スペードのA
ちらりと。
俺は、クリスに眼をやる。
「…………」
彼女は、恥ずかしそうに俯き、左右の人差し指をくるくると回して、必死で俺から気を逸らそうとしていた。
それから。
そっと、自分の唇に指を当てて――頬を染めたまま微笑む。
「あ、あの」
声をかけると、彼女は、真っ赤になってびくりと震えた。
「あ……う……」
一度、後退ったクリスは、覚悟を決めたかのように踏みとどまって……そろりそろりと、俺に近寄って、髪の毛を撫で付けてくる。
「……ね、寝癖」
「あ、う、うん」
「…………」
「…………」
し、死にてぇ……。
夢の中での出来事で非常事態、魔力共有を行わなければ、フェアレディに敗北していたであろうことを踏まえたとしても。
長きに渡り、あんなことやこんなことをしてしまったことを思い出し、俺の脳みそは粉々のぐちゃぐちゃだった。
甘酸っぱい思い出に浸された俺の脳は、取り返しがつかない己の所業を明らかにし、永劫の罪罰を求めている。
クリス・エッセ・アイズベルトが、なぜ、俺に好感を抱いていたのかわかった。
恋愛クソ雑魚弱者の彼女の脳を、砂糖でコーティングし、蜂蜜漬けにしたのは他ならぬ俺だったからだ。
そりゃあ、アレだけのことをすれば、恋愛感情を抱いても仕方ない……クリス・エッセ・アイズベルトは、恋愛クソ雑魚弱々ガールなのだから。
本来であれば、夢畏施の魔眼の記憶は、現実へと持ち帰ることは出来ない。
その絡繰を理解している魔人でもいない限りは。
アルスハリヤ……お前は、○す……この正念場で、俺の脳を粉々に破壊した貴様の命は潰えた……この腐れ魔人に取り憑かれたせいで、俺の百合IQは下がる一方だ……楽に死ねると思うなよの言葉と彼岸花の花束を贈ろう……。
気配を感じた俺は、そろりと、クリスの様子を窺った。
ちらり、ちらりと。
俺を上目遣いで見上げるクリスは、なにかを期待するかのように俺の袖を引いていた。
俺は、天を仰ぐ。
涙が――溢れた。
止めどなく零れ落ちてゆく涙は、悔恨と苦痛にまみれて、俺の顔面はあっという間に悲劇の舞台と化していった。
ゆっくりと。
俺は、劉の方を向いて――笑った。
「殺してくれ……」
無手で、俺は、よろよろと劉へと近寄る。
「こ、殺してくれ……頼む……殺してくれ……出来るだけ無残に……に、二度と、この世界に生まれないように丹念に……永遠に地獄の業火で焼かれて、まかり間違っても転生なんぞしないように……殺してくれ……」
気圧されたかのように、劉は構えを取ったまま下がる。
亡者のように、両手を伸ばした俺は、救いを求めてよろけながら進み続ける。
「ころして……ころして……ころして……」
「なにを考えている、三条燈色」
劉は、真顔でささやく。
「貴方の搦手は、もう、私には通用しない。真っ向からかかってきなさい。さもなければ死ぬだけだ」
「……あぁ、そうかよ」
俺は、涙を拭って、九鬼正宗を構える。
「有り難いね……お前を倒すために、俺は、己の心すらも殺した……あの時の判断を間違えたとは思わないが……たった現在、俺は、自分の一部が死んだことを悟った……ココで、お前に殺されるのが俺にとっての最高だが……そんなことになったら、ミュールが泣くからな……」
そっと。
寄ってきたクリスは、俺の横に並んだ。
「死ぬにしても、お前を倒した後だ」
吹っ切れた俺は、微笑を浮かべて、無言で片手を挙げる。
嬉しそうに。
クリスは、俺の手に手を重ねて、指を絡ませた。
「クリス、準備は?」
「あの日から、ずっと――」
彼女は、微笑む。
「出来てる」
手と手が離れて――打ち鳴らし――左右に分かれる。
風切り音と共に弧を描いて。
左と右から、俺とクリスは、同時に攻撃を仕掛ける。
左からの斬撃を円の動きで受け、流し、捻った劉は俺を投げ飛ばし、大量に生成された槍衾を回し蹴りで破壊して、それを目眩ましに飛び込んできたクリスへと拳をブチ込――俺は、その右拳に不可視の矢を撃ち込む。
右腕ごと跳ね上がって、右側面が空いた。
「クリスッ!!」
「ヒイロッ!!」
突っ込んだ俺は、踏み込む度に浮き上がった地面に押され、蒼白い閃光と共に居合の構えを取る。
クリスは、右斜め方向へと水晶の道を作り出す。噴出した魔力で、その道を滑りながら半回転した俺は鯉口を切った。
居合――左から右へ――一閃ッ!!
