赤色の醜酒
「ほんと、綺麗な顔して」
ソフィアは、綺麗な微笑を浮かべる。
「ムカつく」
俺は、微笑みを返す。
「三条燈色、ねぇ……アイズベルト家の邸宅に生きた男が入ったのは、たぶん史上初でしょうけれど、まぁ、死体で帰ったのはそれなりにいたかもだし。
あー、後ろの子、もう出てきて良いわよ」
くいくいと、ソフィアは指を動かし、月檻はソファーの裏側から出てくる。
俺の左隣に座った月檻は、それとなく、ガーターベルトに差した短剣型の魔導触媒器の位置を確認する。
「劉」
机の上に両足を放り出したソフィアは、従者に持って来させたワイングラスを片手にささやく。
「あんたが、感情的になるなんて久しぶりじゃない。
そんなに、あの子のことを言われたのが頭にきたの?」
「…………」
「まぁ、どうでも良いわ。
劉」
ソフィアは、俺を指す。
「半殺し」
劉悠然は動いて――
「シリア・エッセ・アイズベルト」
俺の言葉を聞いた瞬間、拳が止まり、ソフィアは瞠目した。
鼻先。
そこに触れた黒い手袋の感触を感じながら、俺は、深く腰掛けたまま笑う。
「まぁ、待てよ。俺は手足を折られてから、お喋りするのは苦手でね。せっかく、オシャレして来たんだ、この綺麗な服を血反吐で汚したくない。
おやおや」
俺は、空のティーカップを裏返し、ソフィアの足先に置く。
「アイズベルト家では、客のカップは空のままにしておくのか?」
ソフィアは、ティーカップを蹴飛ばし、壁に当たったソレは砕け散る。
脚を上げたまま、彼女は微笑む。
「あんた、最初から、露呈すること前提でこの家に入ったわね」
「当たり前だろ。
三条家の次期後継者を名乗り、女装した挙げ句、クリスの婚約者として紹介されたのにバレずに済みましたなんてミラクルあるかよ。
あんたを引っ張りだすためだけに、ココまで大袈裟にやってやったんだよ。すべて、計算尽くだ」
「その男とは思えないくらいに似合ってる女装も?」
「…………」
泣きそうになった俺の背中を、月檻は優しく撫でてくれる。
「最初は、適当に劉に相手をさせて帰らせようと思ったけど……で、どの伝手で、シリアの情報を入手したの?」
「通りすがりの神様に教えてもらったんだよ」
原作ゲーム知識とは言えるわけもなく、俺は誤魔化す。
じっと。
直立する劉悠然は、俺のことを見つめていた。
「ふぅん、で、用件はぁ?」
前髪を指に巻きつけて、くるくると回しているソフィアは、ソファーに身を預けている。彼女が入ってきた時から、一言も発さなくなったクリスは無言を守り、母親の反応を窺っていた。
「ミュールから手を引いて欲しい」
「ハッ」
鼻で笑って、ソフィアは、空になったグラスを壁に叩きつける。破砕音に怯えた従者が、身を縮こまらせて、ワインの入った新しいグラスを持ってくる。
気にした風もなく、彼女は、3杯目のワイングラスを受け取った。
「あんた、何様よ、このクソガキ。この家に男を立ち入らせてやったってだけでも、譲歩の塊だって言うのに……欲張って大きなつづらを選び続けたら、魑魅魍魎が出てくるだけじゃ済まないわよ」
「もう、魑魅魍魎の類なら眼の前に出てきただろ」
火花。
衝撃がきたと思ったら、視界がブレていて、かなり加減したであろう劉の拳でふらついた俺は笑ったまま鼻血を拭う。
「歓迎、どうも」
「憎たらしいガキ……男ってだけでも怖気が走るのに……あんた、誰の前にいるかわかってんでしょうねぇ……?」
「酔っ払ったおばさん」
俺の額にワイングラスがぶつかって、割れ落ち、真っ赤な液体が頭から垂れ落ちる。
殺気。
目を見開いた月檻は、短剣を引き抜――その手を押さえつけ、俺は、濡れた前髪の隙間からソフィアを見つめる。
「…………」
感情的になったわけでもなく、冷静にこちらを観察していたソフィアは、足先をぷらぷらと揺らした。
「調査機関の情報も、たまには当たるわね……三条燈色、あんた、男にしておくのがもったいないわ。
で、ミュールから手を引けって?」
ソフィアは人差し指を動かし、慌てて、従者は新しいワイングラスを差し出す。
「あんた、人様の家のことに口出しするつもり?」
