狐虎の化かし合い
なぜ、劉悠然が……?
思わず、クリスを視ると、彼女はゆっくりと首を振った。
クリスにとっても、予想外の事態――一度、劉と顔を合わせている俺は、冷や汗をかきながら微笑む。
「…………」
生気のない眼が、俺を見つめていた。
否、見つめているというよりは、ただぼんやりと俯瞰している。
圧倒的な高みから――劉悠然は、じっくりと、俺のことを観察していた。
「……その御方がクリス様の婚約者ですか」
「話を進める前に説明しろ」
足を組んだクリスは、威圧的に劉を睨みつける。
「お母様はどうした。一介の従者であるお前如きが、この私とその婚約者の前で、頭も垂れずに同じ目の高さで喋っているのは何故だ。その歳で、未だに行儀も身につかんか、この痴れ者が」
「…………」
「答えろッ!! 誰の前にいると思っている!?」
劉悠然の圧に呑まれていた俺の横で、クリスは敢えて、居丈高に激昂した。
さすがは、クリス・エッセ・アイズベルトだ。
この状況下で、一瞬で切り替えて、相手の非礼を詰る側に回った。飽くまでも、劉はアイズベルト家の従者、クリスの反応はもっともなことで劉としては反論に回りにくい。
味方になると頼もしいな……高位の魔法士だけあって、修羅場もお手の物か。
クリスの迫力は凄まじいもので、同席していたアイズベルト家の従者は震えていたが、劉は瞬きひとつせずにささやいた。
「……失礼しました。
奥様は、少々、遅れておりますので、私の方でお相手をと」
「ハッ、死んだと聞かされていた虎が、散々、荒らし回った棲家に戻ってきて『お相手を』とは……舞踏にでも誘っているつもりか?
出ていけ。私の婚約者が怯えている」
「…………」
無言で、劉悠然は立ち上がり――
「いえ」
俺は、クリスの腕にそっと触れた。
「同席頂いて結構です。構いません、怯えていませんよ。
クリス、そんなに怒らないで」
クリスに柔らかく微笑み、俺は、彼女の腕をそっと撫でる。
「わたし、話してみたいです。
ね、クリス、良いでしょ?」
カーッと、真っ赤になったクリスは、もごもごと口を動かす。
「お、おおおおおお前が、そ、そう言うなら、べ、べべべつにか、かまわないが?」
……クリス、それ、演技だよな?
じっと俺を見つめたまま、起立していた劉は、ゆっくりと着席する。
膝の上に肘を置いて、だらんと上半身を下ろした彼女は、絡み合った前髪の隙間から淀んだ瞳を俺に向けた。
「感謝します、ご令嬢」
「いいえ、お気になさらないで。
ね、クリスも、もう怒ってませんよね?」
「も、もちっ! もち、もちろんだがっ!?」
演技だとしてもやり過ぎなクリスは、俺が腕から手を離した途端、ホッと安堵の息を吐いていた。
微笑んだまま、俺は、真正面から劉の視線を受け止める。
「お名前は? なんと仰るのですか?」
「劉悠然、と」
「では、劉さん、とお呼びしますね。
よろしくお願いしますね、劉さん。三条黎と申します」
「……驚きましたね」
劉は、淡々とつぶやく。
「聞きしに勝る美しさ。まさに傾国の美女、蠱惑の権化、九尾の狐が化けていると聞かされても信じてしまうくらいだ」
「どういう意味だ、劉……?」
本気で怒っているようにしか視えないクリスが、立ち上がろうとして、俺はその腕を引いて座らせる。
「こら、クリス」
俺は、頬を膨らませて、彼女の額にデコピンする。
「めっ!」
打たれた額を両手で押さえつけたクリスは、頬を染めたまま「……ご、ごめんなさい」と小さな声でささやく。
婚約したばかりのラブラブカップルなんて、どんな感じかよくわからない俺は、少々、露骨すぎたかと反省しながらも劉の反応を窺う。
「…………」
無言の劉は、正面に置かれた紅茶には手を出そうとしないまま、こちらの一挙一投足を見守っていた。
「しかし」
感情の宿っていない声音で、劉はささやく。
「三条黎様は……射干玉のように、黒い髪を持っていると聞き及びましたが」
彼女は、俺を見つめる。
「その金の御髪は?」
「あぁ、コレですか」
俺は、笑ったまま、髪を掴んで顔の横に広げる。
「染めました。こちらの方が、クリスが好きだと言うから。
ね、クリス?」
「……あ、あぁ」
笑いながら、俺はクリスの手に自分の手を絡めて――目を細める。
コイツ、疑ってるな……まぁ、無理もない。急にクリスに婚約者を紹介したいと言われ、今日の今日で挨拶しに来るんだから。
「……っ……ぅ……っぅ……!!」
なぜか、もがき苦しんでいるクリスの横で、俺は彼女の指をなぞりながら劉に微笑みかける。
「本日は、アイズベルト家のご当主様に挨拶に来ました。突然のお話で申し訳ないとは思うのですが、視ての通り、わたしとクリスは心から愛し合っています。正式に婚約関係を認めてもらおうと直談判に来たんです」
俺は、クリスの腕を抱き込み、両手で彼女の右手を包み込む。ぽっと、頬を染めてから、甘えるようにクリスの肩に額を押し付ける。
「ほら、クリスって、素晴らしい女性だから……早く婚約関係を進めないと、盗られてしまうんじゃないかって気が気じゃなくて……無礼は承知で足を運ばせて頂きました……」
俺は、クリスに身体を預けたまま、劉に流し目を送る。
「お力添え頂きませんか、劉さん……わたしとクリスのために……」
「…………」
「なーんて」
俺は、クリスからパッと手を離し、満面の笑みを浮かべた。
「冗談です。そんなことを言われても困ってしまいますよね、ふふ。
忘れてください。ただの余興ですから」
首筋まで赤くしたクリスは、ぜーぜーと息を吐き、震える自分の右手を凝視する。
本当に演技なのか、疑わしくなってきたが……少なくとも、このクリスの反応を視て、俺が男であるとは思いもしない筈だ。
「ねぇ、劉さん」
足を組み、ティーカップを口に運んで、俺は劉に目元で笑いかける。
「わたし、劉さんのこと、クリスからはなにも聞いていなかったから……もっと、貴女のことが知りたいです。
教えてくれませんか?」
「…………」
「ダメですか?
