第1話 BWV599
見渡す限り草原が広がっている。
左手に目を凝らすと森であろうか、草原より濃い色の緑が遠く広がっている
そこに草原に一人たたずむものがいる。
「…………」
逡巡ののち、目線を左右に揺らし、また左右に揺らす。
ハンドポケットをやめたかと思うと周りをすばやく確認し、眉を顰める。
十秒ほど周りを見渡しながら、ポケットの中のものを確認しているのであろうか。
片手には見つけた財布を持ち、焦ったように体のいたるところをまさぐっている。
ポケットの確認を終え、財布だけをポケットに突っ込み顔をゆがめながら真っ赤な色合いのジャケットを脱ぎ、黒色の裏地にひっくり返し腰に巻く。
再び草原を見渡し、空を見上げる。雲一つない晴天であったが、対照的に顔は苦い。
目線を草原へ戻し、足元へと視線を下げる。
周り一帯の足元の草を手で触りながら確認するも、怪訝な顔は深まっていく。数mほど確認したのちあきらめたように立ち上がる。
目を凝らして森を見据えた後、反対側へと最初の一歩を進めた。
数分ほど歩みを進め、後ろを振り返る。
まだ森は見えている。すぐに体の向きを戻し、足を進めていく。
そのまま30分ほど早歩きをしていると、小川が見えた。歩みを早めて近づく。川の縁に手を突き、水底を見つめる。色やにおいを観察するも、特に違和感はなかった。数分見ているが、特に生物は見当たらない。
自分が最初にいた地点を忘れないように数か所近くの草をむしり取り、穴を掘って目印とした。腕まくりをして汚れた手を慎重に水につけ、異常がないことを確認したのち手を洗った。小川を後にする。
川に沿って歩いていく。何かしらのランドマークを見つけることができるからであろう。
もう20分ほど歩いていくとようやく人の手が入っていると判断できる痕跡を見つけた。
石造りの小橋である。
人がいる。小橋を調べているとわかった。軽乗用車も通れないようなひどくちゃちなつくりではあったが、年期は新しそうだ。最近人が通行している証拠である。
現在どういう状況にあるのかは不明だが、家に帰る目途がつきそうなことは安心を与える。そして衝撃的なことで浮足立っていた心は、現実感を取り戻したことによって冷静になり、警戒心を再び取り戻させた。
できるだけ早く帰途に就くために探索を再開する。川をどんどん下って、何とか今日中には帰宅したい。焦燥感がよみがえり、早歩きする。
歩きながら他にすることもないので歩いていた旅路を思い出しながら、するべきことを考える。まず何よりも安全を確保してからあらゆる行動が始まる。人里を見つけることが先決である。
だんだん川幅も広くなり、ようやく大きな街が見えた。近くに行くにつれてその広大な全容が把握できた。都市計画をかけらも考えていない雑然とした街並みだった。石造りの建物が中央部に見え、そこから現在手間にあるのは粗末な小屋ばかりだ。
西洋風の建物に近い建築様式に見えた。ガラス窓はなく、すべて木窓であった。所狭しとそんな殺風景なものばかり並んでおり、住居性を確保できているのか疑問である。
守衛などもいない、城壁すらない。町のかなり内側に崩れかけた壁のようなものがぽつりぽつりと間隔を開けて存在するが何の意味もなしていない。まさに荒廃したスラムといった様相である。
そこかしこに吐瀉物やごみが散乱し、羽虫がたかっている。生きているのか死んでいるのかわからないもはや衣服とさえよべないような襤褸を纏った男が壁にもたれかかって微動だにしない。ぼさぼさの髪で顔が判別できない男が奇声を上げて走り回っている。
そんな風景をないものであるかのように、局部すら隠しきれていない煽情的な格好をした女が様々な男に胸元を見せつけて猫なで声で語りかけている。
現代でこれらすべてが当てはまる光景があるだろうか訝しむも、より気になることがある。もしかしなくてもいきなり見知らぬ土地に現れた、あるいは誘拐されたと思うのは自然であった。
周りにいる者たちが知らない言語を話していたからではない。話していた人間そのものが異質だった。彼らの肌はみな、灰がかかったような白だった。死人のような色合いに思えるが、元気に怒鳴りあっているものも少なくなかった。健康を害しているようには見えなかった。
理解を絶する光景に行動を起こせずにいたが、ある変化によって無理やり現実へ引き戻される。視線を感じる。茣蓙を敷いて路上完売をしている男がこちらをじっと見つめている。見回すとちらほらと露骨に目線を向けているものがいる。
何もしないまま突っ立っていたことが不審に思われたか、身なりが住人たちとずれていたのか。原因はわからないが立ち去った方がよさそうだ。