「生憎、行儀がなってなくてね」
「出来損ないよ、あの子は」
1971年 ドメーヌ・ド・ロマネ・コンティ……数百万は下らないであろうヴィンテージワインをごくごくと飲み干しながら、彼女は、つまらなそうにささやく。
「せっかく、良い種をもらって作ってやったのに……期待はずれも良いとこだわ……生まれつきの魔力不全って……あのクソディーラー、幾らかけたと思って……はー……最悪、冴えてきた……」
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜ、ソフィアは、酩酊の気配がない端正な顔立ちを見せつける。
「で、あんた、ミュールのなに? あの出来損ないに惚れてんの?」
「友達だよ」
大きな声で。
ソフィアは、笑い、涙さえ滲ませる。
その拍子に、机上のヴィンテージワインが倒れて、貴重な中身はとくとくと零れ落ちていった。
「あっはっはっはっ!! こ、コイツ、バカだわ!! あははははは!! と、友達って!! あんた、そのどうでも良い関係性のために、これから死ぬかもしれないってのに!! あははははは!! ば、バカだわ、コイツ!!」
倒れたワイン瓶を従者のひとりが直そうとして――ソフィアに顔を蹴られ、彼女は、その場に蹲る。
「誰が立て直せって言った、このグズ。
コイツ、今日でクビね。劉、顔、一発」
劉悠然は、音もなく動き、腰で溜めた拳を打ち――パァン――乾いた音と共に、間に入った俺は、それを右手で受け止める。
「なぁ」
俺は、笑って、ソフィアを見つめる。
「お前、誰に女の子の顔を蹴っても良いって習った? あ? テメェ、その薄汚い胃袋に収めるクソアルコールのために、この綺麗な顔に傷つけた代償は払えんだろうなぁ?」
手加減。
いや、手加減どころではない……ほぼ、力を入れていない見かけ騙しの拳を放った劉は、わざと間を作って、俺が間に割り込める時間を稼いだ。
俺の知っている通りの劉悠然は、沈黙を保ったまま、俺の手の中に収める拳を静止させている。
「ひ、ヒイロ……」
顔を真っ青にしたクリスが立ち上がる。
「や、やめろ、ヒイロ……お母様に逆らうな……」
「クリスぅ」
びくりと、クリスは母親の言葉に反応する。
「あんた、その汚い男に惚れてるんじゃないでしょうねぇ? 母親に嘘を吐いた挙げ句、男をアイズベルト家に招き入れて……覚悟、出来てんの?」
「か、彼は」
大量の汗をかいたクリスは、真っ青な顔でささやく。
「彼は……か、関係ありません……い、一方的に私が懸想していて……きょ、今日のことも私が勝手に――」
引き金。
思い切り、机を真上に蹴飛ばした俺は、一流の従者のように椅子を持ってきた月檻に従ってソコに腰を下ろし――至近距離から、ソフィアを見つめる。
「悪いなぁ、お前の大事な娘、もう俺の言うことしか聞かねぇよ」
俺は、笑う。
「どこまで、俺を調べてるか知らないが、スコアの割には俺に扱えるモノはそれなりにあってね……クリス・エッセ・アイズベルトに脅しをかけるのは簡単だったよ。
少し調べれば、俺とクリスが殺し合った件も詳細が出てくる筈だ」
「…………」
「出来損ないのミュール・エッセ・アイズベルトは、あんたにとって無用の長物なんだろ……だったら、俺にくれよ……あんたの笑う友達関係ってのも、孤独な女に粉をかけるのには大事になってくるテクニックなんだぜ……?」
「くっくっくっ」
ソフィアは、笑い、床に落ちたワイン瓶を手に取る。その中身を自ずから注ぎ、彼女は笑った。
「悪者気取るにしては、目が輝きすぎてるわねクソガキ。あんた、ヒーロー気取りで、うちの娘たちを救うつもり?」
「さぁね、どうかな、おばさん」
「ミュール、あんたにくれてやっても良いわよ」
彼女は、ワインを飲みながらささやく。
「もう、あんなの要らないし……邪魔だから、そろそろ、処分しよっかなって……丁度、劉がそのタイミングで帰ってきたら、任せようと思ってたとこだし……良いわよ、男にくれてやるのも面白いわ」
楽しそうに、ソフィアは、手を打ち鳴らす。
「好きに使えば? アレでも女だし、娯楽程度には使えるんじゃないの?
