魔人対死神
魔人。
その肉体は、魔力で象られている。
魔力とは、魔術演算子の集合体だ。つまるところ、魔人は肉体を持たない魔術演算子の塊である。
空気中に散らばる魔術演算子は、すべて、魔人の糧となる。
肉体が魔術演算子で作られている魔人は、損なわれた肉体を補填して再生したり、肉体自体を変化させることが出来る。
ゆえに、俺は、十と六の刻を経ても――払暁叙事の強制開眼を続けられている。
脳と眼は絶えず破壊され、俺は、滴り落ちた血の涙を親指で拭う。
俺は、人間を捨てた。
一度、死んだ俺は、アルスハリヤの手で肉体を与えられており、その血と肉は人間と呼ぶのに差し支えなかったが……現在の俺は違う。
現在までの俺は魔力の型をとった人間だったが、現在の俺は人間の型をとった魔力だ。
魔人、三条燈色……原作では、死廟のアルスハリヤに気に入られた三条燈色が、力を求めて転身した姿だった。
だからこそ、その可能性を払暁叙事が捉えた。
俺たちにとっての最後の切り札は、奇跡みたいな未来を掴み取り手元にまで引き寄せている。
静かに。
俺は、腰の黒戒を引き抜く。
逆手に構えた黒戒には、式枠が存在せず、強制開眼で閻かれた払暁叙事に従うことはなかった。
だからこそ、刃は生じず本領を発揮せず、ただの短筒として存在している。
「……アルスハリヤ」
背後に魔人を従えた俺は、煙に包まれていき、闇の中から緋色の両眼を覗かせる。
「刃は」
一瞬で、身を沈め――
「任せた」
駆ける。
視界が掻き消えて、完璧に操作された魔力に圧され、黒戒から刃が突き出る。
それは、霧状の刀刃だった。
ただ、空気が揺らいでいるように視える刃は、あたかも形をもたず、一迅の突風と共に押し出される。
劉は、いち早くその刃に反応し、荒れ狂う力を拳に乗せて放つ。
かち――合う。
揺らぎながら、曲がりながら、歪みながら。
姿形を変えながら走った雲散霧消の刃は、苛烈な勢いで放たれた劉の連撃を弾き飛ばしながら、金属音と共に雷火を迸らせる。
一刀。
二刀、三刀、四刀――五刀。
不定形の刃は、四方八方から劉に襲いかかり、周囲の魔力をかき集めた俺は軽路線を形作る。
音もなく。
刃を飛ばした俺は、その軽路線に攻撃を乗せた。
不可視の刃は、身体を屈めて避けた劉の頭上を通り越し、数本の大樹を切り落とし消え失せる。
真っ黒な戦装束を身に纏った俺は、薄暗闇と混じりながら、左手を用いて異界から白霧を呼び寄せる。
霧の中へと姿を消して。
劉の背後から、俺は、視えた可能性に刃を走らせる。
緋色の群体。
劉の全身に蔓延っている末路の中から取捨選択、代償で吹き飛んだ脳の一部を修復、激痛は喉の奥で噛み殺して射出、左方から右方へと切り開く。
音を立てて。
劉の左腕から血が迸り、彼女は、返す拳で俺の鳩尾を突いた。
「…………」
俺は、己の中心を貫いた拳を見下ろし――切った。
血飛沫が舞い上がり、後退した劉は、シャツの袖を口で千切って患部に巻きつけた。
「怪物が……」
現在なら殺せるな。
俺は、無言で、緋色の両眼を見開き――
「ところで、ヒーロくん、クリスとのキスはどうだった?」
「おぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
その場で、悲鳴を上げながら、頭を抱えて跪いた。
脂汗と涙を流しながら、息を荒げる俺に腰掛けたアルスハリヤは、ゆったりとした動作でコーヒーを飲む。
「落ち着き給えよ、初心者。有象無象のつまらん存在に成り下がるな。力に呑まれて、直訳通りの百合殺しに至ってどうする。君の歪みに歪みきった顔芸の本領はそんなところにないだろ」
笑いながら、アルスハリヤは俺の頭を掴み、煙草の先で劉を指した。
「劉悠然は、対魔人戦を想定した戦法を身に付けていない。僕たちから視てみれば、ヤツは無防備に腹を突き出す体の良い獲物だ。ぷくぷくと太ったその腹部に牙を立てれば、新鮮な勝利を提供してくれる。
理由はわかるな?」
「……劉の無形極は、打撃を加えた相手の魔力に外部の魔力を混ぜ込むことで発生する呪衝を本質としたものだ」
俺は、淡々とつぶやく。
