救世主
息がうまくできない。
切れそうになる酸素を求めて大きく息を吸い込む。
「結構いるんだよね、土壇場で逃げちゃう子」
腰にタオルを巻いた状態で、根波田さんはゆったりとした口調で話す。
「こっちがお風呂入ってる間に、財布からお金だけ抜いて逃げちゃうんだ。大人をバカにしてるとしか思えないよね」
「そんなつもりは……」
「そうなんだよね。確かに財布を確認したけど一円も抜かれてなかった。ってことは、怖くなった感じ?」
「……は、はい。やっぱりこういうの良くないかなって」
「シノちゃん処女だもんね?」
「っ」
くだらない言葉に、顔が熱くなる。
そんな言葉、さりげなく言わないでほしい。答えられるわけがない。
「これは俄然やる気が出ちゃうね」
にやつく根波田さんの腰に巻かれたタオルがピクリと動いた。両足の付け根あたりに膨らみが目立つ。それがぴくぴくと動いていた。
何、あの中に何を飼っているの?!
「お、お願いします。やっぱり今度にしませんか?」
「シノちゃん。このホテルの利用料いくらか知ってる? ちょっといいところだから3時間で1万3000円だよ? 君が今日僕とデートして稼いだお金くらいでしょ?」
たか! 宿泊ならまだしも、たった3時間で……?
「それに、このまま帰るなら、僕はカレカノにこの件のクレームを入れる。禁止行為を行っていたと知ったら、どうなるのかな?」
「それは、でも、結局何もしてませんし」
「それを誰が証明できるの? 中世みたいに処女膜でも見せる?」
「そそ、そんな破廉恥な!」
「でしょ? 僕はいくらでも嘘をつくし、それに説得力を持たせることもできる。それに、真偽はさておき、こんな噂が学校や家にバレたらどうなるのかな?」
「っ!」
「もし、君が好きな人が知ったら?」
この男が勝ち誇ったように余裕だった理由がわかった。
ホテルに連れ込んだ時点で、既成事実は出来上がっていたのだ。あとはどうにでもストーリーを偽れる。そしてその偽りは、私の行動をことごとく縛り付ける。
まったく隙の無い脅し。
逃げ場のない。
「怖いの? 大丈夫だって、別に取って食おうってわけじゃない。ただのセックスだ。避妊もする。数時間後にはシノちゃんは大金を持って家に帰って、どんな服を買おうかなんてスマホとにらめっこしてる。僕は満足して家で布団に入って、いつも通り家族と一緒に休日に出かけるんだ」
何も変わらない。
何も起こりやしない。
何も問題なんてない。
「……いい加減、諦めなって」
扉を背に立ち尽くす私に、根波田さんは体を寄せる。
「まあ、ベッドにこだわる必要もないな」
そう、私の頬に手を添えた。そしてそれが次第に首、肩、腰、そして私の太ももまで下りていく。
「あっち向いて」
甘い声で言われ、根波田さんに背を向けさせられる。両手を冷たい扉につき、臀部を突き出す態勢にさせられる。
私の体はまるで電気を失ったロボットのように言うことを聞かず、ただ促されるままになってしまう。
「わかる? これが僕」
臀部の割れ目に、何かが押し当てられる。
想像したくない。
この男を殴って、気絶させてでもここを出たい。
なのに、どうして私の体は硬直して動かない。
お願い、動いて――!
コンコン、と扉が向こう側から叩かれた。
根波田さんの動きが止まる。
様子をうかがうように少し沈黙していると、
「すす、すみません。ルームサービスです」
男性の声がそう届く。
何のことかわからず根波田さんを見ると、彼もまたわからないようで首を傾げた。
「すみませーん。いらっしゃいますかー?」
しびれを切らしたスタッフが、大きく扉をたたき始める。
「くそっ。部屋間違えてるな。高いホテルなのに、最悪だ」
観念したのか根波田さんは私の体を奥に引き入れて、自分が扉の前に立つ。
そして扉の中部にある小さな窓を開く。小窓の向こうには、スタッフの腰あたりだけが見えた。
「それうちじゃないんで、間違ってますよ」
「いえ、この部屋からご注文いただきましたので」
「は?」
根波田さんが私を振り返る。
しかし私も身に覚えがない。
「じゃあいいや、こっち渡して」
「大きいものなので開けてもらえますか?」
「大きい? なんなの?」
「三角木馬です」
「さっ……三角木馬ぁ?」
ぷっと噴き出す根波田さんだったが、私は何のことかわからない。
木馬? なぜそんなものが?
根波田さんは再度私を見て、何かを思いついたように卑しく笑う。
「いいじゃん。ありあり。じゃあ今開けるよ」
何かはわからないが、ろくなものでないのは確かなようだ。
根波田さんは扉を開こうとするーーって、開くの? どうして? 私にはラブホテルの仕組みが全く分からない。
がちゃり。
おもむろに開いた扉。
その向こうには三角木馬――なんかではなく。
その姿は見覚えのある。
「あああああああああああ!!」
扉の向こうから、奇声を上げて巨漢が乗り込んでくる。
驚く暇もなく、根波田さんの体は後方へと吹き飛んだ。
「いっだ!」
倒れこむ二人の男。
根波田さんともう一人、その上にマウントをとった巨漢の男は。
「か、狩里さん!?」
『カレカノ』で常連の狩里さんだ。大天使カリエルだ!
いつも私を指名してくれていたが、ここ数日は私も別の指名で忙しく会っていなかった。
「なに、なんなのお前!?」
「シノちゃまに近づくなぁぁぁ! 汚らわしい!!」
興奮した狩里さんは、叫びながら根波田さんに拳を振り下ろし続ける。根波田さんは顔を守ろうと必死に抵抗している。
「シノちゃまは僕の物だ! 無理矢理ホテルに連れ込むなんて、クズだ!!」
いや、違うけど!
いつからあなたのものになったの!?
「ちょっと、落ち着けって! 僕は別に――」
「嘘だ! ずっと見てたんだぞ!! シノちゃまは俺が助けるんだ!!」
ずっと見てたの!?
こわっ!
今の状況、結果的に助けてもらったわけだし、ある意味でヒーローのようにも見えなくもないはずなのに! でも、私は今全身で恐怖を覚えてる!
「シノちゃま! ここは任せて先に行って!」
「ありがと!」
何のためらいもなく答えて、開いた扉から部屋を飛び出す。ひらひらと跳ねるミニスカートの裾は気になるけれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
理想的な救世主とはいかないようだった。世の中うまくはできていない。
「待て! 逃がさないぞ!」
根波田さんが、狩里さんを押しのけてこちらに飛びついてくる。私は即座に扉を閉めた。すると鍵が閉まるような音がして、そのあと扉に根波田さんが当たる音が響いた。
「っつ!~! くそ! 開け! そうか、お金……」
「ああああああああああああああああああああああ!」
「お前しつこいんだよ! どけって!! ぎゃああああああああああ!!」
扉の向こうから獣と戯れる根波田さんの悲鳴が響いてくる。
そのあとドタバタと音がしていたが、それは次第に遠くなっていった。
「カリエル、ごめんなさい!」
とりあえず、助かりました。あなたは私の天使でした。
心の中で礼を言って、私はホテルを抜け出した。