閃いたその刃は、ガラ空きの右腹部を捉――凄まじい勢いで落ちてきた肘が、九鬼正宗の刀身をへし折る。
だが。
既に――螺旋宴杖――生成は済んでいる。
瞬時に再生成された光刃は、劉の脇腹を切り裂き、すかさず俺は二の太刀を跳ね上げる。
白い布切れが舞い上がる。
薄皮一枚。
少量の血液と共に、シャツの一部が宙を舞い、俺は驚愕で眼を見開いた。
「この私に」
折れている。
再生成された刃を二本指で持った劉は、哀しそうに微笑んだ。
「螺旋宴杖が通用すると思いましたか」
音が――聞こえた。
間近に、黒い死の足音が迫ってきていた。
ぞわっと。
全身の肌が粟立って、劉の拳に溜め込まれた魔力が、蒼白く輝きながら天と地を通じるように柱となって貫いた。
避けろ。
全身が、そう、悲鳴を上げていた。
避けろ、避けろ、避けろッ!!
咄嗟に。
俺は、腰元の黒戒を前方へと振り抜いた。
だが、それは見事に空振り、呆然と俺は己へと向かってくる一撃を見守る。
「無」
生成された泡状の緩衝材が、強烈な閃光に射抜かれ無と化した。
「形」
形を失くして、次々と、俺を護る盾は消え失せる。
「極」
拳が――俺に――突き刺さる。
息が、世界が、時間が止まった。
視界が。
ありとあらゆる方向に弾け飛んで、痛みが遠ざかっていき、ぼんやりとした生温かさに包まれていく。
気づけば。
俺は、地面に寝転がっており、血溜まりの中で空を見上げていた。
「ぅ……ぁ……ぁは……ぁ……ぐ……」
こぽこぽと。
血泡を吹いて、ちかちかと、脳が軋みながら視界が黒ずんでゆく。
「あ……あふ……ふっ……ふっ……ふっ……!!」
小刻みに震えている両腕を使って、姿勢を変え、立ち上がろうとすると……ぼどぼどと、大量の血が、俺の口から零れ落ちていった。
ひゅーひゅーと。
喘鳴が響いて、俺は、血で塗れた黒戒を杖にして立ち上がる。
頭が。
頭が痛い。
割れ落ちそうだ。
狭まった視界の中で、俺は、必死にクリスの姿を探し求める。
「…………く、くり……す」
歩く度に、粘着質な血が垂れ落ち、俺は必死でよろよろと前に進む。
「が、がったい……わざ……だ……あ、あれを……あれをやる……ど、どうにかして、すきをつくっ……」
誰かにぶつかって。
見上げると、無表情の劉は、意識を失ったクリスを抱えていた。
「終わりだ」
「…………」
俺は、真っ赤に濡れた前髪の隙間から、微動だにしない劉を見上げた。
「もう、終わりだ」
「お……おわって……ねぇよ……あるす……はりや……」
眼が閻――俺は、大量に喀血する。
その場で跪いて、俺は、粉々に砕け散った己の頭を押さえる。
両手で、触れて、形を保っていることを確認し……地面に頬がついていて……自分が倒れていることに気づいた。
「もう、諦めなさい」
そっと、クリスを大樹に預けて、上着をかけた劉はささやく。
「『十と六の刻を経て、人ではなくなった』……貴方は、もう、魔眼の限界開眼数を超えている……強制開眼による無茶が、貴方の全身を蝕み、命すらも奪おうとしている……もう一度、開けば、間違いなく貴方は死ぬ……」
俺の九鬼正宗を腰に差した劉は、その場を後にしようとして、くるりとこちらを振り向いた。
「…………」
立ち上がった俺は、よろめきながら、劉の元へと向かう。
一歩、また一歩。
近寄っていき、彼女は、哀れみの視線を俺に向ける。
息を荒げながら、俺は黒戒を彼女へと振り上げ――ボグッ――枝が折れたような音が響いて、俺の右腕が反対方向に折れ曲がる。
「ぉ……ぁぐ……ぐぉお……!!」
信じ難い激痛、俺は腕を押さえて蹲る。
「…………」
劉は歩き出し、俺は、その肩に左手をかけた。
俺の人差し指と中指をもって。
正反対方向に思い切り引っ張った劉は、俺の指をへし折って、苦悶の声を上げる俺を無視して歩――その肩に、俺は、折れた左手をかけた。
拳。
綺麗に入った右拳は、俺の内部を破壊し、声もなく俺は地面の上でもがき苦しむ。
劉は歩き出――その足を掴んだ俺を見下ろした。
「なぜ」
彼女は、ささやく。
「なぜ、そこまで出来る?」
「きまっ……てんだろ……」
俺は、顔を上げ、彼女に向かって言葉を吐き出す。
「あの子が……戦ってるからだ……ッ!!」
「ミュール様は、貴方にとって、ただの他人の筈だ」
劉の足を掴み直し、血で塗れた指で地面を掻いて、俺は重すぎる全身をゆっくりと持ち上げ――立ち上がる。
