BL本は世界を救う
「見てくれ志津香」
朝、学校に行こうとした私に向かって、兄が喜々とした声色で言ってきた。
それは彼が毎日通い勤める『Rブック』スタッフエプロンで、しかもその胸には新品の缶バッヂが付いている。
男の人がセクシーな顔してるやつ。
「なにそれ」
こう尋ねた時の私の顔は想像に任せる。
「契約社員ってのに昇格してさ。認められた証のバッヂなんだ」
「いつのまに」
変態バッヂを胸にウキウキする兄を横目に朝食を頬張る。
この食パン、テレビで噂になってたやつだけど本当に美味しい。何か依存性のある粉でもまぶしてあるのではないかと疑いたくなる。
「契約社員ねー」
「なんだよ。素直に喜んでくれると思ったのに」
「嬉しいわよ。でもBL本でしょ?」
「おいおいおい。馬鹿にしちゃいけないぞ? BL本の出荷だけで日にどんだけあると思ってるんだ? この街の人間は1ヶ月に一冊はBL本を読んでる計算になる」
「やめてその換算」
「経済効果は数百億円とも言われてるんだ。そこら辺の本よりよっぽど世の人の血肉になってる。学校の教科書にBL本が入ったっておかしくない」
「おかしいでしょ。それは否定するわ」
「BLは世界を救うんだ。戦争を止める力だってある」
「なにそのキモイ格言。誰が言ってたの」
「瀬田さんだ」
「あいつそんなキャラだったの? てか男でしょあの人」
「BL本が女性の見るものだって誰が決めたんだ?」
「ごめんね間違ってた。変態が見るものよね」
「変態と天才は紙一重らしいぞ」
「変人と天才ね」
私があーいえばこー言いあっていると、兄はげんなりしたように息を吐いた。
「今度サンプル持って帰ってくるからお前も一度読んでみろよ? な?」
「家族にBL本薦める奴とは暮らしていけそうにない」
「大丈夫! 比較的プラトニックなやつだから!」
「何が大丈夫なの!?」
「エロ本じゃない! 恋愛物語なんだ!」
「胸に変態バッヂ揺らしながら言われても」
くらくらと揺れる頬を赤らめたおっさんと目が合う。
「どうでもいいけど、お母さんになんて説明するか考えといてね。明後日には戻って来るんだから」
「なんてって、そのまま説明すればいいだろ?」
「息子が変態バッヂ付けてエロ本を世界に送り届ける仕事してるって知ったらまた倒れるでしょ」
「任せろ。俺がちゃんと納得してもらえるように説明する」
「やめて。せめて本の出荷作業くらいにしといて」
なんとかBL本の偏見を解こうとする兄を無視して、私は2階へと上がった。
さ、学校学校。
〇
全国模試――そう書かれたプリントを見つめる。
受験を選択した私にとって、実質初めての実力を試す場となる。今回のこの模試の結果いかんで、受験する大学を見極めるつもりだ。
「もっしもし志津さん志津さんよ~。おっ腰に付けたきびだんご~」
「愛ちゃん、なんかいろいろ混ざってる」
「お志津志津志津、志望校どこって書くの?」
「私の気にしてどうするのよ」
「おんなじとこ受けるからさ」
「愛ちゃん。自分で考えて自分で決めなさい」
「あ、おこ? おこなの?」
「おこ」
「だってー。別に行きたいところないし」
「だったらなんで大学行くのよ?」
「人生のモラトリアム期間」
「激おこぷんぷん丸」
「お志津それ死語」
「え、うそっ」
こないだ流行っていた気がするのに。
時代の移り変わりは激しいものだ。
と、その時私のカバンから小さく音が聞こえる。この音は格安スマホのバイブレーション音だ。
私自身友達が多いわけではないので、あまり鳴ることはない。あったとしても愛ちゃんだけど、愛ちゃんはいまここにいるわけだし、お母さんだろうか。
なんて思いながら一瞬考えていると、教室の隅からこっちを見ている北田くんと目が合った。北田くんは目が合うと、自分のスマホを小さく掲げてその場でフリフリと振った。
あ、と察する。
「愛ちゃんごめん、ちょっとお手洗い」
「ジー」
すさまじい察知能力のジャッジメントアイだった。
そんな愛ちゃんを捨て置き廊下に出たところでスマホを見る。案の定そこには北田くんからメッセージが入っていた。
少しドキドキしながらそれを開く。
「今日5時からっしょ? そのあと一緒にマックで勉強しない?」
シフトが開けたら夜の9時あたりか。今日は予約も入っていないし、比較的暇な日だから長時間の注文が入ることもないだろう。
わかった。終わったら待ってる。
そう返して閉じる。すぐに教室に戻って入った瞬間に奥にいた北田くんを見遣る。彼も今返答を見たところらしく、スマホから顔を上げて私を見て、にこにこと手を振ってくれた。
だが堂々と振り返す勇気もない。私は髪を耳にかけながら自席へと小走りに進む。
その間ずっとジャッジメントアイ状態の愛ちゃん。半眼で見つめてくる。
「お志津。随分とトイレが早かったね」
「そういうこと言わない」
「それにお志津、最近ちょっとお化粧して可愛くなってる」
「そ、それは……ちょっとくらいいいでしょ?」
「ジー」
「はいはい。次の授業の準備しましょ」
そう言って逃げる。後ろからのジャッジメントアイがとても痛い。
するとその時、再度スマホが震える。反射的に北田くんを見るが、北田くんはもう私を見ておらず、友達と談笑していた。てことは、違うのか。
そう思ってスマホを見ると、『カレカノ』からの事務メールだった。
「本日指名が入りました。18時に現場直行してください。場所は――」
どきっと少し胸が騒ぐ。
しかし詳細を見て少しだけほっと胸を撫で下ろす。狩里さんではなかった。実は狩里さん、あの後毎日指名してくれて、ほぼ毎日会っていた。お金を落としてくれるのはいいが、ちょっと引いている。しかもあのお金は彼のものではなく彼の両親のものなのだから。
なんてことはなかなか言えず――怒って一回言ったけど――しかしまた彼かと思って少し不安だった。
しかし今回は全く別の人らしい。
「なんで、私?」
少しだけ疑問に思う。
モザイクがたくさん入って誰だかまったく分からないような写真を公式サイトに上げているが、そこから指名してくれたのだろうか。こんな素人の私を?
ふとミレンさんからの話を思い出す。
世の中には新人で遊ぶのが好きなもの好きもいるそうだ。とりあえず入る子全員に唾をつけて評価して、ネットなどに書きこんだり、俺はこの店を知り尽くしてるぜ感を醸し出したり、あとは純粋に擦れた慣れた子ではなく、純真無垢で不慣れな子とデートしたいって言う人もいるらしい。
まあ指名料が入るから誰であっても有難いんだけど。
なんて思いながら心の中でくすりと笑う。
兄を馬鹿にできないなって。
BL本もいろいろ悩ましいけれど、私のこのバイトも決して健全とは言えないのだから。
「でも、返済までだから」
そう自分に言い聞かせるように呟いて、私はスマホを鞄にしまった。




