偽拳
「ビルの前に、人間で練習しましょうか」
おおよその人間が、人生で一度も口にしないであろうセリフを吐いて、師匠は笑顔を浮かべた。
冷たいコンクリの上であぐらをかいた俺は、ニヤニヤとしながら、ミュールと師匠を見つめる。
「おいおい、師匠、大丈夫かよ。ブランクのあるミュールだとしても、急所に入れば、それなりに痛いと思うぜ?」
「別に、私は、痛くありませんよ」
「そりゃあ、ミュールを舐めす――」
「練習台は、ヒイロですから」
俺の顔から、すっと、笑みが消える。
「ヒイロ!!」
師匠は、ビシッと俺を指す。
「キミにきめた!!」
「決めるなぁ!! 勝手にぃ!! 決めるなぁ!! 俺の意思を介在せずにぃ!! サンドバッグにするなァ!! 人、ソレを、人権侵害と呼ぶ!!」
「弟子と師匠は、人権セット!! 弟子と弟子もセットメニュー!! 妹弟子の幸せは兄弟子の幸せ!! 人、ソレを、ハッピーセットと呼びます!!」
「カワイイ愛弟子のことを、サンドバッグと呼んでも良いんでしょうか!?」
「良ッ!!」
「おっしゃ、来いやァ!!」
覚悟を決めた俺は、腹筋に力を入れて構える。
やはり、三条燈色は生まれながらのサンドバッグ……言うなれば、サンドバッグのサラブレッド種……殴らにゃ損損、よよいのよい……ミュールの未来のためであれば、この肉体を捧げても何の問題もない。
「すみませんね、ヒイロ」
師匠は、苦笑する。
「私に打つよりも、ヒイロに打ったほうがわかりやすいんですよ。
なにせ、魔力線が……なにはともあれ、無極導引拳の華々しいデビューを飾ってみることにしましょうか」
「ひ、ヒイロ……」
もじもじとしながら、ミュールは、上目遣いで俺を窺う。
「あんまり、無理するな……たぶん、それなりに痛いぞ……拳を打ってみるくらいだったら人を相手にしなくても……」
「気にしなくて良いんですよ、そんなこと。
ウザさはあるけど、この女性は、必要のないことはしないから。紹介した責任もあるし、俺に出来ることならなんでもしますよ。
ほら、打ってきてください」
「う、うん……」
過去の勘を取り戻すかのように。
覚束ない動作で構えたミュールは、俺の鳩尾の上に縦拳を置く。
「……そこじゃない」
「え?」
ミュールの手を取った師匠は、その拳を俺の臍の下辺りに持ってくる。それから、ぐいぐいと、その小さな拳を俺の臍下に押し込み、覚え込ませるように何度か繰り返す。
「わかりますか?」
「な、なにが……?」
困惑するミュールの拳を開いて、パーの形にした師匠は、再度、俺の臍下にソレを持ってきてささやく。
「わかりますか?」
「…………」
不安そうに、ミュールは俺を見上げる。
安心させるために微笑みかけると、恥ずかしそうに目を逸らしたミュールは、師匠のことを見上げた。
「わ、わからない」
「…………」
押し黙った師匠は、数分間、考え込んでから。
「抱き合ってください」
「「は?」」
同時に声を発した俺たちの前で、真顔の師匠はささやく。
「ふたりで抱き合ってください」
俺とミュールは、目を合わせて……顔を真っ赤にしたミュールは、つま先立ちになり、俺に向かって両手を広げる。
「ん」
「いやいやいや、覚悟決まりすぎでしょ。この世界において、男と女が抱き合うのはタブー中のタブー。この場にいる全員が幸せになるには、師匠とミュールが抱き合って、壁になった俺がそれを眺めるという図式で――」
「んっ!!」
ちょこん、ちょこんと。
背伸びをしたりしなかったりを繰り返し、両手を広げたミュールは、俺にアピールしてくる。
師匠の様子を窺い、そこにオフザケの欠片もないことを確認した俺は、ため息を吐いてからミュールを抱き締めた。
小柄な彼女の身体は、すっぽりと俺の両腕に収まって。
柔らかな全身を通して、バカでかい心音が聞こえてくる。背伸びをしているのがつらそうだったので、位置を調整してから背中に手を回した。
「わかりますか?」
「わ、わからない……」
「なら、もっと強く」
俺の胸板に顔を押し付けたミュールは、ぎゅーっと力を籠めてくる。
