お兄ちゃんは死んだ
「本当だとしたら、驚異的な回復力ですね」
総合病院の診察室で、お医者さんが言った。
腕を怪我した兄を診ての発言だ。
「先ほど切られたという割には、すでに治りかけている様子でしたし、あれ、本当はひと月ほど前の怪我ですよね?」
医者にそう言われ、私は駆けつけた母と顔を見合わせた。
「あの子、他に身体の異常とかなかったですか?」母が医者に問う。
「んー、7年間行方不明だったそうですが……特に問題は見受けられませんでした。むしろ、とても健康的で……ただ、身体の傷などはすごかったですね。まるで戦場にいたかのような……創太さんはどこにいたんですか?」
もう一度母と顔を見合わせる。
なんて答えたものだろうか。私は返答を母に任せた。
「少し、変わった場所にいたと言ってるんです。この世界とは違う、もう1つの地球のような場所に」
母なりの精一杯の説明だった。「異世界」というワードを使おうとしない辺り、常識人でありたい母の抵抗が伺えた。
「はあ」
先生からは当然、呆れたような声が漏れる。
「CTもやっときますか」
〇
部屋に入ると、CT検査だかMRI検査だかを終えた兄がいた。
病衣から着替えていた途中なのだろう、兄は上着を着ているところだった。取り立ての男に切られた腕は、念のためなのか包帯を巻いている。
でもそれ以上に、身体に無数につけられた生傷にようやく気付く。今朝の浴室ではすぐに目を逸らしたから気付かなかった。
異世界はさておき、とても過酷な環境に身をおいていたのは間違いがないらしい。
取り立ての男を抑え込んだ時の動きを見ていても、納得がいく。
せざるを得ない。
「大丈夫?」
「うん。これくらいなら、飯食えば明日には治ってると思う」
「そう……そんな簡単に治るものなの?」
そんなゲームみたいなことがあるか。
「ん~ある程度は。そんなに深く切られてないし、これくらいならすぐだよ。魔剣グラニエを心臓に突き刺されたけど、生きて戻ってこれたし多少のことじゃ死にはしない身体になっちゃったんだ」
「え、心臓!?」
「あー、大丈夫だよ母さん。一番怖いのは切り傷なんかよりも、ウイルスさ。傷は治るけど、病気はなかなか治らないから……アンチウイルスマギアもあるけど、無数にあるウイルスに対して的確にマギアを調合しなきゃいけないから防ぐのは難しいんだ」
「えっと、予防接種みたいなものかしら?」
母なりの解釈だった。でも多分そんなものなのだろうと思う。
言いえて妙だとも言える。
「……あ、志津香、お兄ちゃんと一緒にタクシー捕まえといてくれる? 私、支払いしてから行くから」
「え、ちょっと……」
困る。とっても困る。
しかし私の気持ちなど知る由もなく、母は診察室を出て行った。
兄と二人、気まずい空気が流れる。
耐えられない。
「行こうか」
と、兄が先に言って立ち上がり、診察室を出ていく。なんとなく先陣を切られるとむかついてしまう。慌てて後ろを追った。
――沈黙。
病院の長い廊下を、無言で歩く。
「怪我、ほんとに大丈夫なの?」
「ん? ああ、大丈夫だって。気にするな」
「なんで……なんで、お店に来たの?」
「あーごめん。本当にたまたま入ったんだ」
「嘘」
「……」
「ほら嘘だ」
兄の大きくなった歩幅に、ついていくので精いっぱいだ。
昔からそれは変わらない。
転ばないだけ成長したとも言える。
「母さんから聞いたんだ。それで、暇だったから少し……」
「それも嘘」
「なんでそんなこと……」
「借金取りを警戒してたんでしょ」
「……」
「ほら。やっぱり」
兄は何も言わずに頭をぽりぽりと掻いた。
「バレたか」
「昔から、嘘つく時は目を見て話さないじゃない」
「そうだっけ? ……あーでもそれ、向こうでもヒューゴに言われたな」
ヒューゴ。前言ってたのは、スカアハだっけ。どうやら行方不明の時にお世話になった人たちらしい。アメリカ人かな。
とかなんとか言っているうちに、タクシー乗り場まで来た。しかし、夜も遅くタクシーはない。近くにいた病院のスタッフの人が、一台タクシーを呼んでくれるというので待合席で待つことにした。
「ヨーロッパを旅して、野生の動物と死闘を繰り広げながらサバイバル生活でもしてたの?」
「ん?」
「異世界よ異世界。くだらない冗談は嫌いだけど、確かにどこか全然環境が違うところでシビアな暮らしをしていたのは認める」
「ああ。そんな時もあったかな。でも格闘技術は、シュルベニアのアカデミーで学んだんだ」
「アカデミー……学校ってこと?」
「そう。戦い方や、マギアの使い方を教えてくれるんだ」
「翻訳すると、武道を学ぶ海外の学校に通っていたのね」
「そうなるな」
「そう言えばいいのに。妙な設定つけなきゃ死ぬの?」
「ごめん」
どうして私が一人で腹立っているのだろうか。
これではまるでいじめているみたいじゃないか。
「あなたがとても強くなったのはわかるけど、余計なことしないでくれる?」
「どうして?」
「これは私たちの問題だから放っておいて。あなたには関係ない」
「家族――」
「じゃない」
言葉を奪う。強めに否定する。
「7年も好き勝手して、私たちをどん底に突き落としていて、どうして戻って来れるの? 家族面できるの? 頑張るなら7年前にがんばってよ。今更戻って来られても迷惑なのよ」
杭を打つ。胸の奥の奥まで、ずぶりと。
この男を否定する。
最低だとわかっていても、私は自分を止められない。
「あんな高い機材まで使って、あなたの診察代にいくらかかると思ってるの? お母さんが一人で支払いに行ったのも、私を困らせないためなんだよ? 食費は? 衣食住全部にお金がかかるの。一人の人間が増えるって、それだけ使うお金が増えるってこと。これまででもカツカツでやってきたのに、お兄ちゃんのお守りなんてする余裕あると思う?」
「それは……」
「戻ってくれば素直に喜んで受け入れてもらえると思ってた? みんな俺の帰りを待ち望んでるって、驚いてくれるだろうな~とか呑気に考えてたの? あるわけないじゃない! 迷惑なのよ!」
「少しでも、力になれると思ったんだけど」
「それがあれ? 借金取りをボコボコにして追い返すこと? あんなことしたら報復される。強くなって正義のヒーローになったつもりかもしれないけど、あなたは余計に状況を拗らせただけ。あんなことして、あいつらが黙ってるわけない。下手をすれば殺される」
「大丈夫。その時も俺が守るから」
「漫画じゃないの! 格闘技ができればヤクザに勝てるんだったら、警察いらないわよ!」
どうしてこうも、会話が成り立たないのか。
自由気ままに生き過ぎて、当たり前の危機感が死んでしまったのだろうか。
腹が立つ。
むかつく。
うざい。
「私のお兄ちゃんは、もう死んだ。7年前に」
言葉のギロチンを落とす。
それと同時に、母がやってきて、示し合わせたかのようにタクシーもやってきた。
私は兄の反論を聞く前に、タクシーへと乗り込んだ。