ミュール・エッセ・アイズベルト
真っ白な紙面に絵が描かれる。
クレヨンを握り込んだ白金髪の少女は、ちっちゃな椅子に腰掛けて、一生懸命に絵を描いていた。
その周囲には、誰もいない。
いや、誰も寄り付かない。
「ミュールちゃん」
唯一、寄ってきた幼稚園教諭は、笑顔で彼女に話しかける。
「なにを描いてるの?」
「あのねー!」
満面の笑みを浮かべた少女は、ちっちゃな指で絵を指差す。
「これがねー、おかあさんでねー、こっちがくりすおねえさま! しりあおねえさまとねー、かていきょーしのリウ! あと、リリィもいるよ!」
「皆で、ピクニックしてる絵かな? いいな~! 先生も、サンドイッチ食べたいな~! コレは、どこに行ってきた時の絵なの?」
「みゅーる、ぴくにっく、いったことないよ!」
「……え?」
逆手に持ったクレヨンで、少女は絵に色を付けていく。
「ほかのひとにみられたらたいへんだから、アイズベルトけのえらいひとたちがゆるしてくれないんだって。このあいだねー、いえにきたえらいひとが、できそこないはいえからだすなっておこってた」
「…………」
「でもねー、おかあさん、いつかぴくにっくにつれていってくれるって! やくそくしたの! それでねそれでねー、みんなで、さんどいっちたべるんだってー! みゅーるはねー、ほかのことちがうから、いいこでがまんしてないといけないんだっていってた!」
「……ミュールちゃんは、お友だちと遊ばないの?」
「んとねー、おうちにかえったら、リリィがあそんでくれるよー!」
「そうじゃなくて……その……幼稚園のお友だちとは……?」
「えっとねー、みゅーる、だめなこだからいっしょにあそぶのだめなんだってー! おかあさんとかーおとおさんとかー、みゅーるとあそんだらだめだっていうんだってー! なんかねー、きもちわるいんだってー!」
「…………」
幼稚園教諭は、ゆっくりと、彼女の頭を撫でる。
「……じゃあ、先生と遊ぼっか?」
「えっ、いいの!?」
「ちょっと!! ヘルミ先生!!」
鋭い声と共に呼び出された彼女は、髪に白髪が混じった初老の教諭と話し始める。
数分に及ぶ口論が続いている間、クレヨンを握ったミュールは、じっとその様子を眺め続けていた。
戻ってきた先生は、潤んだ眼を赤くして、震え声でささやく。
「ご、ごめんね、ミュールちゃん……先生、用事が出来て遊べなくなっちゃった……ひとりでお絵描き出来るかな……?」
「……うん」
背を丸めて、震えながら立ち去る彼女を見つめて――ミュールは、静かに、お絵描きを再開した。
「あうっ!」
小さな水弾をぶつけられて、よろけた彼女は地面に倒れる。
三人の児童たちは、笑いながら、出力が絞られた魔導触媒器の引き金を引いた。
「あんた、魔法がつかえないんでしょ?」
「あはは、信じらんない! なんで、魔法も使えないのに授業出てんのよ!」
「本当に、あなた、アイズベルト家の人間?」
相次いで、飛んでくる水弾から、顔を守ろうとして両腕を上げる。
なぜ、彼女らが、こんなに酷いことをするのかわからなかったが……ミュールは、必死で後ろに下がっているうちに躓き尻もちをつく。
「や、やめて!」
ばしゃりと音を立てて。
浅瀬に落ちた彼女は、泣きながら、四つん這いで逃げる。
「逃げろ逃げろ、落ちこぼれ!」
ようやく、彼女らが飽きた頃には。
ミュールの持っていた鞄の中身は、すべて、川の中にぶち撒けられており、学級新聞用に描いた四コマ漫画はふにゃふにゃにふやけていた。
彼女の力作は、拾い上げた瞬間に力なく破れて流されていく。
「ぐっ……うっ……うぅ……」
泣きながら、ミュールは、水中に沈んだ教科書や消しゴムを拾い集める。
水を吸って、がぽがぽと音を立てる靴を履き直し、道路に水痕を残しながら彼女は帰っていった。
「はぁ!? なぜ、わたしが、黄の寮の寮長から下ろされないといけないんですか!?」
両手で机を叩いた三年生は、顔を真っ赤にしながら画面へとがなり立てる。
ばん、ばん、ばんっ!!
音が立つ度にミュールは震え、付き添っていたリリィに肩を撫でられる。
「ふ、ふざけないでください!!