よそ者に冷たいのは当然であるが見るからに人種が違う自分は彼らからして異様なのだろう。彼らの多くは灰色や赤の髪を持ち、灰がかかった白い肌をしていた。自分の薄い茶色の髪はかなり目立つことだろう。
こんな荒廃した街でも木を隠すなら森の中である。自分が知っている人物だけで完結する村社会よりも、知らない人物ばかりで生活が成り立つ都市部でその場しのぎで生活しながら言語を覚えて、安定した収入を得るしかないだろうなと漠然と考えていた。どのみち方法はほかになかった。
髪をまとめて腰に巻いていたジャケットを目元だけ出して頭に巻く。明らかに不審であるが自分のようなものが差別対象になっているのだとすれば、背に腹は代えられず、やむを得ない処置であった。それでもこの息苦しさには辟易としてしまう。
人目のつかない裏路地を進み、一息つける場所を探す。そこら中にコップや粉薬のようなものが散乱している。赤茶色の肌をした瘦せっぽちの子どもが走りながら横を通り過ぎて行った。様々な人種がいるということは自分の入り込む隙間もあるかもしれない。
これからも状況は自分にとって厳しいものとなるだろうという予感があった。土地勘がない状況で言語がわからないだけでもつらいのに、身の安全に注意しながら生活の糧を得る。
先が思いやられる自分の境遇に目を細め、悲嘆する。こんな環境である程度の生活のめどを立てなければならないのが辛いところだ。
そんなものを観察しているうちに、突然小男が目の前に躍り出てきた。ニタニタと笑い、こちらを値踏みするように見ている。背中に手をやり、小刀を持ち上段に構え、何事かを話す。
「おge§aiΞg!」
「なんだてめーは」
こちらも不敵に笑い返すと同時に思い出す。言葉が通じるはずもなかった。しかし言いたいことは大体わかる。大方自分の持ち物をよこせとこの小男は言いたいのであろう。
小男が焦れて小刀を振りかぶり、こちらに向かってきた瞬間、横にあった木箱を思い切り小男めがけて蹴り上げる。小男はもんどりうって倒れかける。そのすきを逃さず脳天めがけて上段回し蹴りを叩き込む。小男は吹き飛び、頭から壁にぶつかり、白目を向いて倒れこむ。
すかさず持っていた袋を思い切りぶつけるも反応しない。すでに気絶しているようだ小男が落とした小刀を奪い、身ぐるみをはぐ。下着以外を回収するとすぐにその場を立ち去る。ポケットの中をまさぐると見たこともない硬貨が数枚入っている。
「シケてやがる」
硬貨をいじりながら進んでいく。ふと回収した衣類に気をやると、何とも言えない悪臭がした。場合によっては着る必要があることを考えると憂鬱になる。裏路地を抜けると大通りに出た。市場のようだ。
様々な店があり、雑踏に足を踏み入れると立ち止まることはできないくらい多くの人々がいる。品物や繁盛している店、人間の身なりや言葉など確認するべきことはいくつもあった。
手近な建物をよじ登り、高いところから観察をする。目まぐるしく目線が動き、あらゆる情報を得る。硬貨は大小、金銀いろいろなものを使っているようだ。見たところ10種類以上はある。この世界でも金銀が貨幣として使われているようだ。見たところ紙幣を使っている様子や物々交換をしている様子も見えない。
町逝く人々に目をやると、大きく分けて3種類の人種がいた。
まず一つ目は赤や橙色、灰色の髪を持ち、黄色や赤色、紫色の瞳を持った人種。うすい灰色にも見える白い肌をしており、顔立ちはヨーロッパ系に近いだろうか。一番この辺りでは人数が多く半数以上を占めている。商売をしているものがほぼこの人種と言っていい。
2つ目は黒紫や暗い赤茶色の髪を持ち、黄色や褐色の瞳を持つ人種。褐色肌の人種である。堀の浅い顔立ちで体つきはよいものが多い。かなりメリハリのきいた体格の良いものたちばかりだ。
2番目に多く見る人種である。商売をしているものはほとんどいない。多くが購入者側であり、あまり金銭的余裕がある風体には見られないものがほとんどだ。微妙に差別をされている節がある。
3つ目は青がかかった灰色の髪を持ち、同じような色をした瞳を持つ人種だ。色の濃淡が最もバリエーションがある。顔立ちはシャープな顔立ちで童顔である物が多く、体格も細いものが多い。ちらほらとしか見かけず、いても最低で数人で固まっている。
ほかにも金髪や黒髪などカラフルな髪をしたものが多い。蛍光色で七色の髪を持つ奇抜な髪形のものまでいるし、体中ピアスをしていたり、タトゥーを顔にまで入れたり、体中つぎはぎだらけで人間とは思えないような姿のものもいた。
