母と娘
勝利とは、どこにあるのか。
己の小さな手を見つめるミュールは、傷だらけのソレを握り込む。
思えば、ミュールの裡には、自分の力で『勝利』を掴んだという記憶が存在しない。
いつの間にか。
彼女は、敗ける側に回っており、勝ったという感覚を知らずに生きてきた。
過保護に輪をかけていた母の手で、ありとあらゆる分野の習い事に手を付けていた時分もあった。
魔法、書道、茶道、バレエ、ピアノ、ダンス、体操、武道、水泳、英会話……そのすべてで、ミュールは求められた成果を出すことが出来ず、通った教室の殆どで陰湿な虐めにあったのでやめざるを得なかった。
――もう、貴女は、なにもしなくていいわよ
実の母にそう言われた時。
なぜ、自分は、生まれてきたのだろうと思った。
――逃げろ逃げろ、落ちこぼれ!
なぜ、自分は。
――無駄なんですよ
生きて、無駄な足掻きを繰り返しているのだろう。
その答えが。
その答えが、現在、示されようとしていた。
「…………」
「…………」
フレア・ビィ・ルルフレイム。
フーリィ・フロマ・フリギエンス。
遠くから眺めるだけの存在だった彼女らと、同じ舞台に上がったミュールは、恐怖で息が浅くなっていくのを感じた。
――出来損ない
目眩がする。
――似非
胸の痛みと共に過去が舞い戻り――ミュール・エッセ・アイズベルトは必ず勝つ――思い切り、ミュールは、己の心臓を握り込む。
「…………」
信じろ、自分を。
アイツが信じたミュール・エッセ・アイズベルトを――ゆっくりと、彼女は、顔を上げる――信じろ。
「開始の合図は?」
「お好きなように」
フレアの問いかけに、フーリィは肩を竦めて答える。
静かに。
「……鷲が羽ばたいたら」
ミュールは、ささやいた。
「始めよう」
沈黙が――張り詰める。
崩壊した武家屋敷に突き刺さった黄の寮の寮旗は、突風に吹かれて揺れ動き、バサバサと音を立てる。
そして、そこに描かれた鷲ごと――飛んだ。
瞬間。
右と左にいたフレアとフーリィが消える。
咄嗟に、ミュールはしゃがみ込み、頭上を炎塊と氷塊が通り過ぎる。
凄まじい破砕音と共に飛び散った破片が、ミュールを襲い、彼女は地面を転がりながら魔導触媒器を引き抜く。
その杖状の魔導触媒器の先端には、赤色の紐が結び付けられている。
ぎゅるっと、音を立てて。
腰に巻き付いていた紐は、しなりながら宙を裂き、導かれるようにしてフレアの腕に巻き付く。
フレアは、驚愕で眼を見開き――接続――その紐は、一本の魔力線と化してミュールとフレアは繋がった。
ふわりと。
既に踏み込んでいたミュールは、瞬く間にフレアの懐へと飛び込み――撃った。
「……良い拳だ」
右の腕。
変化により鱗で覆われた右腕に阻まれ、その拳は届かずに勢いを殺される。
が、同時に、ミュールは砂礫をぶち撒けていた。
目潰し。
それは、フレアの目に入り、彼女は思わず顔を背ける。
「おい、優等生」
ミュールは、右の掌をフレアの左側面に置き、左方向へと反転しながら拳を構えた。
「授業外でも、余所見は厳禁だぞ」
撃つ。
後方へと下がりながら、フレアは龍尾を生成し、その一撃を止めてから無茶苦茶な勢いで振り回し始める。