だって、彼女は、まだ一年生で――もしもし!? もしもし!?」
画面が消えて、震えながら顔を伏せた彼女は、憤怒の籠もった両眼でミュールを睨みつける。
「……それが、アイズベルト家のやり口か」
「あ、あの、わたしは」
次々と鞄に私物をブチ込んでいった元・寮長は、立ち上がったミュールを無視して歩き始める。
「わ、わたし、あの! は、母と話します! や、やっぱり、良くないことだって! だ、だから、あの!
あ、明日にでも、母と――」
追いすがったミュールが、彼女の腕に触れた瞬間――凄まじい力で振り払われて、壁に叩きつけられる。
息が止まって。
小さな彼女は、痛みで顔をしかめた。
「ミュールッ!!」
駆け寄ってきたリリィに介抱されながら、ミュールは、昏く冷たい眼でこちらを睨めつける彼女を見上げた。
「触れるな」
彼女は、ミュールを見下ろす。
「魔法も使えない……出来損ないが……」
強烈な音を響かせて、扉が閉まる。
呆然と。
座り込んだミュールは、その姿を見送り、自分の代わりに泣き始めたリリィの嗚咽を聞いていた。
「ほら、視て、ルルフレイム家の」
「あぁ、フレア様ね! 学業も魔法も完全無比で、鳳嬢魔法学園始まって以来の高スコア保持者だって!」
黄の寮生が、歓喜の声を上げる。
教科書とノートを胸に抱えたミュールは、その声に釣られ、廊下を通り過ぎてゆく朱色の少女を見つめた。
「あら、完全無比と言ったら、フーリィ様だって敗けてないわよ」
「えぇ、そうね! あの御方は、あの歳でもう魔法士として大成している上に、フリギエンス・グループの要とまで言われているそうよ!」
朱色の少女と肩を並べて、綺麗な姿勢で歩く蒼色の少女。
フレア・ビィ・ルルフレイム、フーリィ・フロマ・フリギエンス。
鳳嬢魔法学園が誇るふたつの巨星は、称賛と敬愛の視線に見守られ、輝かしい色彩を放ちながら栄光の道を征く。
ちらりと、ふたりはミュールの方に視線を向けて――背景に目をやった時と同様に、直ぐに視線は通り過ぎていった。
その圧倒的な存在感に、鳳嬢生たちは感嘆の息を吐く。
「すごい御人ね……まるで、天上の存在みたいだわ……」
「本当ね、私たちなんて足元にも及ばないわ……視界にも入らないんでしょうね……」
黄の寮生は、苦笑を浮かべる。
「それに比べて、うちの寮長は……ねぇ?」
「献金を積んで、手に入れた地位になんの意味があるのかしら? 魔法ひとつ使えない癖にみっともない」
ぎゅっと、ノートを抱き込んで。
頬を引くつかせたミュールは、己の寮に属する二人組へと近寄る。
「お、おい」
びくりと。
震えた二人組は、一瞬だけバツの悪そうな顔をして……直ぐに余裕を取り戻し、嘲笑を浮かべた。
「お、お前たち、あのふたりは、朱の寮と蒼の寮の寮長で、黄の寮の人間じゃないぞ……こ、こんな往来で、あのふたりばかり大声で褒めそやかすのは……ほ、褒められたものじゃないな……」
くすくすと。
二人組は、笑って、ミュールを見下ろす。
「な、なんだ……な、なにを笑ってる……?」
「いえ、別に」
「ただ、ねぇ……こんなところで、寮生に突っかかっている時間があったら、もう少し努力なさったらいかがでしょうか?」
遠巻きに。
各寮の生徒たちが見物している中で、ミュールは、かーっと顔を真っ赤にする。
「ど、努力はしてる! ま、毎日! 毎日、大圖書館で自習をしてるんだ! 学業の成績はそんなに悪くない! ほ、ほら、ペンダコも出来てる! それに隈も! ね、寝る間も惜しんで頑張ってる!! ま、魔法の練習だって!! 怠ったことはないんだ!!
