無形極
「では、移動しましょうか」
師匠は、そう言うなり「フォローミー!!」と叫びながら走り始める。
何時ものことなので、俺は、無言で付いていく。
「な、なんだ、走るのか? 移動するってどこへ?」
慣れていないミュールが、直ぐに走り出そうとしたので、回れ右した俺は彼女の身体を一通り伸ばしてやってから手招きする。
「お、おい、もういなくなったぞ? どうするんだ?」
手慣れたストレッチを一通りやったせいか、師匠の姿は消えており、ミュールはものの見事に狼狽える。
「…………」
「お、おい?」
俺は、走り出し、慌ててミュールは追いかけてくる。
これ見よがしに師匠が残していった痕跡を辿り、俺は、住宅街を駆け抜けていく。
人様の敷地内に侵入し、犬小屋を上って屋根へ。必死に付いてくるミュールは、ぜいぜい言いながら屋根によじ登る。
屋根から屋根に飛び移り、俺は、すいすいと師匠を追いかける。
「人の家の屋根をそんな風に跳んで良いのは、NINJAだけだぞ!?」
所謂、パルクール。
飛んでは着地して転がり、トントン拍子で高速移動を繰り返す。直線距離での追跡を諦めたミュールは、へろへろになりながら、下ったり上ったりを繰り返しながら俺を追いかけ続ける。
ミュールを待っている間、俺は、素振りを繰り返し。
ようやく、師匠が誘導してくれた目的地……薄暗い廃ビルに辿り着き、ミュールは、顔から床に滑り込んだ。
「し、しぬ……み、みず……みず……」
「ミュール、ほら、水だ」
俺は、ミュールにドクター○ッパーを飲ませ、勢いよく吹き出した彼女はゲホゲホ言いながら突っ伏す。
「殺す気か、お前はァ!! 人になんてもの飲ませる!? 喉に死が絡んだぞ!?」
「すげぇ……ドクター○ッパーって、人を殺せるんだ……」
とりあえず、修行中に飲めるのはドクター○ッパーだけだと嘘を言って、俺は、ミュールに中身をすべて飲ませる。
「では、本日の修行を始めますが」
「い、移動時間は、修行時間に含まれないのか……?」
絶望するミュールを余所目に、師匠は、開けたフロアの中心に立った。
コンクリートで出来た棺桶のような一室。
人の手が入っていないのか、窓ガラスを嵌めるために空けられた正方形の空間から、生い茂った樹木の葉が入り込んでいた。
薄暗闇を照らす日光は、不気味な魔手のように俺たちに迫り、その手が届かぬ闇に立つ師匠は何時になく恐ろしく視えた。
「ミュール、貴女、拳術の心得がありますね」
「え、そうなの?」
驚く俺の横で、ミュールは驚愕で口を開いていた。
「な、なぜわかった……?」
「足運びが独特ですからね。
中国拳法の歩法は特徴的だが、貴女のそれは、仙術(中華圏での魔法の呼び名のひとつ)と形意拳を基礎とした流派『無形極』の歩法のひとつ、浮歩と呼ばれるものだ。
動きの起こりが読みにくく、音と気配の遮断に重きを置き、一歩で距離を詰めるための歩法……大半の魔法士が不得意とする接近戦に持ち込むための対魔法士用の歩法の一……その使い手を私はひとりしか知りません」
師匠は、人差し指を伸ばして、暗がりの中でつぶやく。
「劉悠然」
「…………」
「なるほど、彼女の弟子ですか。道理で」
納得する師匠に、ミュールは苦笑を返した。
「弟子とは言っても、早々に見限られた不肖の身だ。わたしには、無形極は扱いきれなかった。
無形極は、内家拳に相当するが……実際のところ、アレは、外家拳の流れを掴んでいなければ使いこなせない」
俺は、手を挙げ、師匠は嬉しそうに「はい、ヒイロ!」と指してくる。
「師匠、外家拳と内家拳ってなーにー?」
「誤解を招きかねない言い方で、ド素人にも伝わるように簡単に言い表せば、剛を主とするのが外家拳、柔に重きを置くのが内家拳……正直、ここらへんの区分を明確にわけることは出来ませんし、どのように説明しても『それは違う』と言う人がいるのでこの程度の理解で構いません」
