、必死で、ぱたぱたと団扇で風を送ってくれる姉の姿を視て、うっうっと嗚咽を上げながら片腕で目元を押さえる。
「神は……!!」
俺は、涙の海の中でささやく。
「神は……死んだ……!!」
「フリードリヒ・ニーチェですか。燈色は博識ですね、素晴らしい。さすが、私の弟だ。よしよし、良い子良い子」
こうして、俺は、学園という名の魔境から逃れられずに。
なんの打開策も見いだせないまま――第十圏『野外食事地獄』の日を迎えた。