わ、わたし、ちゃんと、寮長として相応しくなれるように――」
また、くすくすと笑われて、ミュールは両眼に涙を滲ませる。
「な、なんで、笑う!?」
「だって、ねぇ、みっともないなぁって」
笑う彼女の前で、ミュールは動きを止める。
「努力したからなんですか? 結果は? 寮長の成績は、確かにそう悪くはないかもしれませんが、フレア様やフーリィ様と比べたらとてもとても……無駄な努力を続けて、バカなんじゃないのとしか思いませんよ?」
「そ、それに、ま、魔法の練習って! あ、あなた、魔法、使えないじゃないですか! ば、バカなの? 時間の無駄じゃない?」
笑い声が。
嘲り笑う声が、ミュールを包み、彼女はオロオロと辺りを見回す。
「た、確かに、わたしには魔力がないかもしれないが! む、無形極と言って! しゅ、周囲の魔力を使って……だ、だから、わたしも魔法を使えるかもしれなくて……り、リウが……だ、だから……そ、それに、成績だって頑張れば……」
「無駄なんですよ」
突きつけられて。
ミュールは、呆然と、彼女を見上げる。
「人には格ってものがあるんだから……なんで、才能もないのに、黄の寮の寮長なんてやってるの?」
「金を積んで、前の寮長から無理矢理奪い取った癖に。卑怯者。
なにも出来ない無能なんだから、とっとと、寮長を辞任しなさいよ」
己を蔑む眼を前にして、震えたミュールは、必死で涙を堪らえようとする。
「で、でも、お、お母様が……わ、わたしは、ちゃんと話したんだ……な、何度も、辞任しようとした……で、でも、誰に言ってもダメで……だ、だから、わ、わたし、が、がんばっ……がんばって……」
それでも、ぽろぽろと涙が溢れ出し、嬉しそうに二人組は笑みを浮かべる。
「あーあ、泣いちゃった」
「ねぇ、寮長、知ってます? 寮生たちは各寮の寮長に二つ名を付けて、その呼び名で敬意を呼び表すって。
寮長は、自分が、なんて呼ばれてるか知ってます?」
ニヤニヤと嘲笑いながら、彼女は言った。
「似非」
愕然と。
顔を上げたミュールは、四方八方から笑い声を浴びながら――ぐるぐると、過去の場面が蘇り――大声を張り上げる。
「わ、わたしは、アイズベルト家の人間だぞっ!!」
涙を流しながら、ミュールは、胸の中で教科書とノートを潰していく。
「アイズベルト家は!! アイズベルト家は、ルルフレイム家やフリギエンス家にも並ぶ名家だ!! わ、わたしは、お前らとは違うんだっ!! わたしは凄いんだ!! お、お前らなんて!! お前らなんて、簡単にわたしの寮から追い出せるんだからなっ!!」
二人組は、冷めた眼をミュールに向けた。
彼女らは、ミュールに背中を向けて歩き始める。いつの間にか、遠巻きに視ていた人々も、ミュールから遠ざかっていった。
「は、ははっ!! 逃げるのか!? ざまーみろ!! アイズベルト家に!! わたしに逆らうからこうなるんだ!! お前らとは格が違うんだからな!! お前らみたいな小さな家、その気になれば何時でも潰せるんだ!!」
その背中に、ミュールは、涙と言葉をぶつける。
「わ、わかったら!! 二度と!! 二度と、わたしに逆らうなよ!! わかったか!? は、ははっ!! バカどもが!! アイズベルト家に逆らうからこうなるんだ!! お前らの顔は憶えたからな!! か、覚悟しろ、覚悟しろよ、愚か者どもっ!!」
視線。
ミュールは、ゆっくりと目線を向ける。
朱と蒼。
ふたつの視線が、哀れむようにして彼女を捉え――それが、初めて、ふたりがミュールを認識した瞬間で――ふたりの寮長は、眼を逸らして、廊下の奥へと消えていった。
誰もいなくなった廊下で。
ぺたりと、力なく、ミュールは座り込んだ。
「は……ははっ……逃げたか……大したことのない奴らだ……な、なにが、フレア様とフーリィ様だ……アイズベルト家は凄いんだ……わ、わたしに敵うヤツなんていない……お母様だって……そう言ってた……あ、あんな連中……相手にしてやる価値もない……」
床に膝をついたミュールは、ぐちゃぐちゃに曲がったノートの折り目を伸ばしながら、ぶつぶつと言葉を漏らす。
「ど、どうでもいいことで、感情的になりすぎたな……教科書とノートが……ぐ、ぐちゃぐちゃだ……わ、わたしは、寮長だからな……が、頑張らないと……ほ、他の人よりも……努力しないと……皆……皆、認めてくれないんだ……は、早く、大圖書館に行って……今日の復習を……」
何度も何度も。
折り目を伸ばし続けて――ミュールの両手が止まる。
「こんなことして……!!」
彼女の両手は、教科書とノートを鷲掴みにし、勢いよく引き破っていく。