「魔法士相手にはこれ以上ない程に有効的だが、外部の魔力を取り込んで肉体を象っている俺たちに呪衝は通用しない。
つまり、劉悠然が、最も苦手にしているのは俺たちのような魔人だ」
「よしよし、良い子だ」
俺の頭を撫でながら、アルスハリヤは微笑む。
「だが、ヒーロくん、よおく考えて動けよ。ヤツは、並大抵じゃない。一時は、アステミル・クルエ・ラ・キルリシアと肩を並べたバケモノだ。聖剣やら伝説の鎧やらチートコードを手に入れたからと言って、必ずしもバケモノ退治が上手くいくとは限らない。
それに、君は、魔人に覚醒したばかりでその力の使い方を知らない」
魔人は、魔人を見つめる。
「限界が近い……肉体の維持が限界を迎える前に終わらせろ。
そうしなければ、君も僕もこの世界から消え失せる」
アルスハリヤは、ニヤリと笑いながら、俺に手を差し出す。
「付いてこれるか?」
「笑わせんな」
笑いながら、俺は、その手を握って立ち上がる。
「テメェは、俺の背中だけ視てろ」
再度。
俺は、霧を展開して、黒戒を逆手で構える。
柄頭に左手を添えて。
白刃が描いた水平線の向こう側に――敵を囚える。
「行くぞ、死神」
緋色の眼が、閻いて、世界が払暁に染まる。
「俺の命を――惹いてみろ」
刃が、走る。
瞬時に到達した俺は、劉の懐へと飛び込み、右下から左上へと線を引いた。
すっと、空間が空いて。
血煙に染まった劉は、笑いながら、俺の右腕を手刀で切り落とす。落下した黒戒を左で受け取って、生み出した霧の刃は唸りながら上方へ飛び、彼女の頬が切り裂かれる。
瞬時に、右腕を再生。
劉は、俺の右肩を穿き、彼女の手が真っ赤に染まる。ワンテンポ置いて後ろ回し蹴りが飛んできて、下に逃げた俺の顔面に膝が入り、猛烈な勢いで劉は乱打を撃ち放った。
躰、拳、脚、甲、臂、膝、指、爪――余すこと無く急所に入り、俺は血反吐を吐き散らしながら、千切れ飛んだ手や足を修復して刃を振るった。
劉悠然は強い。
彼女は、無形極すら使わず、無限に再生する魔人を己が拳で削り殺そうとしていた。
人外の如きバケモノ。
俺が魔人として覚醒しなければ、万にひとつも勝ち目はなかっただろう。
限界を迎えた肉体が再生をやめて、血みどろになった俺は激痛に苛まれ――潰された右目の代わりに、左の目で可能性を視る。
一筋。
一筋の可能性が視えた。
か弱く、細い、その可能性は閉じようとしていて――俺は、最後の一手が、足りないことを知った。
あと一手。
あと一手あれば勝てる。
だが、その一手が!! その一手が足りないッ!!
肩が削り落とされて、俺の右腕が潰され、黒戒が地面に落ちる。
「終わりだ」
劉は、勝利を確信し、拳を引き絞る。
この一撃。
この一撃を防ぐことが出来れば勝てる。
だが、どうやって、この一撃を防げば良い?
武器は失われて手元から消え、この一撃を避けられる可能性はすべて途絶えている。
なにか。
なにかある筈だ。
俺が忘れているなにかが、この絶望を覆す一手が!!
左の眼が、明滅しながら、一筋の希望を提示し――俺は視た。
豪腕が迫り――
「現在だ」
未来に到達した俺は、そっとささやき、劉の左拳は上方へと弾かれる。
驚愕。
劉は、ゆっくりと眼を見開き、間に飛び込んできた少女を見つめる。
「主人公ってのは」
栗色の髪を持つ彼女は――月檻桜は、笑いながら――
「遅れてやって来る」
再度の一撃で、劉の上体を完全に崩した。
「劉悠然」
主人公は、かつて、へし折られた自分の左腕をなぞった。
「借りは返した」
そして――叫ぶ。
「行け、ヒイロォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
俺は、劉の腰に差された九鬼政宗を掴み――
「言ったろ、正義は――」
笑いながら、引き金を引いた。
「必ず勝つ」
蒼白い閃光に包まれた劉は、ゆっくりと両眼を見開き――
「シリア……」
「ォ、ォ、ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
全身全霊で。
九鬼正宗を真上へと引き抜いて――天高く奔流が迸り――すべてが、白に染まった。