幸せな
「お母さん、ゆっくりね?」
「ちょっと、介護老人じゃないんだからやめて」
母が家に帰ってきた。
例の事件から精神を病み、そこから体調を崩して休養していた。ただ母の入院は主に念の為という意図が大きく、決して介護を受けるレベルのものではない。
ないんだけど、なんだか丁重に扱ってしまう。
そもそも病院でほぼ毎日会っていたし、健康的な食事をしていたからか肌の色も良い。
「母さん、おかえり」
タクシーから降り、母と一緒に家に入ると兄が出迎えてくれた。
「今、晩ごはん作ってるから、ゆっくりしててよ」
「そんな特別扱いしないで。居づらいわ」
「いーからいーから」
私が後ろから背を押して母を家に押し込む。
「久しぶりの我が家ね。なんだか泣きそう」
母は部屋を見渡しながら感慨深げに言う。
特に母が入院する前から変わってはいないのだけれど、母には特別なものに見えたのだろう。
「志津香、牛乳買ってきてくれたか?」
「少しくらいホッとさせてよ。はいはい、買ってきたわよ」
「サンキュー。あ、そこ宅配届いてたから置いといたぞ」
「ありがと。多分ネットで買ったやつ」
「何買ったんだ?」
「部屋の芳香剤をね。この家古くて変な匂いするから、定期的に買ってるの。まとめて買うと安くて」
「なんだ。そんなことなら消臭剤、作ってやろうか? 強力なやつ」
「え、そんなことできるの?」
「俺は消臭剤で異世界で無双したからな」
「たしかに中世とかだと重宝されたかも」
なんて適当な会話をしながらリビングのソファに視線をやると、座っていた母が微笑ましくこちらを見つめていた。
「どうしたの? 早く着替えたら?」
「ううん。いつの間にか二人共仲直りしてて、私嬉しくって」
言われてからハッとする。
最近はこうやって当たり前に会話していたから、特に変だとは思っていなかった。
「そ、そんなんじゃないわよ!」
「志津香〜、牛乳〜」
「机に置いてるから勝手に使って!」
「うふふ。なんかまるで、昔に戻ったみたい……お父さんがいたら、喜んでくれたわ」
そう最後は掠れるような小さな声で言って、母は窓から外を見つめていた。
「じゃあ私も明日から頑張らなくちゃね!」
「お母さんはもう少し休んでよ」
「だめよ。朝川さんにご迷惑かけっぱなしだし、今月の振り込みもそろそろでしょ?」
「それなら大丈夫。多少蓄えはあるし。それに私も新しいバイト始めたし、この人も今や契約社員なのよ?」
調理場に立つ兄を視線で指す。
「契約社員? そうなの? すごいわね! なんの仕事なの?」
「ああ、そうなんだ。仕事はBLぼ――」
「あーーーー! 確か本屋さんの倉庫作業よね?」
正直に話そうとする兄を遮って、代わりに言う。
「お母さんまた倒れちゃうでしょ」
「すまん」
小声で兄とやり取りして釘を刺す。
「そうなの。じゃあうちも少しは楽になるわね」
「そういうこと」
それに実は、借金が帳消しになったのよ――そう言ってしまうべきか、迷う。
決して望ましい手段ではなかったし、母にさらに心労をかけてしまうと思った。それに、私がしたことを、私自身が恥じているから。
なんて話せばいいのか。納得してもらえるのか。納得できるのか。
とにかく、いまではないことは確かだった。
しばらくは様子を見ようと思う。母が元気になる日まで。
そう遠くない未来で、喜びを分かち合えるように。