それとも――」
俺は、笑う。
「クリスの婚約者たるわたしには答えられない?」
「……面白い話ではありません」
「それを決めるのは、拝聴するわたしではありませんか? でしょう?」
「…………」
「紅茶」
笑ったまま、俺は、目で劉の前のティーカップを指す。
「冷めちゃいますよ?」
無言で。
劉は、ティーカップを手にとって――ぶるぶると震える手で、ソレを机に置き、茶色の水面を見つめたまま俯く。
「ふふ、ひとつ、劉さんのことを知れました」
俺は、ニコニコとしながらささやく。
「紅茶が苦手なんですね」
「……いえ」
「なら、どうして、飲めないんですか? 不思議ですね」
「…………」
劉は立ち上がろうとして、俺は足で机を蹴飛ばした。
彼女の脛に机の端がぶつかって、ソファーと机に挟まれた彼女は動けなくなり、俯いたまま身じろぎを止める。
「座ってください。
まだ、ご歓談の途中でしょう? それとも、主の命に背いて、わたしの気分を害したまま退席なさるのですか?」
「…………」
「座りなさい、劉悠然。
都市に棲み着いた虎が、今更、下野して畜生に成り下がるつもりですか」
静かに。
劉は腰を下ろし、なにかを確信したかのように俺を見つめた。
「……ひとつ言っておきたいのですが」
「はい」
怖気すら覚える眼光で、劉は俺を睨みつける。
「私の拳はそこに届く」
「ふふ、なら、握手が出来ますね」
「……お前はなんだ? アイズベルト家のなにを探るつもりだ?」
「えぇ? どこをどう拡大解釈してしまったのでしょうか? わたしは、ただ、クリスと愛し合っているという事実を伝えに来ただけですよ。
劉さん、わたしは、貴女と仲良くしたいだけです」
彼女の拳の範囲内、その中の中にまで踏み込み、笑顔を突き出した俺は劉にささやく。
「ねぇ、劉さん、貴女はこの家で家庭教師をしていたらしいですね」
ゆっくりと、劉は両眼を見開く。
「誰の、家庭教師をしていたんですか……ミュールさんだけじゃないでしょう……?」
「…………」
「クリスには、姉がいたらし――」
ぶわっと。
俺の前髪が広がって、鼻の頂点に掠めた劉の拳、殺意に象られた彼女の両眼が俺を射抜く。
「……死にたいか、女狐」
「おやめなさいな、劉。
ちゃあんと、その子の尾の数を数えなさい。九本もあるんだから、オマエじゃ相手になるわけもないでしょ」
声。
いつの間に入ってきたのか、扉の前に立つ女性は、三児の母とは思えないくらいの美しさを持っており……だが、それは、周囲の生気を奪い取った美貌であるかのように、従者の顔には疲労と恐れが浮かんでいた。
怪しく光る、蒼色のパーティードレス。
薄く、白いストールを肩にかけて、胸の前に回しており、真っ赤なワインが注がれたグラスを回転させている。
「面白いじゃないの、狐狸の類と化かし合いなんて」
一気に赤色の液体を飲み干し、退いた劉の代わりに座った女性は、ワイングラスを机に叩きつけた。
粉々に砕け散った透明。
光を受けた破片の輝き、つまらなそうに彼女は顔をしかめる。
「で、我が家になんの御用かしら、三条燈色くん?」
クリスは息を呑み、俺は薄く笑った。
ミュールとクリスの母、アイズベルト家の当主、ソフィア・エッセ・アイズベルトは、ガラス片を指でくるくると回して遊んでいた。