ひとつの契機
人が変わったかのように。
ミュールは、師匠とりっちゃんのところに通い詰め、ひたすら鍛錬に励んだ。
ソフィア・エッセ・アイズベルトは、ミュールの首に巻いた鎖を巻き直し、自分の元へと引きずり込んだつもりだった。
ソフィアは、『アイズベルト家の人間』としてミュールを教育し、他者を見下し、傲慢になるように矯正した。自分が『出来損ない』だと信じ込ませることで、彼女がなにもかもを諦めるように仕組んだ。
そう、仕組んだつもりだったが。
先程、ソフィアがやったことは、その逆で、あの出来事はミュール・エッセ・アイズベルトに決意を促した。
月檻は『後悔することになる』と言っていたが、俺としては『絶対に後悔することはない』と言い切れた。
人間は変わる。
『男子三日会わざれば刮目してみよ』と呉の呂蒙が言ったが、それは『女子三日会わざれば刮目してみよ』という意味でもあり、この言葉の本質は『人間は、三日もあれば変われる』だとされている。
三寮戦まで、日にちは残されていない。
普段のミュールであれば、誰かに縋るか諦めていたであろう頃合いでも。
彼女は、侮辱の中で、ひたすらに鍛え抜いた。
彼女は、罵倒の中で、ひたすらに学び続けた。
彼女は、嘲笑の中で、ひたすらに進み続けた。
昼夜問わず、彼女は、屋内訓練場に籠もって、師匠の厳しい指導にも付いていった。何度か、泣いている姿を見かけたが、それでも彼女は立ち上がって鍛錬を続けていた。
「……三寮戦の参加辞退率が、60%を超えました」
ソフィアの息がかかっているであろう参加辞退率を前にしても、ミュールは諦めようともせず、リリィさんの言葉を当然のように受け止める。
「当たり前だな!」
彼女は、笑う。
「報いだ!」
「いや、報いじゃない」
俺は、笑う。
「機会だ。現在のミュールを視てもらうための機会だよ。わかるだろ」
「ヒイロ」
窓の外を見上げながら、ミュールは言った。
「わたしは、現在まで、お母様が言うことはすべて正しいと思ってた……黄の寮は、アイズベルト家の寮だから、自分が気に入らない人間は追い出しても良いと感じてた……でも、現在、この寮から追い出されようとしてるのはわたしで……過半数の人間が、わたしがこの寮の寮長に相応しくないと思ってる……だから、ようやく、追い出される側の人間の気持ちがわかった……」
青い空を見つめたまま、彼女は微笑む。
「今日、寮のラウンジに行ってみた……皆、楽しそうに笑っていて……冗談を言い合っていて……蒼の寮や朱の寮とは違って、黄の寮は雰囲気がなごやかなんだ……だから、わかった……」
ミュールは、黄の寮の所属章を見つめる。
「黄の寮を作ってるのは、わたしでもアイズベルト家でもない……この寮に暮らす生徒たちが……黄の寮を作り上げてるんだ……」
俺とリリィさんは、目を合わせて――ミュールは、勢いよく立ち上がる。
「ヒイロ! わたし、謝ってくる! 自己満足かもしれないし、相手にとっては迷惑なのかもしれないが! わたしは、謝るべきだと思うから謝ってくる!!」
俺は、そう言うなり、駆け出そうとしたミュールの肩を掴んで止める。
「いやいや、待ってくださいよ、寮長。
今の今まで、お嬢様やってた寮長が、謝罪のいろはを理解してるとは思えませんね……俺に付いてこい。師匠との鍛錬中に殺されないように、培ってきた謝罪テクニック、見せつける時がきたようですね」
自信満々の俺に対して、ミュールは「ぉお!」とキラキラした目を向け――
「「すいっませんしたぁ!!」」
一緒に、綺麗な土下座を決めた。
かつて、ミュールの手で黄の寮から追い出され、蒼の寮に転寮していた先輩は、ドン引きしながら俺たちを立たせてくれる。
「驚いた……本当に、あのミュールが、自分の意志で謝りにくるなんて……しかも、土下座って……あんた、アイズベルト家がそれで良いの……?」
「他に謝り方があるのか!?」
「どうかな……あったとしても、俺は、土下座を選ぶがな……?」
「なんで、土下座しながら格好つけてんの?」
かつて、黄の寮の窓から、家財道具をぽいぽーいっと、ミュールに放り捨てられた彼女は微笑む。
「呼び出された時は、三寮戦に向けた点数稼ぎかと思ったけど……目が、ね……ミュール、あんた、人を見下すのようやくやめたんだ」
「応ッ!!」
「ちょっと、偉そうなのは変わんないけど、まぁ、愛嬌みたいなもんか」
「な、なぁ、あのな! 投げちゃった家財道具、じ、自分で稼いで! ぜ、全部、弁償するから! だから、あの! ほんとうにごめんなさい!!」
謝罪への返答として、先輩は、下がったミュールの頭をぽんぽんと叩いた。
「最初から、そうしてれば良かったのよ。
ようやく、あんた、他人と同じ目線に立てたんだから……頑張りなさいよ」
ひらひらと、後ろ手を振りながら彼女は去っていき、ミュールはその背中をじっと見守る。
「アイツ……」
ぼそりと、ミュールはささやく。
「良いヤツだったんだな……寮から追い出してなかったら……友達になって……三寮戦で、一緒に戦えたのかな……」
