レムをザゴスティしてイータラでトルムンガ
「おはようございます」
学校が終わり、バイト先の洋食居酒屋『二軒目』に入る。
高校二年生の春と言えば、放課後は塾に行き始める人もちらほらと出てくる時期だ。そんな中でバイト先に向かうのは少し心が痛んだが、でも私に大学に行くという選択肢はないからこれでいい。
「おはよう!」
『二軒目』の店長が気持ち良い挨拶を返してくれる。まるで家に帰ったかのような気持ちになれるのだから、私がいかにこの場所がハマっているかわかる。
夕方4時半だから、まだ準備中だった。
「今日は髙橋ちゃん来れないみたいでさ、忙しくはないだろうしホール頼めるかな?」
「わかりました」
私の普段のポジションはドリンクと軽食を作ること。
一応未成年ということで、できるだけ顔が表に出ないよう店長が配慮してくれている。とはいえいつも思い通りに行くわけではなく、忙しい時間や人手が足りない時は私もホール業務を兼任することがある。
学校からは遠いし、店内も広く薄暗いのでこの一年知り合いにバレたことはない。私がここで働いているのを知っているのは、母と愛ちゃんくらいだ。
半地下にあるトイレに入り、その奥の扉を開けると、狭いがスタッフの控室となっていて、バイトはそこで着替えることになっている。
制服を脱ぎ、バイト用のパンツに履き替える。このパンツルックがカッコよくて好きだ。
個人経営で洋食居酒屋を名乗る『二軒目』は、最大で席数200近いキャパを誇る雰囲気重視の居酒屋さんだ。結婚式の二次会や、近くの大学の打ち上げなどで利用されることも多い。100インチのスクリーンでは、サッカーやラグビーなどの国際試合を流していて、試合の日には熱狂に包まれるスポーツバーと化す。
ただそういったイベントごとが無い時は非常に穏やかな居酒屋で、客入りは数えるほどしかない日も多い。これでやっていけるのかと心配になるが、大人数の客入りで帳尻を合わせているのだろう。
上に支給されている白のブラウスを着てボタンをとめる。髪を後ろに一つ括りにしてスタンバイオーケーだ。
控室を出て階段を上がり、ホールへとあがる。
既に1組お客さんが来ていた。私は静かにカウンターに入り、お客さんの注文を待った。
「志津香ちゃん、生2つ」
「はい」
冷蔵庫から冷えたグラスを出し、サーバーからビールを出す。
7:3の比率で提供するのに、半年かかった。
ガランガラン、とお客さんが入店したのを音が知らせてくれる。
「いらっしゃい!」
店長が入口でお客さんを招き入れている。人数は何人か、それをうかがって通す席を決める。
「お1人様でーす」
「いらっしゃいませー!」
店長はそう言ってお客さんを中に通した。
ズボボボッ――と、ビールサーバーが空になったことを知らせる音が響いた。
と同時に、私はカウンター台の下へと隠れた。
「なんで……!」
どうして、あなたがここに来るの?
「志津香ちゃん? どした?」
隠れた私を、上から店長が覗き込む。
「えっと、今ビールの樽替えようと思って」
「あー切れたか。重いけど運べる?」
「だ、大丈夫です!」
「そ」
店長はにこやかに笑ってホールへ戻っていく。
私はゆっくりとカウンター裏から顔を出し、今しがた来た客を覗き込んだ。
兄だ。
あの顔、あの髪型。間違いない。
幸い、戻ってきたばかりの、ボロ衣のような服は着ていなかったのが救いだ。
「最悪」
「注文頼める-?」
店長がどこかから声を飛ばしてくる。
まさか兄の注文を取りにいけということか。
「無理無理無理……」
そう私が黙って隠れていると、バイトリーダーの郷田さんが注文を受けに行ってくれた。
いつも頼りになる、20代半ばのフリーター男子だ。
今日も頼りになります。
「ご注文は?」
「えっと……レムってありますか?」
「レム……? ラム肉ならございますが?」
「いや、う~ん、ラムじゃなくてレムで、名前はとても似てるんですけど、まったく別の生き物で……えーっとレムをザゴスティしてイータラでトルムンガしてほしいんですけど……」
くっそ!
くっそ馬鹿!!
何言ってんのこいつ!?
どこの国のなんていう料理の設定なの!? 知りたくもないけど!!
「えーっと、レムを、ざごしてぃ? して……イッタラでトーンガ、ですか?」
ほら困らせてる!
そういうの身内の間だけにしてよ!!
「あ、やっぱりいいです。じゃあラム肉もらえますか?」
「はい、ラム肉のグリルですね」
郷田さん仕事人です!
「いや、生でもらえますか?」
「生ビールですね」
「いえ、違うくて、ラム肉を生でほしいんです」
なんで!?
なんで素直に注文できないの!?
そういう病気なの!?
「生ですか? それはちょっと……」
こいつやばい。さすがの郷田さんもそう悟ったのだろう。
店長に目配せで救難信号を出している。察した店長が歩み寄っていく。
「お客様。店長の丹生です。ラム肉の生での提供は禁止しておりまして……」
「そうなんですか? 焼かないだけじゃダメですかね?」
「そうですね。口にされたお客様に万が一のことがあっては店の問題になりますので」
「大丈夫ですよ。少し前まで、雪山で3ヶ月程潜入していたことがあって、その時に生肉は良く口にしていて慣れてるんです」
こいつあかん。
店内にいる誰もがそう思った。
その空気を若干でも感じ取ったのか、
「すみません。じゃあ、これで」
兄は大人しく、メニュー表に載った料理を注文した。
ほっと胸を撫で下ろす。
「かしこまりました。お飲み物はいかがいたしますか?」
「えーっと、おすすめのワインはどれですか?」
飲まないじゃん!
絶対普段飲まないじゃん!
二十歳なったばっかの癖に!
知らないからオススメ訊く常套手段じゃん!
「そうですね、こちらのワインなんかだと、甘くて飲みやすく若いお客様にも人気ですね」
「いや、渋い方が好きなんです」
いちいちかっこつけなくていいから!
「レムに良く合うんですよ」
出た! レムをザゴスティしてイータラでトルムンガ!
「かしこまりました。では一番渋いのだと、こちらのワインですね」
「じゃあそれで」
郷田さんからほのかに仕返しの意図を感じる。
多分、お酒好きの常連、石平さんですら悲鳴を上げた激渋マックスのワインだ。
郷田さんも店長も、心の底で笑っているに違いない。
飲んだ時の兄の顔が目に浮かぶようだ。
「志津香ちゃん?」
そう呼ばれ、はっと我に返る。
店長がカウンターの端から私を見ていた。
「え、あ」
「樽替えれた?」
「今替えます!」
空の樽を持ち上げ、すぐ傍の裏口から外へと飛び出た。