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兄が異世界救って帰ってきたらしい  作者: 色川玉彩
第七章
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大脱走

 気が付いたら家に帰ってきていた。

 どうやってここまでたどり着いたのかを覚えていない。それでも、きっと私は本能に従って自分の心が最も休まる場所へと戻ってきたのだろう。

 帰巣本能というやつだろうか。

 とにかく、家に着いた。


「おう、おかえり」


 家には兄がいた。

 日中の本屋の仕事が終わり、夜からの清掃のバイトに行く間なのだろう。いつもこの時間に晩御飯を作っている。

 例には漏れず、兄はエプロンとお玉を片手に立っていた。


「……どうした? 志津香、顔色が悪いぞ?」


 何かを言おうとして、せき止める。

 この人に伝えて何の意味があるのか。

 何の解決になるのか。


「……お母さんは?」

「仕事、残業だって」

「そう……」

「……本当にどうしたんだ?」


 そんなに私の顔色が悪いのだろうか。

 兄はとても心配して声をかけてくれる。


「いい。晩御飯、お願い」


 それだけ言って部屋へと上がる。

 扉を閉め、そのまま扉にもたれかかるように座り込む。

 そしてもう一度スマホを見た。

 北田くんから追いメッセが届いており、「大丈夫か?」「また返事待ってる」などと書かれている。どうやら『カレカノ』の社長宛に届いたものらしく、それを北田くんが相談を受けたのだそうだ。

 もう一度先程の写真を見つめる。

 勘違いであってほしいというわずかな希望も虚しく、それが私であることを再確認しただけだった。

 壁に掛けてある服を見る。写真に写っている自分の服装と一致してしまう。

 一致、してしまう……。


「どうしよ……」


 犯人捜しをしても意味がない。

 今重要なのは、未成年の私が仕事相手の異性といかがわしい場所へ行っていたという事実が、公にされそうなこと。

 今どこまで情報が広がっているのか。これ以上詳細な写真はないのか。私と断定できる要素はないのか。

 あ、と思い至る。

 でもすぐに、根波田(ねはだ)さんの連絡先を知らないことを思い出す。

 あんな逃げ方をして、迷惑をかけて、今更なにを擁護してもらおうと思ったのか。我ながら浅はかで乾いた笑いが出る。

 多分、根波田さんは会社にクレームを入れて、一切合切話しているかもしれない。話だけなら、ホテルを断られた腹いせだと言い張れるけど、写真まで揃っていたら根波田さんの意見に真実味が出てくる。

 やばい。本当にまずい状態だ。

 ようやく掴んだ当たり前が、一瞬にして崩壊していく。


「そんなの……嫌……」


 顔を膝に埋め嘆くことしかできない。

 なんて無力なんだろう。

 その時、ピンポンとチャイムが鳴る。


「はーい」


 と一階から兄の声が響いた。

 私は扉に耳を当て、耳を澄ませる。


「すみませんお忙しいところ」

「いえ」

「警察のものなんですが」


 どきりと、心臓が脈打つ。

 痛いくらいに。


「警察? なんでまた?」

(みね)志津香さんっていらっしゃいますか?」

「志津香、ですか? どうして?」

「いらっしゃるんですか?」

「まずは、どうしてか聞かせてもらっていいですか?」


 兄は頑として流される気はないようで、警察のため息が聞こえてくるようだった。

 今だけはその頑固さがとても助かる。


「被害届が出ていましてね。妹さんが男と共謀して暴力で脅して、会社の社外秘情報を盗まれたと」


 え……どうして……。


「実際に暴力を受けた痕も確認してるんですよ。共謀して直接暴力を振るった男性はすでに取り押さえました」


 狩里(かり)さんのことだ。

 捕まったんだ。


「その盗まれた情報って?」


 兄が問う。

 こんな状況でも、ひどく冷静だった。


「それは話せないんですよ」

「発音が難しいとか?」

「は? ……いや、そういう意味じゃなくて、他人には話せないの」

「家族なんですが?」

「家族でもダメなんです。まずは直接本人に話を伺わないと」

「でも妹は未成年なので夜の外出は禁止してるんです」

「あのねー、君とこんな話してる暇はないの。こっちも仕事なんですよ」

「妹が何かをしたという証拠はあるんですか?」

「だから、それをこれから調べるんですって……妹さんは?」


 兄と警察が押し問答をしている。それが次第に雑音となっていく。

 どうして。

 私の頭の中はそれで埋め尽くされる。

 根波田さんの件については、出戸(でと)さんで大事にならないように処理してくれるはずだったのではないか。

 そう思い、はなはだ不本意だったがスマホで出戸さんに電話をかける。

 数回のコールの後、しかし電話には出ない。

 メールを送る。だがこちらもすぐの返答は期待できない。


「いい加減にしてくれるかな!」


 下から怒号が(とどろ)いた。警察官の声だ。


「捜査妨害で君も署に来てもらうことになるよ?」


 もう限界だ。

 私は、捕まるのだろうか。

 そうしたら大学は? 将来は? 人生はどうなるのだろうか。

 そう考えて溢れそうになる涙を強く押しとめて、飲み込んだ。


「泣いてる場合じゃない。まずは確認しなきゃ」


 そうだ。私は強く生きると決めたんだ。

 ひ弱な守られる女の子じゃない。

 こんなところでゲームオーバーになんてさせない。

 立ち上がり、ベランダに出る。2階という高さは、思っていたよりも高い。

 それでも――私はカーテンを二枚外して強く結びつけ、片方を欄干にくくり付ける。そしてもう片方を下へと垂らした。地面までは届かないけれど、十分なところまで降りられる。

 ふとスカートであることを思いだしためらったが、そんなことは言ってられない。

 まるで映画の主人公にでもなった気持ちで、私は人生で初めて二階からの脱出を試みた。

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