俺は、なにも答えず、彼女の言葉を聞いた。
「お母様は、わたしと同格の相手なんて学園にいないから、友人も仲間も必要ないって言ってたけど……」
その独言は、宙空に散らばる。
「お母様は……間違えてたんだな……」
たったひとつの契機で、人間は変わり得る。
その契機は次々と連鎖して、ミュールの中で結びつき、彼女のものの見方が塗り替わっていった。
ミュールの言うように、ソフィアは間違えていた。
ソフィアは、あの脅しで、ミュールの心は折れると思っていたが……逆に、それは、過ちへの気付きとなり、確固たる心身を育て上げつつあった。
ようやく、今になって。
ソフィア・エッセ・アイズベルトは、母親としての務めを果たそうとしていた。
ミュールの謝罪行為は、黄の寮中に広まっていったが、それは三寮戦に向けてのパフォーマンスだと見做された。だからこそ、参加辞退率は改善へと向かわず、逆にマイナスへと向かって行った。
でも、それは、最初だけだった。
「参加辞退率が、回復しました!!」
寮長室に飛び込んできたリリィさんは、満面の笑みで叫んだ。
「どんどん、良くなっていて……視てください!! 50%まで戻ってます!! 謝罪を受けた人たちの中に『アレは、パフォーマンスじゃなかった』って、喧伝して下さっている方がいるみたいで……寮内に設置されている目安箱も!!」
リリィさんは、大量の投函物で溢れた目安箱をドサリと机に置いた。彼女の潤んだ瞳は、俺とミュールを見上げ、数え切れない用紙を差し出してくる。
「ミュールにです……ミュールに……は、はじめての、寮の改善要望が……さ、最近、寮内をよくうろついて、改善箇所を上げるようにしてたから……だ、だから……だから、認めてくれたんです……」
泣きながら、リリィさんは用紙を震わせる。
「この人たちは、あなたを寮長だって……認めてくれたのよ、ミュール……あなたを……アイズベルト家ではなく、あなたを……」
「…………」
恐らく。
生涯で初めて、ミュール・エッセ・アイズベルトとして認められた彼女は。
口元をわななかせながら、唇を噛み締め、顔を伏せる。
「こんなに……」
彼女は、ささやく。
「こんなに……簡単なことだったのか……こんなに……こんなに……」
「ココからだ」
嗚咽を上げるミュールの頭を叩きながら、俺は笑う。
「ココから、巻き返すぞ。寮長」
ミュールは、諦めなかった。
一度の成功体験は、二度、三度の自己肯定へと繋がり、次なる行動へと導かれていく。
寮内新聞での三寮戦の周知、三寮戦に向けての戦術会議の開催、寮内設備と施設の改善、毎日の声掛けと挨拶、寮内トラブルの仲裁、寮から学園への改善提案……鍛錬を続けながら、ミュールはそれらをこなし、俺はそのフォローに回り続けた。
いつの間にやら。
そこに『暇だから』と月檻が加わり、『主人がバカだから』とスノウが参加し、その規模感はどんどん増していき、噂が広がっていったのか、蒼の寮と朱の寮の寮生たちが覗きに来るくらいだった。
時は巡る。
いつの間にか、三寮戦の参加締め切り日がやって来て……各寮の『死神』の発表会見に向かうため、黄の寮の正装を着こなしたミュールは、タキシード姿の俺と一緒にリリィさんを見つめる。
「参加辞退率17%……」
部屋の隅で『暇だから』と言いながら、その報告を待っていたらしい月檻は、微笑みながら廊下へと出ていく。
顔を上げたリリィさんは、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「奇跡ですよ……ココまで、頑張ったなら、もう……」
「いや、リリィさん」
俺は、笑いながら、ネクタイを締める。
「ココからが本番ですよ。窮地からの逆転劇ってのが、一番、見栄えが良いんですから。
ねぇ、寮長?」
「応ッ!!」
「壁掛け時計に向かって返事するな……俺の顔面は、短針と長針で出来ていた……?」
ガチガチに緊張しているミュールは、手と足を同時に出すという漫画みたいなことをする始末だった。
外で待たせているリムジンに乗り込むまでの間に、廊下で寮生たちにからかわれ、彼女は顔を真っ赤にして怒る。
「寮長室のわたしのアイス、勝手に食べるなよ!! 食べたら、絶対に許さないからな!! 前に食べちゃったヤツ、未だに、わたしは許してないからな!!」
「怒るのそこかよ。
アイスくらい、別に良くない? 許してあげたら?(犯人の供述)」
リムジンの中のアイスボックスに、バニラアイスが用意されており、アイスひとつでミュールの緊張と表情筋がほぐれていく。
「ヒイロ、コレ、美味しいぞ! 食べたら?」
「……あぁ」
アイスカップを持つミュールの両手は、傷だらけになっていて。
俺は、その手から眼を逸らし、車窓から夜空を見上げる。
無慈悲な夜の女王は、裁定を下すかのように、煌々と俺とミュールを見下ろしている……誰も知らない未来を知っているかのように。
ミュール・エッセ・アイズベルトの運命が決まる時が、すぐそこにまで迫っていた。