「なにになるんだっ!? こんなことして!? なにになる!? 無駄だ無駄だ無駄だ!! こんな!! 幾ら勉強しても!! どうせ!! どうせ、どうせ、どうせぇ!! 時間の無駄だ!! 無駄だ無駄だ無駄だぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
己の手で引き裂いて。
大量に字を書き込んだ自分の努力の証が、バラバラになってゴミ屑になったのを視たミュールは、呆然と積み重なった紙の山を見つめ――地面に突っ伏す。
「ぐっ……」
握り締めた拳で床を殴りつけ、歯を食いしばったミュールは、誰もいない廊下で嗚咽を漏らす。
「ぐぉお……ぉっ……ぉお……ぉおお……っ!!」
それ以来、彼女は、力を尽くすことをやめた。
なにもかもを――諦めた筈だった。
『この新入生歓迎会ってヤツに参加したいんですけど……参加申請、受け付けてもらってもいい?』
「しかし」
我に返ったミュールは、周囲を見回す。
フレアが即席で用意した円形闘技場……黄の寮の本拠地に作られた円状の戦場は、等間隔で立てられた小型の黒柱によって形成されていた。
この黒柱によって、寮長たちによる魔法は、観客席へと到達することはない。
三寮戦を盛り上げるためか。
一般客の立ち入りも許されたこの場所で、寮長同士による決戦が始まろうとしている。
ミュールは、無意識に、母親の姿を探して……来るわけもないかと、微笑を浮かべ、震えている己の拳を握り締める。
「三条燈色は、まさに玉だな。
この三寮戦は、ヤツに翻弄されっぱなしだった」
「ヒーくんは、曲者中の曲者だもの。初期に潰しておきたかったんだけど、そう簡単にはいかなかったわね」
ふたりの傑物は、ミュールの前で雑談に花を咲かせている。
彼女らは、リラックスしており、自分が敗けるとは思いもしないらしい。これから始まる一騎討ちに対して、不安もなにもなく、自然体そのものだった。
「龍の翼を広げるには、この戦場は狭すぎた……ようやく、終わると思えば、感慨深さよりも雑事が片付いたという安堵の方が大きい。
それに、コレが終われば、三条燈色は吾のものだしな」
「……おい」
「ふふ、その傲慢ぶった鼻面、へし折ってあげる。可哀想に。ヒーくんも、貴女の無様な姿を視れば、朱の寮に入ろうなんて気はなくなるわよ」
「……おい」
「ひゃっはっは、笑わせるなよ、人間如――」
「おい」
ようやく。
ふたりは、こちらに視線を向け、ミュールは笑顔で手を差し出した。
「試合前の握手だ」
「なんだ、スポーツマンシップとかいうヤツか」
フレアは、笑いながら、ミュールの手を握る。
「こういうの苦手なんだけど……まぁ、世間受けは良いわね」
面倒くさそうに、フーリィはミュールと握手を交わす。
「ミュール・エッセ・アイズベルト、記念にきみと握手を交わせて良かった」
「そうね。良い思い出になる」
笑うふたりに、ミュールは満面の笑みを向けた。
「そうだな、お前らふたりにとって忘れられない日になる」
ゆっくりと、彼女らは表情を消して――
「この手を忘れるなよ」
ニコニコと笑いながら、ミュールは、口から言葉を吐き出した。
「お前らが辿っている栄光の道に、唯一無二の汚点を擦り付ける手だ……二度と、この感触を忘れられなくなる……スポーツマンシップでも敗北を喫する前の記念でもない……わたしは、ココに」
――ミュール・エッセ・アイズベルトは必ず勝つ
「勝ちに来た」
目の色を変えたふたりに、ミュールは微笑みかける。
「握手ついでに、自己紹介しておこう。
わたしの名前は……二度と忘れられなくなる相手は……お前らと雌雄を決するためにココに立っているのは……」
ミュールは、喉から叫びを吐き出した。
「ミュール・エッセ・アイズベルトだッ!! わたしは、ココに!! 借りを返しに来たッ!! 過去と決別するために!! 黄の寮の寮長として!! たったひとりの!! ミュール・エッセ・アイズベルトとして!!」
叫声は高らかに天へと上り、ひとりの少女は己を誇示する。
「お前らを倒しに来たんだッ!! へらへらと笑ってないで!! 全力で来いッ!! わたしは!! 出来損ないでも!! 似非でも!! アイズベルト家の卑怯者でもなんでもない!! 他のっ!! 他の誰でもない!!
わたしは……わたしはっ……わたしはッ!!」
彼女は、己の胸を拳で殴りつける。
「アイツが信じた――ミュール・エッセ・アイズベルトだッ!!」
この瞬間。
三条燈色は、劉悠然との死闘を始めている。
図らずも、互いに互いを信じたふたりは――同じ瞬間に、己を懸けた戦いの火蓋を切っていた。