普通の魔法士が相手であれば、その乱撃は有効な手立てであっただろう。
だがしかし、ミュール・エッセ・アイズベルトにとっては、攻撃も防御も、接触した瞬間に接続へと変じ、無極導引拳の格好の餌食と化す。
ゆえに。
「…………」
凄まじい速度で、襲いかかる尾の乱打は、内から外へとミュールの手で受け流され、その合間に引き金が引かれて、ミュールの身体強化はさらなる飛躍を遂げていった。
「おいおい、きみ、本当にミュール・エッセ・アイズベ――」
足。
上方に打撃を集めて注意を惹いていたミュールの足払いによって、フレアは、宙空へと放り出される。
生成。
フレアの背中から羽が生え、彼女は、空中へと逃げ出そうとし――
「運命の赤い糸だっ!!」
彼女の腕を縛り付ける赤い紐を引かれ、笑ったミュールに引っ張り込まれる。
「そう簡単に千切れたら返品モノだからな!!」
ミュールは、拳を放ち――入る――が、その確信は、爆風に掻き消される。
瞬時の判断で。
思い切り、後ろに跳んだことが功を奏し、戦装束はソレをHITと見做すことはなかった。
己を中心に爆発を巻き起こしたフレアは、爆音と爆風に巻かれながら大空へと舞い上がる。
「思いの外、児戯を楽しませてもらったが」
彼女は、空を漂っていた寮旗を掴み――燃やし尽くす。
「この空は、龍の手に届いて――」
フレア・ビィ・ルルフレイムは、空中に生成した王座に腰掛け、肘をついて微笑む。
「その拳は、吾にまで届かない」
一本足で。
「ごめんね、ミューミュー」
透明な氷の柱に立ったフーリィは、その柱を基礎にして尖塔を生み出し、自分の頭に氷樹の冠を置いた。
「近寄られるとマズいみたいだから、私はお暇させて頂くわ」
彼女は、綺麗に微笑む。
「コレでおしまい」
そこからは、一方的だった。
遥か頭上から降り注ぐ炎と氷に対し、地面を転がり回るようにして、ミュールは避け続けることしか出来なかった。
息を荒げながら、よろけながら、頭上を見上げながら。
ただひたすらに、ミュールは、攻撃を避け続ける。
「あっ!?」
躓いて、転び、顔を地面に擦り付ける。
飛んできた炎弾を、立ち上がりながら避けるものの、着弾と同時に発生した爆風に押されて吹き飛び……ごろごろと転がりながら、吹き出た鼻血を拭う。
「あっ……ぐっ……ふっ……!!」
フレアもフーリィも、ミュールに集中しているわけではない。
まるで、眼中にないかのように。
彼女らは、遙か高みで激しい魔法の応酬を繰り返し、互いの喉元に食らいつきながら、片手間でミュールを牽制していた。
だが、その狙いは正確無比で、格と才能の違いを思い知らされる。
必死で。
必死で、ミュールは、戦場を駆け回り――
「ぷっ」
朱の寮の誰かが吹き出し、観客の目線がミュールを貫いた。
「だっさ」
蒼の寮生たちは、くすくすと笑いながら、ミュールの醜態を眺め「やっぱり無能だった」とささやく。
「…………」
諦観。
黄の寮の生徒たちが、無言で、自分のことを見つめていた。
「ぐっ……あ……あふっ……うっ……!!」
機会は。
機会は、必ず来る。
だから……だから、まだ……まだ、諦めるな……まだ……まだ……!!
