もう少しだけ
その後。
なんとか狩里さんの呪縛を抜け出した私は、代金を受け取って事務所へと戻った。事務所ではミレンさんを含めたメンバーの人たちが声を掛けてくれた。
「あーそれ系かー。まじきもいよね」
ミレンさんのお言葉。その顔も是非見せたかった。
その後社長に呼ばれて部屋に行くと、彼女は少し目頭を押さえつつ電話を切ったところだった。
「お疲れ様。どうだった?」
「えっと、大変だなーと思いました」
「みたいね」
「今の電話って……」
「コールセンターから私宛に回されたの。社長を出せってしつこくて。ご想像通りあなたのお客様」
びくり、と心臓が小さく跳ねる。
「何か言ってましたか?」
「ええ……最高だって。次もシノちゃまの指名したいって」
「え」
「なんか説教されて気持ちよかったみたい。もっと罵ってほしいって」
「えぇ……」
「まあそんな顔にもなるわよね。でもこういう世界よ、慣れなさい」
なんて世界だ。
絶対怒られると思っていたのに。
「それで、社長がお疲れなご様子なのは……?」
「この人、シノの事を褒めた後、会社についてのクレームを延々言い続けるからまいっちゃって……」
「あー、クレーマー気質ではありましたね」
「挙句の果てに、シノを解放してやれとか、借金は俺が肩代わりするとか、めちゃくちゃよ」
「あはは。ご迷惑おかけします」
「ああいいのよ。これが私の仕事だから。今日は初出勤お疲れ様。これ、給料は即金の手渡しがいいってことだから」
社長は会社のロゴが入った封筒を私に向ける。それを受け取り中身を確認する。
中には1万円札が10枚と、5千円が1枚と100円が6枚。
「こんなに……」
「紹介で10万円。それに今日の分で5000と600円。たった2時間でそれなら割がいいでしょ?」
「すごく」
「続けていけそう?」
「……まだなんとも。でも、背に腹は代えられないと言いますか」
「ふふっ。まあみんなそんなものよ。この仕事を喜んでやる子なんて少ない。大体はお金のために嫌々やってるだけだから。間違ってない」
「すみません」
「いいのよ。まあ私としては、貴女みたいな人は長く働いて欲しいんだけどね」
「……ありがとうございます」
この人は出来る女性だと思った。
なんとなく、この人に着いて行けば間違いが無さそうで。
私は恐縮しながら部屋を後にした。
「嶺!」
すると、部屋を出たところで、声を掛けられる。
見ると北田くんだった。
「あれ、どうしたの?」
「嶺がそろそろ終わるから待ってたんだ。初めてだったけど、どうだった?」
「うん。なんとか」
「続けられそう?」
「頑張ってはみたいかな」
「よかった~」
まるで氷塊が解けるように、北田くんの顔が破顔する。
「嫌な経験して一回目で辞めちゃう子も多くてさ。嶺にもしものことがあったらって心配してたんだ俺」
「大丈夫よ。むしろ説教してやったわ」
「マジ? すげーな! 俺も今度嶺を指名してみよっかな!」
「え?」
「え……あ、じょ、冗談な!」
「そ、そうよね。私とデートしたってつまらないし」
「……そんなことない」
待って。
待って待って待って。
なんか、空気が変わった。
「嶺といたら、めっちゃ楽しいし、なんか、ドキドキするし……」
「う、うん……」
「今日も誰かとデートしてるって思ったら、正直なんかめっちゃ落ち着かなかったし……」
顔が、全身が、赤く燃え始める。
ダメだ。顔を見られない。
「嶺!」
「は、はいっ!」
両肩を掴まれ、顔を寄せられる。
そしてその顔が、徐々に、私に、近づいてくる。
「ま、待って!」
無理。
心臓が弾け飛ぶ前にそう叫んで、北田くんの顔を止める。
「み、嶺……俺……」
「ここ! 仕事場! プライベート! 禁止!」
「そ、そうだった……はは、俺の方が先輩なのに、ごめん」
「今日はもう遅いから帰るね。また明日!」
北田くんの顔を見ずにそそくさとエレベーターに乗る。