「他人だとかなんだとか……そんなの関係ねぇんだよ……!」
俺は、笑いながら、劉の前に立ちはだかる。
「俺は……俺の前で……あの子を泣かせはしねぇ……一度……一度、命を懸けると決めたなら……なにがあろうとも……俺は完遂する……腕を折られようと指をへし曲げられようと……あの子のために戦い続ける……たったひとりの味方で居続ける……あの子が星にかけた願いを……ささやかな願いを……ただ、家族で、ピクニックに行きたいなんて……可愛らしい願いを叶えられもしないで……百合を護れるかよ……だから……お前が……お前が……あの子の邪魔をしようって言うなら……ッ!!」
俺は、絶叫する。
「俺は、テメェをブチのめすッ!!」
劉は、微笑を浮かべる。
「良い度胸だ。
だが」
劉の拳が、優しく、俺の鳩尾に入る。
「言葉だけでは、誰も救えはしない」
膝から崩れ落ちて、どしゃりと、俺は地面に倒れ込む。
じんわりと。
血の海が広がっていき、どんどん、全身が冷たくなっていく。
じわじわと、命が抜け落ちていくのを感じ、紫煙をくゆらせているアルスハリヤがこちらを見下ろしていた。
「おいおい、こんなところで終わりか。
君、向こう見ずにも程があるだろ。あんなバケモノに喧嘩を売って、本当に勝てると思ってたのか」
「…………」
苦笑して、アルスハリヤは、ふーっと煙を吐き出す。
「なるほど、良いんだな」
「…………」
「いや、いいさ。むしろ、僕としては大歓迎だ。いずれ、そうなるとは思っていたから止めなかった。君は、どちらかと言えばこちら側だからね」
「…………」
「本当に……面白い男だよ、君は……出逢った時からそうだった……やれやれ、どこまで行くのか……そもそも、そういう発想に行き着くのがイカれているというか……クリス・エッセ・アイズベルトとの愛の力でどうにかして欲しかったのが本音だが……まぁ、ヤツは、クリスのことを知りすぎていたし魔人でもなかったからな……」
「…………」
「さて、コレが、僕らにとっての最後の切り札だ。
己を懸ける準備は――出来てるか?」
アルスハリヤは、ニヤリと嗤う。
「失礼、聞くまでもないな」
魔人は、大袈裟に両腕を広げて、煙に包まれる。
「さぁ、愉しい愉しい舞台の幕が上がるぞ! 軽やかに! 健やかに! 際やかに! お手々を繋いで、バケモノ退治に出かけよう! すべてを懸けた大一番だ! 運命の審判者の前で、華麗に踊ろうじゃないか!」
彼女は、恭しく一礼をして、俺に手を差し伸べる。
「さぁ、行こうか」
俺は、その手を――握る。
「相棒」
寒気。
勢いよく、劉は振り向いて――視た。
昏い。
いつの間にか、周囲は薄暗闇に包まれており、ぼんやりとした煙の中にひとつの人影が立っていた。
「三条……燈色……?」
なぜ、疑問を口にしたのか。
暗闇の中に立つ彼は、俯いており、その相貌は窺い知れない。
だが、劉は感じている。
眼前に立つ存在が、変じ、災厄と化したことを。
闇と煙に包まれた三条燈色は、片手で顔を覆い隠し、ゆっくりと顔を上げていった。
その顔は、視えない。
だがしかし、その色は視えた。
緋色。
ぼんやりとした闇の只中で、くっきりと浮かび上がる緋色の両眼、それはぼんやりと光りながら劉を射殺そうとしていた。
「バカな……」
思わず、劉は驚愕を口にする。
「払暁叙事を強制開眼すれば、生きていられる筈もない……なぜ……眼が閻いている……?」
いつの間にか、折れた右腕も曲がった左指も元に戻り、膨大な魔力が三条燈色を中心に立ち昇っている。
その瞬間、劉は、ひとつの可能性に行き着く。
「そうか……三条緋色……お前は……」
指の隙間から覗く緋色の瞳が――劉を囚える。
「払暁叙事で、可能性を引き寄せたのか……三条家の伝承、『十と六の刻を経て、人ではなくなった』……その伝承を逆手に取って、払暁叙事でその可能性を視たのか……!! 強制開眼で閻いた眼で……私に勝てる可能性を引き寄せ……脳と眼を壊しながら直しているのか……ッ!!」
劉は、歓喜に近い感情と共に叫ぶ。
「たったひとりの少女のために!! あの子を救うために!! 彼女の願いを叶えるために!!
人の身すら捨ててみせたか、三条燈色ッ!!」
「よぉ、聞こえるか、守護天使」
闇の中に、緋色の目玉が浮かび上がる。
「ようやく」
無表情で、彼は、人間を捨てて――
「補助輪が外れたぜ」
魔人と化した。