目の下で映えている白金……同じような場面を、前にも目にしたことがあるような気がして……既視感に囚われる。
「ヒイロ」
ぼけーっとしていた俺は、声をかけられ我を取り戻す。
照れと怒りで顔を赤らめたミュールが、じーっと、非難の目をこちらに向けていた。
「お前、今、わたしじゃない誰かのことを考えてただろ……?」
「はい」
素直に答えると、ミュールは俺の脇腹を抓ってくる。
「お、お前、で、でりかしぃとか、そういうの! あるだろ! 本来なら、お前はわたしに触れることも出来ないんだからな!? わたしは、ミュール・エッセ・アイズベルトだぞ!? 黄の寮の寮長で!! あのアイズベルト家の末女で――」
「それは、ただの肩書きでしょ」
ミュールは、ゆっくりと目を見開く。
「生憎、くっついてくる値札やらブランドで人様を視る趣味はなくてね。
抱きしめれば、寮長だって、ただのカワイイ女の子でしょ」
「い、いや、お前……それは……だって……わたし……他になにもないし……」
「だから、俺は、常々、思うわけですよ。寮長とクリスの実姉妹百合も良いが、そういった関係性もなしに結ばれている信頼関係、つまり、寮長とリリィさんの義理姉妹的な百合も実に良いってね。
リリィさんが、寮長を抱き締める時、あなたの家名や肩書きを気にしたことがありますか? 俺としては、その深い愛情に、あなた自身で気づいて欲し――あの、聞いてます?」
ぶつぶつと、なにかささやいていたミュールは――バッと顔を上げて、師匠を見つめる。
「わかった……」
師匠は、口端を曲げる。
「良し」
「わかってくれましたか、そうなんですよ。良いですか、俺はね、肩書きに縛られている女の子が、自由に羽ばたく女の子を視て『うらやましい』と感じるその一瞬、その一瞬にこそ、魂が宿ると思ってます。寮長も、リリィさんと過ごしているうちに、彼女がどこまでも羽ばたける美しい白鳥だということに気づき、そんな感情が生まれるかもし――」
繋がる。
ミュールの手のひらと俺の臍下を流れる魔力が、構築された魔力線によって接続され、その内部で魔力が渦を巻いて――弾けた。
吹っ飛んで、転がった俺は床を転がる。
俺を吹き飛ばした張本人……ミュール・エッセ・アイズベルトは、呆然とした面持ちで、己の掌を見つめていた。
「で、出来た……」
師匠は満足そうに頷き、ミュールは、ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる。
「すごい! すごいすごいすごい!! 打てた打てた打てたっ!! こんな方法があったなんて!! できたできたできた!! すごいすごいすごいっ!!」
「やはり、女の子同士の繊細な感情表現というものが百合の醍醐味だと思うんですよ。日常生活のなんてことない幸福な場面、その細やかな感情の推移が生み出すストーリーテリング、俺はね、寮長、そういうものが、あなたとリリィさんにも備わっているような気がしてならないんですよ。別に百合を強制するつもりはありませんがね、もし、そういった感情が芽生えた時には直ぐに連絡して欲し――」
「ヒイロ、そろそろ帰ってきなさい」
仰向けの状態で腕を組み、天井と寮長に語りかけていた俺は、臍下を撫でながら師匠たちの元に向かう。
「で、どういうトリック?」
「視ての通り、種も仕掛けもありませんよ」
「すごいだろ、ヒイロ!? わたし、すごいだろ!? 褒めても良いぞ!! むしろ、褒めろ!! やはりなぁ!! わたしには、天性の才能というものが眠っていたんだなぁ!! わっはっは!! どうだ、ヒイロ!? わたしの才能に恐れ入ったかぁ!?」
ぐいぐいと、俺の手を引っ張って、自分の頭に載せてくるミュールを適当に撫でる。
「この天才様に、勝手に俺の魔力が使われたんだけど」
「無極導引拳」
満足そうに、師匠は頷く。
「この拳術のコンセプトは、たったのひとつ――『自分に魔力がないなら、他人の魔力を使えば良いじゃない』」
「おいおい、まさか」
