幸せなんてはじめから用意されてなかった
ベランダに置いてあったサンダルはひどく走りにくかった。
ボロボロになっていつか買い替えようと思っていたことを思い出し、横着していたツケが回ってきているんだと実感した。
いざというときに、使えない。
駅前まで出てくると、ひと際大きなビルの中に入る。
その3階に事務所を構えるのが、出戸さんの運営する金貸し会社だ。
受付に入ると、ギャル上がりのようなOLが私を唖然と見つめる。
「もう閉めてるんですが、どうかされましたか?」
「はあ……はあ……出戸さんは、いますか?」
問いかけに、受付の女性は狭い事務所の奥を見遣った。
「おーなんや、珍しい顔やな!」
奥の扉から、出戸さんがいつもの軽妙な様子で出てくる。
「どうしたんや、また金か? とりあえずこっち座りや」
事務所内に設置してあった応接間へと案内され、私は足早にそこに向かった。
ソファでふんぞり返る出戸さんに問う。
「さっき、警察が来ました」
「へえ、ほんまか? なんでや?」
「根波田さんから被害届が出ているそうです」
「はー、そらけったいなこっちゃ」
「私には害が及ばないようにしてくれるんじゃなかったんですか!?」
まともに話をする気のない様子に苛立ち、声を荒げる。どちらが金貸しかわからない。
「せやかて、警察が行ってもうたもんはしゃーないやろ? しかも一人、余計な人間が割り込んできて相手殴りつけたって話やから、それは俺もかばえへんで」
「それは……で、でも、スマホから情報を抜き出されたって……」
「はーそうなんか」
「そうなんかって……」
「盗んだのはお前やろ?」
すごまれる。
声を低く。
出戸さんのやり口だ。いつも軽妙な分、急に変わった空気にヒヤリと肝を冷やす。
その時、先程出戸さんが出てきた部屋から、もう一人、誰かが出てきた。
その顔を見て、驚愕する。
「そん、な……」
「やあ、シノちゃん。久しぶり」
根波田さんだった。
変わらない年の割には爽やかな面持ちで、にこやかに笑う。頬には手当てをしたあとがあった。狩里さんに殴られたところだろう。
訳が分からないと出戸さんを見る。
「いやいや、根波田さん、今回はほんとお世話になりました~」
私を無視して、出戸さんは根波田さんへと歩みより、懐から取り出した分厚く太った茶封筒を渡す。そこに何が入っているかは明白だ。
根波田さんはそれを受け取り、カバンへと押し込む。
「こっちこそ悪いね、いつも」
「いっつも頼りにしてまんがな! 今度ええ寿司屋見つけたんで、行きましょや!」
「いいですね~! 僕も新しい事業を始めようと思ってたので、相談したかったんですよ」
「喜んでご融資しますがな!」
「じゃあ、込み入ってるようなので僕はここで」
「ほらほら、のんちゃん、根波田さん丁重にお見送りしてや!」
言われた受付嬢が「は~い」と適当な返事をする。根波田さんは「お気にせず」と言いつつ、私を一瞥してウィンクし、出口へと向かっていく。
その様子に、私は悟らされる。
「私を、騙したの?」
「あ?」
根波田さんを出口まで見送った出戸さんが、扉を閉めつつ苛立ち気味にこちらを振り向く。
「根波田さんは、建設会社の社長なんかじゃないのね?」
「あの人は便利屋や。こっちが頼んだ人間になりきって演じてくれんねん。詐欺にはもってこいの人物や。詐欺師ともいうらしいけどな。はははっ」
「じゃあ何のために……こんなことを!?」
すると、出戸さんは机に置いてあった大きな封筒をこちらに投げる。地面に落ちたそれからは、数枚の写真が飛び出してきた。
その写真は、先日私に送られてきた、根波田さんとラブホテルに入る様子を写した写真。しかもそれだけではない。ラブホテルで私が着替える様子や、あろうことか、シャワーを浴びる様子まで赤裸々に写されていた。
「なにこれ……!」
「志津香ちゃん、気を付けなあかんで? ラブホのお風呂は外から覗けるようになっとるんから」
絶望に何も声が出ない。
息が、呼吸が乱れる。
そうか。私は、根波田さんにホテルに誘導されていたんだ。この脅しの材料を撮影するために。
「安心してえや。俺も約束は守る男や! 借金は動画で見た通りちゃらや。それは信じてええで」
「え?」