あ、深入りすると、クソめんどくさいヤツね……。
理解した俺は、イメージだけを掴んで頷きを返した。
「劉は、元・魔法士だ。
長きに渡って体内に蓄積され流れ続けていた膨大な量の魔力が、後天性の魔力不全で急に途絶えたことにより、ヤツは特異体質に目覚めた」
疑問気な俺の顔色に気づいたのか、ミュールは解説を続ける。
「筋、骨、皮、躯……そのすべてが常に魔力で補強され補正され補持されている……ヤツは、存在するだけで、鍛え抜かれた肉体と剛力の備えを要する外家拳の真髄に到達しているんだ。
その上で」
小さな彼女は、そっと、目を伏せる。
「ヤツの無形極は、打撃を加えた相手の魔力に外部の魔力を混ぜ込み、致命的な齟齬を生み出す。
人間が体内に備える魔力は、その人間特有の特異性を備えており、綿密に操作されている。そこに、大量の体外魔力を流し込まれると、人間の身体は外部から侵入してきた異なる魔力に過剰反応し強烈なショック症状が表れる。
所謂、呪衝だ」
「ヒーロくん、僕に感謝したまえ」
待ってましたと言わんばかりにアルスハリヤが出現し、恩着せがましくささやいてくる。
「現在、こうして、君が生きていられるのは僕のお陰だ。劉悠然の無形極に耐えられたのは、ひとえに、君の体内魔力たる僕が過剰反応を抑制してやったからだ。
本来であれば、二発目の時点で君はあの世行きだ」
いや、まともに二発喰らえばあの世行きって……殺人拳にも程があるだろ……。
本来であれば、あそこで死んでいたらしい俺は、自慢気なアルスハリヤを無視してミュールの声に集中する。
「無形極は、元・魔法士だった劉だからこそ会得出来た拳術だ。ヤツは、体外を流れる魔力の感覚を憶えていて、それを操作する術を身に着けており、どの急所を突けば体外から体内に魔力を流し込めるかも理解している。
先天性の魔力不全者たるわたしでは、身に着けようもない秘技だ」
設定資料集と開発者のSNSで得た情報通りのバケモノぶり……さすがは、最強候補の一角として名高い劉悠然……正面から魔法士として対峙すれば、まず、勝負にもならないだろう。
「なるほど、よく理解していますね。真面目に鍛錬に取り組んだ証だ」
褒められたミュールは、顔を赤くして「こ、これくらい当然だ、バカにするな」と偉そうに腕を組み……ふと、彼女の表情が陰る。
「そうは言っても、真面目に取り組んだ意味はなかったがな」
ゆっくりと、組んだ腕を解き、ミュールは自嘲気に笑む。
「わたしには、才能はなかった……結局、身に付いたのは不完全な浮歩くらいのもので……無形極の真髄どころか上辺にすら触れられなかった……結局、魔法に触れたことのないわたしに身に着けられる術なんてこの世には存在しない……」
「いや、ありますよ」
「…………は?」
師匠は愉しそうに笑いながら、俺とミュールをかわりばんこに見つめた。
「そうですね、無形極からの派生で『無極導引拳』とでも名付けましょうか……ふふ、面白くなってきましたね……新しい弟子を一から育てるのも楽しいですし、うちの愛弟子も泣き叫びながら喜んでくれるでしょうから……」
師匠の笑顔を視るだけで、残機が減りそう(素直な感想)。
逃走ルートを両眼で探し求めた俺は、転瞬しながら反復横跳びを繰り返す笑顔の師匠を視て諦める。
「では、とりあえず」
我が師は、ニコニコとしながら言った。
「ふたりには、素手でこの廃ビルを解体してもらいます」
「「…………」」
俺とミュールは、顔を見合わせ――
「「キャンセ――」」
「誓約書」
絶望した俺たちは、泣きながら、師匠に追い立てられていった。