俺は、囚獄疑心の際に、師匠とくっついて水鉄砲を連射していたミュールを思い出し……その可能性に冷や汗を流した。
「囚獄疑心の時の水鉄砲、ミュールの代わりに師匠が魔力を流してたんじゃなくて、師匠の魔力を借りたミュールが撃ってたのか?」
「さすが我が愛弟子、勘が良い。
でも、あの時は、私が手助けをしていましたから、彼女自身の力だけで成功させたのは今回が初めてですよ」
あの時点で、その可能性を見出し、試していたというのは……ただの好奇心かもしれないが、実行に移して成功にまで導いていたのは、信じ難い先見性と言わざるを得ないだろう。
師匠の実力に改めて驚きながら、俺はささやく。
「俺は、自分の意思で魔力線を構築しなかった。無断で魔力線を構成されて、ミュール側に魔力を盗まれたわけだけど……ミュールは、あの一瞬で、俺の体内から自分の体内にまで魔力線を引いたってこと?」
「よくもまぁ、あの一瞬で、そこまで正確に把握できる。ヒイロ、貴方の考察は的中していますよ。
無極導引拳は、相手の体内から自身の体内へと魔力線を構築し、相手の魔力を奪い取りながら打つ……魔力を伴った拳、所謂、魔拳と呼ばれるものです」
とつとつと、師匠は語る。
「魔法士の魔力線には癖がある。
太さ、幅、輪郭、強度、滑らかさ……それらは、通常、他者には理解出来ないものだ。真似ることは出来るものの、本質的にソレは異なっている。なぜなら、あまりにも自分のモノとは違うから。
だが――」
「ミュールは、生来の魔力不全で、魔力を流す魔力線を持たない……本質を持たないからこそ、規則を守らない魔力線を構築出来る?」
師匠の言葉を引き取ると、彼女は嬉しそうに笑いながら頷いた。
思考をまとめるために、俺は、ぶつぶつとささやく。
「ミュールは自分の魔力を持たないから、他者の魔力を大量に奪っても呪衝が起きない……本来、他者の魔力と自分の魔力を同期させるのには、長い時間をかけて慣らしを行わないといけないが……その時間すら必要ないのか……」
本質がないからこそ可能な方法……まさしく、それは、似非の魔法士に相応しい似法だった。
「言うなれば、ソレは偽線。
その気になれば、ミュールは、他者の魔力線を偽の魔力線とすり替え、魔法の発動すらも封じ込めることが出来るでしょうね」
偽の魔力線で、他者と繋がる行為……魔力の共有……その原理は、魔法士の言うところの同期と同じようなものだろうか。
「あっはっはっはっ!! わたし、最強じゃないか!! 最早、向かうところ敵なしだろ!!」
俺の腕を取って、じゃれついてくるミュールの目が『もっと褒めろ』と輝いていた。
無言で。
俺は、顎に手を当てて考え込む。
「でも、それは……キツイな……」
「え?」
不安そうに俺を見つめるミュールに、俺は満面の笑みを返した。
「仰られる通りで、寮長は最強でしょ!! 無敵無敵!! さすが、俺たちの大将だぜ!! ひゅー、かっけー!! 赤いのも青いのも、床をペロペロ舐めさせて、黄の寮専用の拭き雑巾にしてやりましょうぜ!! いぇーいっ!!」
「やっぱり、わたし、最強だった!!」
わーいわーいと、ミュールと手を取り合って喜んでいると師匠は微笑む。
「その調子で、このビル、倒しちゃってくださいね」
すっと、俺たちは、同時に真顔になる。
「「…………」」
俺とミュールは、顔を背けて、互いに互いを指差した。
「なんですか、その無言の訴えは。やめなさい。人差し指一本で、相手に責任を押し付けられると思ったら大間違いですよ」
仁王立ちした師匠は、両腕を組んで、俺とミュールに叫ぶ。
「私だったら、このビル、コンマ秒で倒せちゃいますけどねぇ!!(ドヤァ)」
「ヒイロ、この師、ウザいぞ」
「420年間、積み重ねてきたウザさですからね。熟成されたウザみを感じるでしょ」
俺は俺で師匠から『無極導引拳を基にした技術』を伝授され、柱に拳を打って半泣きになったミュールと並ぶ。
結局、この日、ビルどころか柱ひとつ倒れることはなく。
三寮戦を前にした黄の寮では、ひとつの騒ぎが巻き起こっていた。