爆発しそうなまでに熱くなった顔を、私は必死に手で煽いで冷まそうとした。
〇
すっかり暗くなった。
最寄駅について夜ご飯の買い込みをする。そのまままっすぐ家に向かってもよかったのだけど、なんとなしに駅近くのショッピングセンターへと赴いた。
「そろそろだと思うんだけど」
時計を見る。10時を回ったところだった。
ショッピングセンターの入り口を見遣ると、数名の人が中から出てくる。ショッピングセンター自体は8時に閉っているから、スタッフだろう。
そしてその一番後方から、見知った人間が出てきた。
兄だ。
今日からここの清掃のバイトも始めた。何故知っているかと言うと、兄が仕事を申し込むのは私のスマホからだからだ。さすがにもう一台スマホを買うのはまだ早い。
帰る時間が重なったため、少しの気の迷いで見に来ただけだったが、ドンピシャリだったようだ。
こっちに向かってくる兄に、なんと声を掛けようかと思考を巡らせていると、私よりも先に別の男の人が2人、兄に話しかけた。兄と同年齢くらいだろうか。私は様子見をする。
暗くて何を話しているかわからない。2人の男の笑い声だけが響いてくる。すると、片方の男が、兄に向ってペットボトルの水をかけた。一瞬で気持ちが冷たくなったが、兄はそれに対し沈黙したまま、黙って立ち尽くしている。男2人はそれで満足したのか、兄を馬鹿にするように笑いながら去っていった。
「なにあれ」
こちらに近づいてきた兄に話しかける。
「志津香。待っててくれたのか?」
「待ってない。ただ様子を見に来たら、帰る時間が重なっただけ」
「そうか。残念だ」
「さっきの人たち、誰?」
「ん? ああ」
兄は自分の服についた染みを見下ろした。
「俺の中学の時の同級生だ」
「中学の?」
「そう。俺が戻って来たってもう街では有名らしくてさ。面白がって茶化しに来たらしい」
「それで水掛ける?」
「水じゃない。ウィルキンソンだ」
「どっちでもいいわよ。なんでここで働いてるってわかったのかしら?」
「さあ。でも街は狭いからな」
「中学時代、いじめてきてた人?」
「……多分。中学入ってすぐ行くの辞めたから、ちゃんとは覚えてない。顔も変わってるし」
「ふーん」
「それで、今日の晩御飯は何にする?」
「もう買っちゃった。時間も時間だからたいしたものは作らないわよ」
「そうか。俺に任せてくれればいいのに」
「もう野性味あふれる脂っこい料理は勘弁。お肌が荒れる」
「なんだ、好きな人でもできたのか?」
「はっ、はあ!? なんで急にそうなるのよ! 女は皆気にするの!」
私がそう返すも、兄は特に何も返してこなかった。
なんだその含んだような顔は。
「さっき、よくやり返さなかったわね」
「ん? ああ、水掛けられるくらいなんてことない。どうせ服も洗うんだしな。それに暴力沙汰でバイトをクビになりたくない」
「そうね。それくらいのことは耐えながら、地道に働いて、地道に生きていく。それがこの世界で生きるってこと。私たちの歩く道。いつかやり返せる日が来るわ」
「まずは借金を返さないとなー」
「それね。今日いくらだったの?」
「本屋は月給になったし、ここは3000円。時給はいいけど、他にもっといいの探したいな。冷蔵倉庫で深夜帯のやつがあったからそれにしようかな」
「それいつ寝るつもりなの?」
「俺は2時間も寝られれば充分だから大丈夫」
「なにそれ。キリンじゃない」
「そうなのか?」
こうやって兄と他愛ない会話をしながら歩いたのは、いつ以来だろうか。
そんなことを思いながら家路を進む。
状況は大きく変わってしまったけれど、そしてひどく遠回りをしてしまったけれど、それでも私はいま、確かに家族と歩いている。
決して楽観視できる人生ではないけれど、でも、なんとか少しずつ、私たちは上向きに動き出している、そんな気がする。
だからもう少しだけ。
あともう少しだけ、踏ん張ってみようと思う。
ようやくそう思えたんだ。