あんたが、あの出来損ないで遊び終わった後に、劉を差し向けるのも面白くって良い感じじゃない」
それで話はついたと言わんばかりに、ソフィアは立ち上がる。
「劉、コイツ、半殺しにしてそこらに捨てといて。ムカつくから。
でも、殺すのは後でね」
そう言って、彼女は立ち去ろうとし――
「怖いのか」
ぴたりと、足を止めた。
「怖いのか、ミュールと向き合うのが」
ゆっくりと。
ソフィアは、俺の方を振り向いた。
「…………は?」
「怖いんだろ、あの子が……恐怖感に苛まれて我慢出来なくなったから、黄の寮に閉じ込めておいたあの子をどうにかしようとした……自分の娘と向き合うのはそんなにも怖いのか……?」
「劉、コイツ、黙らせろ」
劉の拳が、俺の鳩尾に入る。続け様に鼻梁を打たれ、血を吹き散らしながら俺はよろける。
間に入ろうとした月檻を制止し、俺は、ソフィアに笑いかける。
「誰かに期待して裏切られるのはそんなに怖いか」
「劉」
劉悠然の拳が、俺の額で弾けて、鋭利な刃物で切られたかのようにそこから血が溢れ出す。
赤く染まっていく髪には、目をくれず、俺はささやき続ける。
「あの子は、似非なんかじゃない」
拳で打たれながら、よろけながら、ふらつきながら。
俺は、ソフィアに言葉を向ける。
「本物だ」
戸惑うかのように。
威力も速度も弱まった劉の拳が、俺の眉間に叩き込まれ――その拳を透かすように、俺は、ソフィアを睨みつける。
「あの子は、本物のミュール・エッセ・アイズベルトだ……お前が、そうあれと押し付けたまがい物じゃない……母親の癖に、そんなこともわからねぇなら……!」
その拳を退けて。
俺は、ソフィアの胸ぐらを掴み上げて叫ぶ。
「俺が教えてやるッ!! だから!! 見に来いッ!!」
ソフィアの顔が歪み、俺は、彼女に感情を叩きつける。
「三寮戦で!! あの子の寮が!! 黄の寮が勝つッ!! あの子は、似非じゃない!! ミュール・エッセ・アイズベルトだ!! そのことを!! あの子自身の力で!!」
ただ、俺は、叫ぶ。
「テメェにわからせてやるよッ!! わかったら!! 黙って見に来い、ソフィア・エッセ・アイズベルトッ!!」
「……劉」
凄まじい勢いで吹き飛ばされ、ソファーごと壁に叩きつけられて、月檻とクリスに庇われた俺は震えながら立ち上がる。
こちらに背を向けたソフィアは、よれた胸元を直して。
「……ゴミが」
アイズベルト家らしい捨て台詞を残して退出し、取り残された俺たちの前で、劉は手袋を伸ばしながらささやく。
「クリス様」
彼女は、つぶやく。
「少し」
彼女の両眼が、音もなく、俺を捉える。
「彼と話をさせてもらってもよろしいでしょうか?」
俺を見つめたクリスに、頷きを返し――
「でも、その前に、手当してから着替えても良い?」
月檻に支えられた俺は、真っ赤に染まったワンピースの裾を広げた。