何より、3mもあるような大女。毛むくじゃらでアザラシのような頭をして、水かきのような手をした種族までいた。
店を見ていると大体が商品を売買しており、残りはすべて生活雑貨のようなものだ。ほとんどが屋台や茣蓙を敷いて売っている。食べ物は食材を売ることはもちろん、調理して売っているものもいる。
チャパティのような生地に肉などを挟めて焼いている。手づかみで食べ、くちに物を入れながら粗野に笑うものが現代感覚から見ると圧倒的に多い。
あまり見たくないので目をそらすと、白い粉など怪しげな薬を売るところがちらほらと見える。人種や貴賤を問わず多くの人間がだれの目をはばかることなく、食べ物を買うように買っている。
まだ少年にしか見えないものまで銀貨を握りしめて買っている。自分で使うのだろうか。目で追ってみると路地裏に消えていく。路地裏を見ていると恍惚とした顔や見るからにトリップして異常行動をしているものたちが多くいる。
酒は売買されてはいないのだろうか。何か飲んでいるものたちはみな角ばったひょうたんのようなものを水筒として使っているようだ。口をすぼめて吸い上げ、最後はくしゃりと握りつぶして飲み切っている。
もちろん革袋のようなものも使っているようだが、屋台で売りに出されているのはひょうたんのような水筒が大半を占める。
屋台の近くの建物まで行ってみると、アルコール特有のつんとした匂いがかすかにする。よく嗅がないとわからないのであまり度数は高くないようだ。いろいろな店を回ってみるも、度数の強いものは売買されている様子はない。
そして何よりも観察すべきは言語である。店で使われているような基本的なフレーズは頭に叩き込んで、生活するのに最低限度は分析しなければならない。筆記用具がないことは非常に残念だが、やるしかない。
1週間かけて市場を観察していると基本的な単語は覚えることができ、片言ながら話せるようになった。もちろん会話などは不可能ではあるが、言葉が通じなくて買い物ができず食いっぱぐれるということはないだろう。
ある程度の単語を扱えるようにはなったので買い物を試してみた。買い物を終えることはできたが、言葉が不自由なことに足元を見て釣銭をごまかされそうになった。思わず罵声を浴びせて迷惑料としてもう数個ひょうたんのような水筒を分捕ってきた。
荒事と差別表現に慣れたのはこの町のおかげだ。この一週間で両手で数えきれないほどの襲撃を受けた。この町の流儀だけでなく、言葉まで教えてくれたのだから温かい人たちだった。自分の身ぐるみも剥いでおまけをつけてくれたのだから感謝している。
少し騒ぎとなってしまったので場所を移動してこの生活を続けようとした矢先に、子どもとぶつかった。果物が子どもの持っていた袋から落ちる。
「悪いナ」
そう言って拾うのを手伝って渡す。子どもは首をぶんぶん横に振って果物を拾う。ころころと路地裏に転がっていった果物をぶつかった子供が追って入る。その連れであった少女はぶつくさ言いながら果物を拾う。
拾いきってから少女に謝り、立ち去る前にぶつかった少年に一言謝って立ち去ろうとするも、路地裏から一向に出てこない。怪訝に思い、路地裏をのぞき込むと2人の男たちに囲まれて少年が震えている。
「そのガキになんか用カ?帰るところなンだが」
男たちは顔をこちらに向け、ほくそ笑む。
「このガキが俺たちの果物を勝手に持ち去ろうとしてよ。迷惑料もらおうとしてたんだわ」
「お前このガキの連れか?どうしてくれんの?」
ありきたりな因縁をつけられる。しかし今まであったチンピラよりはまだ理屈に筋が通っているところがこの町の特色を示している。
「アンタ達!そいつを放しなさいy「それは俺様ノものダ。返しテほしいね」
「あ?上等くれやがって……」
少女が路地裏に入ってきて少年の状況を見て怒り出したところに言葉をかぶせて前に進み出る。男が指の関節をを鳴らして近づいてくる。そして大きく腕を振りかぶり――――
「テメー死んだぞ!!!」
殴りかかってきた。それを半身で躱しアウトローキックをする。男が悶絶するや否や、顎をとらえてアッパーカットを決める。男は頭から地面に沈む。
もう一人の男がすかさず攻撃をしようとするも、すぐにアップライトスタイルをとり、ウィービングで隙を与えない。男が様子を窺うもすぐにしびれを切らして殴りかかってきた。それをフロントハイキックで迎え撃ち、これを下した。
転がる男たちから迷惑料を頂くと、果物が転がっているのを見つける。これを少年にわたして頭を乱雑に撫でる。少年たちが固まっているのにもかまわず、そうしてその場を離れ去っていった。