一瞬の喜び。
だが、瞬く間に踏みにじられる。
「でもな、その写真、ばら撒かれたくなかったらネガを500万で売ったるわ」
もてあそばれる。
上げて落とす、常とう手段だ。
これは、この男は、私をおもちゃにしている。
「ごひゃ、く……」
「そうそう。まあばら撒かれてもいいならタダやけどな」
「そんなの、払えない……」
「知らんがな。あと、根波田さんから出てる被害届、取り下げてほしかったらもう200万払ってくれるか。ああ、こっちも捕まってええならタダやで」
出戸さんはそう言ってから、げらげらと笑った。
げらげらと、笑うんだ。
「何が、面白いの……?」
「はあ?」
「人の人生壊しておいて、何が面白いのよ!」
「それ、言う相手間違ってるで? 言うなら志津香ちゃんの両親にやろ?」
「っ……」
「勘違いしてもらったら困るわ。俺は他人の人生に興味なんかこれっぽっちもないねん。あるのは金だけや。そのためには他人の人生も潰す。弱肉強食や! 弱い方が悪いねん!」
勝手な言い分だ。
納得できるわけもない。
それなのに……何も言い返せない。
巡るのは抵抗の言葉だけで、それは何一つ解決にならない。
「志津香ちゃん、覚えときや。金貸しは絞れるもんは絞りつくす。もし相手が借金返済して飛び立ちそうな時は、羽をもいで足を折ってでも引き留める。元から君らに自由なんてないんや。始まったときからゲームオーバー……ああ、あとこっちも見せとかな」
まだ何かあるのか。
もはや恐怖心すら麻痺した私の視線だけが動き、出戸さんが床にばら撒いた写真を見下ろす。
「……誰?」
写真に写っていたのは、全裸で宙に吊るされる小太りの男性。しかしその顔は真っ赤に血に染まっていて、長い髪が……ああ……そうか。
「狩里さん……?」
「こいつは予想外やったわ。志津香ちゃんモテるなあ。根波田さんにえらい迷惑かけてもうて、怒ってはったから縛り上げて引っ張ってきたってん」
写真の一枚を手に取る。
一番顔の見えるそれでも、もはや原形をとどめていない。
痛そうで。
辛そうで。
もう言葉にできないほどどす黒い感情が、胸の中を支配する。
「この人は関係ありません……今どこに?」
「とりあえず家には帰したわ。ただ慰謝料と迷惑料で300万。払えへん言うから優しい俺が貸してやったわ。ドヤ? 天使やろ?」
タバコをふかし、また笑う。
「これでその子ブタちゃんも借金地獄や。でも親が金持っとるみたいなこと言うっとったから大丈夫やろ。こっちも絞れるだけ絞りつくすわ」
「……」
「まあ、志津香ちゃんが恩を感じてこいつの分の借金を肩代わりするって言うなら、そう手配したってもえええけど」
どうする? ――出戸は面白がるようにそう言った。
そんなの、どうしようもできない。
私には、そんなもの背負えるわけがない。
また弄ばれる。
私には……。
「ごめ、んなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
目から自責の念があふれるのがわかった。
床に落ちた写真が霞がかっていく。
「は~ひどいやっちゃな~志津香ちゃんは」
出戸はそれでも追い打ちをかけるように言った。
「自分を助けてくれた王子様に、なんもお返ししてあげられへんなんてな~。あっちも救い損やろ? あれやったら無料でしゃぶったったら? 一回しゃぶれば元気出るやろ? あ~でも……多分もう使いもんにならんかもな」
それがどういう意味なのかはわからない。わかりたくもない。
ただ少なくともわかっているのは、私はもはやどうにも逃げられないということだ。自分のしたことが、自分にトドメを刺した。自業自得。
目の前にあったはずの自由が。
求めていた当たり前の幸せが。
夢幻のように消えていく。
「志津香ちゃん」
最後に、出戸さんはひと際優しい口調でささやいた。
「君には、初めから人並みの幸せなんて用意されてないねんで?」
いつの間にか地面にしゃがみこんでいた私の両肩を持ち、立たせる。そして出戸は私を出口にまで誘導し、そして丁寧に外へと押し出した。
「ほな。今日の営業時間はここまで。これからもよろしくな、志津香ちゃん」
彼はこの上ない笑顔で笑って、彼は扉を閉めた。




