死神との離別
「目が覚めましたか」
声をかけられて、仰向けに寝させられていた俺は顔を上げる。
片膝を立てて座り込む劉は、大樹に背を預け、じっとこちらを見据えている。
俺の上半身にかけられているスーツの上着……それが劉のものだとわかり、俺は、枝葉の隙間から覗く青空を見上げる。
「……なんで助けた?」
「私は言った筈だ」
言い聞かせるように、彼女はゆっくりとささやく。
「三寮戦で、黄の寮が勝つことは絶対にない」
膝の上に載せた腕の上から、彼女は俺を見つめる。
「戦場を視なさい」
「…………」
「戦場を視なさい」
繰り返されて、俺は、素直に戦場を視る。
「…………」
戦場は、蒼と朱に染まっていた。
蒼の寮も、朱の寮も、黄の寮に対して第二戦線Bot、Mid、Top、すべての占拠地を奪取している。
朱の寮と蒼の寮は一進一退の攻防を繰り広げているらしく、第二戦線BotとMidを朱の寮が占拠しているが、目まぐるしく赤と青の点が入り混じっていた。
「……俺が意識を失ってから何分経った?」
「1時間12分」
俺は、起き上がろうとして――強烈な眼と脳の痛みに、呻きながらその場に突っ伏す。
「死にますよ」
立っていられず、脂汗を垂れ流しながら、俺は痛む眼を両手で押さえつける。
「今までに、何度、払暁叙事を強制開眼しましたか?」
「……憶えてない」
「魔眼というものは、魔法士の肉体の準備が整った時に開眼するものだ。土台が出来ていないのに魔眼を解放すれば、眼はおろか脳も耐えられない。クリス様の視力がほぼないのも、幼少時にアイズベルト家が螺旋宴杖を無理に開眼したからだ。
眼という器官を通じて発現させる魔法は、異界と現界が入り混じった際に偶然的に発生した産物に過ぎない。本来は、半人半魔の存在に備わる特異体質の一種であり、人間の身で扱うには反動が大きすぎる」
「…………」
「三条家にも、言い伝えられている筈です……魔眼を強制開眼した人間がどうなるのかは」
――十と六の刻を経て、人ではなくなった
レイから聞き及んだ話を思い出し、俺は、劉に向かって頷く。
「知ってる……15秒が限度の縛りだろ……三条家の資料では『十と六の刻を経て、人ではなくなった』って……」
「違う」
無表情で、劉はささやく。
「刻ではなく刻だ」
ゆっくりと、俺は、大きく眼を見開いた。
「魔眼は、15回以上、強制開眼すれば宿主の脳を灼き殺す」
脳内で、俺は、払暁叙事の使用回数を数えて……その残り回数は、限りなく少ないことを知った。
「15回というのは、飽くまでも平均数に過ぎない。実際には12回で死んだ人間もいれば、18回まで耐えた人間もいる。
シリア様は――」
感情の宿っていない声音で、淡々と劉はつぶやく。
「7回目の強制開眼で死んだ」
「…………」
「あの子は、自然開眼だと偽っていた。自分がダメになれば、クリス様とミュール様に実験が受け継がれるとわかっていたから……あの子は、螺旋宴杖の開眼条件を探るためだけに、アイズベルト家に殺された。
結局、その計画はクリス様に受け継がれ、彼女も強制開眼によって視力を失った」
ぼそぼそと、彼女は心中を吐露する。
「私も……ソフィア様も……なにも出来なかった……あの子は、死の間際にクリス様でもミュール様でもなくソフィア様を頼むと言い残した……『きっと、お母さんには味方がひとりもいないから』と……クリス様には才能が……ミュール様にはリリィ・クラシカルがいた……あの子の言う通り……ソフィア様にはなにもなかった……諦めてしまったあの女性にはなにも……」
「…………」
「ソフィア様は、元々、活発で明るく、誰にでも別け隔てなく接する優しい女性だった。恋人もいた。何不自由なく過ごしていたが、実の姉が事故死したことが原因で、家督を継がされることになりすべてを奪われた。
将来を誓い合った恋人からは引き離され、決められた相手と血を混ぜ合わせることを強制され、シリア様を救おうと全力を尽くしたのに失敗した」
劉は、身じろぎひとつせずに語る。
「シリア様が死んだ日……その日は、ソフィア様の誕生日だった……彼女は、真っ暗な部屋の中で、シリア様がプレゼントしてくれたワインを抱いて……涙ひとつ流すこともなく……ただ、呆然としていた……以来、あの女性は……プレゼントしてもらった銘柄のワインしか口にしない……」
真っ直ぐに。
昏い目で、彼女は、俺を覗き込む。
「ソフィア様は、すべてを尽くして失敗した。娘を失った。だから、彼女は、彼女なりの方法でミュール様を救おうとしている。あの子には才能がない。ソフィア様と同じように、アイズベルトの名を失えば、なにをしても失敗すると思っている。私もその考えに賛同する。
人間には限界がある。生まれ持った才覚がある。運命というものは、抗いようがなく、人事を尽くして天命を待つ他ない。
私もソフィア様も」
哀しそうに、劉は笑む。