転がるように逃げ回り、戦装束は血と泥で塗れて、ミュールの綺麗な白金髪は赤黒く染まっていく。
「視てアレ、ドブネズミみたい」
「あっはっは! 魔法使えば良いのに! ね~! 魔法使いなさいよ~! そうすれば、届くんじゃないの~?」
集団に混じっていれば、個人は特定されないと確信しているのか。
実際、どこの誰が言っているのかわからない悪口雑言が、ミュールへと届いて、彼女は喘鳴を上げながら走り続ける。
「ひゅ……ひゅー……こひゅっ……ひゅーっ……!!」
「いい加減、諦めなさいよ、この出来損ない!!」
「ちょっとぉ! せっかくの寮長同士の戦いの邪魔しないでよ! とっとと敗退しなさいって!」
「鳳嬢の面汚し!! あんたの薄汚い姿なんて誰も視たくないのよ!!」
朱の寮と蒼の寮の生徒たちにとっては、ちょこまかと戦場を逃げ回るミュールの姿は、邪魔な異物としか思えないのか、怒気と罵倒はどんどん大きくなっていく。
「魔法も使えない出来損ないが!! 邪魔なのよ!!」
「敗退しろ、落ちこぼれ!!」
「無能の癖に! アイズベルト家の権威で、寮長になっておいて、なに偉そうに三寮戦に出場してんのよっ!!」
その願いが通じたかのように。
よろけたミュールの身体に――炎と氷の塊が直撃し、凄まじい勢いで宙を飛んだミュールは、衝撃で息を詰まらせたまま地面を転がる。
歓声が上がって、拍手の音が響いた。
音が遠ざかっていき、全身に痛みと痺れが走り、解け落ちた白金髪の隙間から嬉しそうに笑っている生徒たちが視えた。
戦装束によって、威力の大半は殺されていたが。
当たりどころが悪すぎたのと、フレアとフーリィの攻撃が運悪く重なったことにより、ミュールの肉体は深刻な損傷を受けていた。
「…………」
痛い。
横向きに倒れたミュールは、自分の肉が焦げていく臭いと、凍りついて動かない自分の左腕を見つめる。
「…………」
幸いなことに、メディアの目を気にしているフレアとフーリィは、倒れているミュールに追撃を行うつもりはないらしい。
ふたりで相争っているが、何時、攻撃が飛んできてもおかしくはない……だから、立たなくてはならない。
「…………」
立たなきゃ。
ミュールは、自分にそう言い聞かせるが指一本すら動かない。
立つんだ……立って……勝つ……ヒイロと約束したんだから……わたしが敗けたら……アイツが悲しむ……アイツを裏切ることになる……だから……だから、立たなきゃ……立って……勝つんだ……。
「…………」
――無駄なんですよ
未だに、耳に残っている言葉が反響する。
――努力したからなんですか? 結果は?
無様に倒れている自分に向かって、誰かが『似非』と呼びかけ、ミュールが身動ぎしたのを視て笑った。
「ミュール」
声。
目を上げると、こちらに冷徹な視線を向ける母がいた。
まさか、ソフィアが、観客席に来ていたとは思いもよらず……呆然と、自分の母親を見つめていると、彼女は片頬を曲げて嘲り笑った。
「みっともないわね。
やっぱり、あんたは、アイズベルト家で唯一の無才だわ」
「…………」
「無能が。いい加減、無様な醜態を晒すのはやめなさい。この声が聞こえないの。あんたを応援している人間なんていない。三条燈色も、無能で出来損ないで、なにひとつろくに出来ないあんたに嫌気が差して逃げ出したわよ」
「…………」
「諦めなさい、ミュール。あんたには、才能がない。
神が定めた出来損ないよ」
ゆっくりと。
ミュールは、腕に力を入れる。
「……なにをしているの?」
失敗して崩れ落ち、思い切り地面に顔を打ち付ける。
鼻から鼻血が溢れ出し、口の中が切れて真っ赤になり、小刻みに震える両腕が支えにならずに倒れた。
「あんた、そこまでバカじゃないわよね? 立ったとしても、フレア・ビィ・ルルフレイムとフーリィ・フロマ・フリギエンス相手にどうやって勝つつもり? あんたには、勝ち目なんてないってわかってるでしょ?」
立つ。
その信念だけを支えに、ミュールは腕と足に力を入れる。
「本当にバカな子ね、昔から」
「うっ……ぐっ……ふっ……!!」
「昔からノロマでバカで、あたしがいないとなにも出来なかった。友達のひとりも出来ずに、哀れでしょうがなかったわよ」
「ふっ……ふっ……ふっ……!!」
「毎日毎日、虐められて帰ってきて。あんた、弱いから。弱いってわかりきってるから、そういう連中に目をつけられるのよ」