チンピラたちから奪った食べ物を舌に載せて可食テストをする。時間がたってもしびれなどはないし、少量飲み込んでも平気だったので食べることができた。水も飲めるようだった。大体の食糧が摂取可能であったが、念のためすべての食材で同じことを続けている。
もう暗いので建物の上で寝床の準備をする。明日は明日の風が吹く。あわよくば目が覚めたら自分の部屋にいるかもしれない。無理やりそう考えねば寝付けそうもなかった。異世界での夜は心細く、自分らしくなく邪魔な考えばかり思い浮かんでなかなか寝付けなかった。
やっと寝たら誰かに襲われる夢を見ただろうか、悪夢を見た記憶があった。途中目が覚めてしまう。寝るにはこんなにも時間がかかっただろうか。一人はこんなにも不安なものだっただろうか。夢を見ることがこんなにも恐ろしかっただろうか。しかしその日は疲労からか瞼は落ちた。
この町を、いやこの世界を見くびっていた。追われている間に二人は殺した。だが何の慰めにはならなかった。敵はざっと10人以上はいた。その中には自分がかつて因縁をつけられたものたちがいた。徒党を組んできたのだ。
自分のようなはぐれは情報に気を使うべきであった。殺し殺されの世界にいなかった甘さがこの状況を招いていた。彼らの顔にはもう当初の狩りを楽しむ余裕の色は消え失せて、本気の命のやり取りをするための全霊の殺意を宿していた。
「見つけたぞ!奥にいる!」
「追いつめろ!回り込んで挟んでから殺せ!」
全速力で逃げる。複数人を同時に相手をしたら終わりだ。刃物で攻撃されれば一回当たれば命取りとなる。自分は戦いにおいてその厳しさをすでに実感していた。大通りを歩いて油断していた。人目をはばからず背後から肩を切られたのだ。急ぎ屋台に飛び込み食材をぶちまけて裏路地に飛び込んだ。
追っ手を振り切り、一人ずつ誘い込んで殺していった。追いつかれたら袋叩きだ。確実に一人ずつと戦える時間を確保できるだけの距離を稼がなくてはならない。一人追いつかれそうになった。いよいよ囲まれそうだ。
「がっ!」
チンピラの顔に荷物を投げつけ、心臓を一突きする。避けなれたがこれ以上声を出されないよう喉笛を搔き切る。
荷物を抱えるも血を流し過ぎたこと、これまで数分全速力で走ったことによる消耗から荷物がやけに重たい。裏路地のごみの中に一つずつ放り投げながら逃げる。運が良ければ後で回収できるかもしれない。
また一人待ち伏せして誘い込む。曲がり角に隠れ、相手が出てきたところを奇襲する。相手の銅を切り、そのまま蹴飛ばす。死んだかどうかはわからないが再起不能なようなので先を急ぐ。
足がやけに重たい。スラム迷路のようには入り組んでおり、土地勘もないせいか、とうとう鉢合わせた。相手は時間稼ぎをしているのか、やけに慎重だ。
包丁を二本投げて牽制をする。1本は足に刺さりチンピラはうめき声をあげる。相手が胴や顔をかばっているところにすかさずナイフを持っている方の腕を狙って連続で突く。
4度目の突きで顔を刺し、5度目の突きで首を刺し貫いた。時間をかけすぎて断末魔をあげられることを許してしまい、周りから怒声が響き、近づいてくる。
2人チンピラが同じ方向からやってきた。違う方向に逃げるが一人に追いつかれた。もう一人の相手にも意識を配りながら、残り3本の身に着けているナイフで応戦しなければならない。
先ほどと同じようにナイフを投げて手に持っているナイフで突きを食らわせる。殺したと思った瞬間、死角からチンピラが飛び出し、わき腹を突き刺した。
「ぐッ……!」
刺さる瞬間体をねじり、肉の実を浅くえぐられたが、そのまま相手の腕を抱えて固定し、心臓めがけて数回刺す。血のあぶくを吐きちしながらチンピラは倒れる。自分を刺したナイフを奪い、走ろうとするも、満身創痍であり足が震えて立っているのもやっとだ。しかし最後の力を振り絞り、駆け抜ける。
もう時間の感覚もないが、限界まで走った。大通りであろうか日光がよく届く場所が見えた。ほっとしたのか体が崩れ落ちる。ナイフを取り落とすも何とか拾い、壁にもたれかかって荒い呼吸をする。
息がしにくいので顔を覆っていた布をむしり取る。目が霞む。寝たら死ぬことはわかっているので、歯を食いしばり太ももに浅くナイフを突き立てる。痛みで一瞬目が覚めるも、意識が遠のいていく。これ以上血を流すことはまずい。
こんなところで死ぬなど認めない。傷の痛みにも構わず恐ろしい形相で這いずって移動する。しかし体力の限界からか、視界は暗くなる。それでも何度も何十回も自分を奮い立たせる。光まであと少しだ。もう自分が絶叫しているのかどうかもわからない。意識は闇に包まれる。
最後に見えたのは突然光から現れた小さな影だった。