「シリア様を救えなかった……誰も……誰も救えなかった……シリア様は、正義の人だったから……すべてが上手くいくと思っていた……小さな彼女の言葉を……ただの子供の言葉を真に受けてしまった……『正義は必ず勝つ』なんて……この世界には、正義なんて星の数ほどあるのに……正義も悪も不明確で……力ある者が勝つだけなのに……」
「…………」
「私は」
彼女は、自分の手のひらを見つめる。
「私は……一度、死んだ……魔力を失って……増長して酷いことをして、大口を叩いていた私のことを……世間も企業も友人も親戚も家族も……糾弾し追い詰めて、味方は誰一人もいなかった……あの時、確かに、私は死んで……あの子に手を引かれて生き返った……」
真っ黒な手袋で、塗り潰された己の手を見下ろしたまま……彼女は、ささやく。
「楽しかった……あの日々が……あの子を妹のように想っていた……春は桜を視て、夏は海に行って、秋は紅葉狩りをし、冬は雪だるまを作った……天才だと持て囃されていた時には、そんなことをするのは愚かな人間だけだと思っていた……そんなこと、私は知らなかった……楽しかったことは、すべて、あの子に教えてもらった……彼女のためならば、自分の命を捨てられると……そう想った……」
彼女は、両手で、己の顔を覆う。
「なのに……私は……私は……なにも……なにも出来なかった……あの子のために……なにも……なんのために……なんのために、もう一度、この力を手に入れた……なんのために……なんの……ために……強くなった……!」
髪を振り乱しながら、彼女は首を振る。
「私は……私は……死神だ……不幸に魅入られている……魔力を失った時に気づけば良かった……そうすれば……そうすれば、あの子の手を取らなかったのに……私は……私は……なぜ……なぜ……誤った……なぜ……なぜ……!!」
そして、劉悠然は顔を上げる。
涙は乾いていた。
いや、とっくの昔に……彼女の涙は引いていた。
自身を慰めるための涙を流すことはなく、ただひたすらに自滅の道を辿ることで己を罰しようとしていた。
そこには、執着的で物哀しい失意と決意だけが宿っていた。
彼女は、ソフィア・エッセ・アイズベルトのたったひとりの味方でいることで……己の形を保ち続けていた。
「棄権しなさい、三条燈色。カメラが届かない箇所で、ソフィア様の伏兵は黄の寮が不利になるように工作を仕掛けています。
ソフィア様は、三寮戦で黄の寮が敗北することでミュール様が元に戻ると思っている。そうすれば、自分の庇護下に彼女を置いて、アイズベルト家から護れると考えている。
ソフィア様は――」
劉は、つぶやく。
「その邪魔になるようであれば、三条燈色を殺せと言っている」
「…………」
立ち上がった彼女は、俺の傍でしゃがんで、ゆっくりと手を差し伸ばした。
「手を取りなさい。私が安全な場所まで連れて行く。このまま三寮戦を続ければ、私は、貴方を殺すことになる。
貴方は、十分に義務を果たした。もう限界の筈だ。これ以上、続ければ、魔眼は貴方を憑き殺す。私は、もう、シリア様のように死ぬ人間を視たくない」
表舞台で『俺を赦さない』と言った彼女は、舞台裏で俺へと手を伸ばし救い取ろうとしていた。
「手を取りなさい」
「…………」
「私を」
劉悠然は、顔を歪める。
「死神にしないで……」
俺は、彼女の顔を視て、震える手を伸ばし――劉は微笑み――彼女の手を通り過ぎて、俺は、彼女の後頭部を掴んで額に額をぶち当てた。
「おい」
俺は、笑う。
「舐めんな。誰が、お前に敗けるかよ。
誰が――」
劉悠然は、静かに瞠目する。
「お前を死神にするかよ」
「貴方は……」
顔を歪めたまま、彼女は、俺の両肩を掴む。
「私には勝てない……わかる筈だ……理解しなさい……そんなボロボロの身体で……なにが出来る……なにが……!?」
「救える」
真正面から、俺は、劉を捉える。
「ミュールも……クリスも……ソフィアも……あんたも……全員……そのために、あんたを倒さなきゃいけないなら……俺は……」
俺は、断言する。
「勝つ、必ず、なにがあろうともあんたに勝つ」
「無理だ……なぜ、言い切れる……」
「簡単だろ、あんたも知ってる筈だ」
俺は、満面の笑みで――言葉を突きつける。
「正義は必ず勝つ」
唖然として、硬直した劉を置いて、俺はゆっくりと立ち上がる。
「悪いが、俺は、ノーマルエンドじゃなくてトゥルーエンドを目指してる。
俺の知ってるトゥルーエンドでは――」
笑いながら、俺は、彼女に指先を向けた。
「全員、笑ってるんだぜ?」
「…………」
彼女を置き去りにして、ふらつきながら、俺は黄の寮の本拠地を目指す。
「劉」
俺は、振り向かずに口を開く。
「全力で来い。
黄の寮は……ミュールは……俺は……」
ただ、進みながら、俺は言った。
「必ず勝つ」
止まった劉を残し、俺は未来へと進み続けた。