「うぅ……うっ……ぐぅう……!!」
「アイズベルト家の後ろ盾がなかったら、あんたは、黄の寮の寮長になれなかった。
だって、そうでしょ、あんたは出来損ないなんだから」
「ぁあ……ぁあ……ぁああ……!!」
「だから、あんた、いい加減」
ソフィアは、叫ぶ。
「諦めなさいッ!! なにがしたいの!? 無駄なのよ!! 立っても!! アイズベルト家の!! アイズベルト家の後ろ盾がなければ!! あんたみたいな出来損ないは、生きていけないのよ!?」
血と泥で塗れて。
ミュールは、ゆっくりと、顔を上げて母親を見つめる。
「あんたとわたしは同じなの!! アイズベルト家に!! アイズベルト家に支配されて、生涯を過ごさないといけないの!! あたしもあんたも、なんの才能もなかった!! この世界は強者のモノで!! 弱者は!! あんたとあたしみたいな弱者は、我慢するしかないのよ!! そうしないと!! 生きていけないのっ!!」
「…………」
「だから!!」
顔を歪めたソフィアは、叫声を上げる。
「諦めろ、この出来損ないッ!!」
「……いやだ」
驚愕で。
硬直したソフィアは、生まれてはじめて、自分に反抗をした娘を見つめる。
「今……あんた、なんて言ったの……?」
「いやだ」
「あんた、母親に逆らうつも――」
「いやだッ!!」
地面を掴んだミュールは、涙を流しながら首を振る。
「わたしは……わたしは、出来損ないじゃない……似非じゃ……ない……アイツが……アイツが信じてくれたんだ……絶対に勝つって……言ってくれたんだ……わたしは……わたしは、ミュール・エッセ・アイズベルトだ……アイズベルト家の……あなたのお人形じゃない……もう、子供じゃないんだ……わたしは……わたしは……っ!!」
思い切り、腕に力を入れて――ミュールは叫ぶ。
「ココに!! 勝ちに来たんだッ!!」
「…………」
ぼたぼたと、涙を零しながら、顔を歪めたミュールは大口を開ける。
「わたしは……わたし……お、お母さんに……出来損ないなんて言ってほしくない……欲しい言葉は……そんなんじゃない……ずっと……ずっと、褒めて欲しかった……たすけて……ほしかった……わたしは……ただ……」
彼女は、願いを口にする。
「お母さんに……視て欲しかった……」
「ミュー…………ル…………」
力を入れる。
渾身の力を入れて。
それでも、挫けて、倒れて、顔を地に打った。
諦めない。
ミュールは、それでも諦めず、ソフィアは震えながら口を開いた。
「…………い」
か細くささやき。
「…………さい」
身体を震わせながら。
「…………なさい」
ゆっくりと、彼女の頬から涙が流れ落ち――叫んだ。
「立ちなさい、ミュールッ!!」
滂沱の涙を流しながら、ソフィア・エッセ・アイズベルトは、己の本心を言葉に乗せた。
「立ちなさい!! 立ちなさい、ミュール!! 自分のために!! あなたのために!! 立ちなさいッ!! アイズベルト家なんてどうでもいい!! 他人がどう思っていようとも関係ない!! 誰にバカにされようとも!! 貶されようとも!! 邪魔されようとも!!
あなたは!! あなたのためだけに!!」
嗚咽を漏らしながら、ソフィアは叫ぶ。
「立ちなさい、ミュール……ッ!!」
「ぁ、ぁ、ぁ、ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
全身全霊の力を籠めて。
徐々に、上体が持ち上がり始める。
その瞬間――黄色い声が上がった。
「頑張れ、寮長!!」
「貴女なら立てますわ!! お立ちなさい!!」
「がんばれーっ!! 立てーっ!! 立て、りょぉちょおー!!」
「お嬢様、立って!! 立ってください!!」
「寮長、頑張れ!! 頑張れ、寮長!! 立ってぇ!! 立ってぇえ!!」
「ミュール!! ミュール、負けないで!! 貴女なら立てるから!! ミュールッ!!」
「がんばれぇ!! がんばれがんばれがんばれぇ!! りょぉちょぉおおおお!!」
大きな声援。
嘲笑と罵声を掻き消すような大声援が上がり、その声に押されるようにして、ミュールの身体が持ち上がっていく。
「がんばれ……」
涙を流しながら、微笑んだソフィアは、彼女の背中を見つめる。
「がんばれ、ミュール……あぁ、本当に……この子は……」
ミュール・エッセ・アイズベルトは立ち上がり――
「大きくなった……」
天に轟かんばかりの歓声が沸き起こった。




