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兄が異世界救って帰ってきたらしい  作者: 色川玉彩
第五章
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もう少しだけ

 その後。

 なんとか狩里(かり)さんの呪縛を抜け出した私は、代金を受け取って事務所へと戻った。事務所ではミレンさんを含めたメンバーの人たちが声を掛けてくれた。


「あーそれ系かー。まじきもいよね」


 ミレンさんのお言葉。その顔も是非見せたかった。

 その後社長に呼ばれて部屋に行くと、彼女は少し目頭を押さえつつ電話を切ったところだった。


「お疲れ様。どうだった?」

「えっと、大変だなーと思いました」

「みたいね」

「今の電話って……」

「コールセンターから私宛に回されたの。社長を出せってしつこくて。ご想像通りあなたのお客様」


 びくり、と心臓が小さく跳ねる。


「何か言ってましたか?」

「ええ……最高だって。次もシノちゃまの指名したいって」

「え」

「なんか説教されて気持ちよかったみたい。もっと罵ってほしいって」

「えぇ……」

「まあそんな顔にもなるわよね。でもこういう世界よ、慣れなさい」


 なんて世界だ。

 絶対怒られると思っていたのに。


「それで、社長がお疲れなご様子なのは……?」

「この人、シノの事を褒めた後、会社についてのクレームを延々言い続けるからまいっちゃって……」

「あー、クレーマー気質ではありましたね」

「挙句の果てに、シノを解放してやれとか、借金は俺が肩代わりするとか、めちゃくちゃよ」

「あはは。ご迷惑おかけします」

「ああいいのよ。これが私の仕事だから。今日は初出勤お疲れ様。これ、給料は即金の手渡しがいいってことだから」


 社長は会社のロゴが入った封筒を私に向ける。それを受け取り中身を確認する。

 中には1万円札が10枚と、5千円が1枚と100円が6枚。


「こんなに……」

「紹介で10万円。それに今日の分で5000と600円。たった2時間でそれなら割がいいでしょ?」

「すごく」

「続けていけそう?」

「……まだなんとも。でも、背に腹は代えられないと言いますか」

「ふふっ。まあみんなそんなものよ。この仕事を喜んでやる子なんて少ない。大体はお金のために嫌々やってるだけだから。間違ってない」

「すみません」

「いいのよ。まあ私としては、貴女みたいな人は長く働いて欲しいんだけどね」

「……ありがとうございます」


 この人は出来る女性だと思った。

 なんとなく、この人に着いて行けば間違いが無さそうで。

 私は恐縮しながら部屋を後にした。


(みね)!」


 すると、部屋を出たところで、声を掛けられる。

 見ると北田くんだった。


「あれ、どうしたの?」

「嶺がそろそろ終わるから待ってたんだ。初めてだったけど、どうだった?」

「うん。なんとか」

「続けられそう?」

「頑張ってはみたいかな」

「よかった~」


 まるで氷塊が解けるように、北田くんの顔が破顔する。


「嫌な経験して一回目で辞めちゃう子も多くてさ。嶺にもしものことがあったらって心配してたんだ俺」

「大丈夫よ。むしろ説教してやったわ」

「マジ? すげーな! 俺も今度嶺を指名してみよっかな!」

「え?」

「え……あ、じょ、冗談な!」

「そ、そうよね。私とデートしたってつまらないし」

「……そんなことない」


 待って。

 待って待って待って。

 なんか、空気が変わった。


「嶺といたら、めっちゃ楽しいし、なんか、ドキドキするし……」

「う、うん……」

「今日も誰かとデートしてるって思ったら、正直なんかめっちゃ落ち着かなかったし……」


 顔が、全身が、赤く燃え始める。

 ダメだ。顔を見られない。


「嶺!」

「は、はいっ!」


 両肩を掴まれ、顔を寄せられる。

 そしてその顔が、徐々に、私に、近づいてくる。


「ま、待って!」


 無理。

 心臓が弾け飛ぶ前にそう叫んで、北田くんの顔を止める。


「み、嶺……俺……」

「ここ! 仕事場! プライベート! 禁止!」

「そ、そうだった……はは、俺の方が先輩なのに、ごめん」

「今日はもう遅いから帰るね。また明日!」


 北田くんの顔を見ずにそそくさとエレベーターに乗る。

 爆発しそうなまでに熱くなった顔を、私は必死に手で煽いで冷まそうとした。


          〇


 すっかり暗くなった。

 最寄駅について夜ご飯の買い込みをする。そのまままっすぐ家に向かってもよかったのだけど、なんとなしに駅近くのショッピングセンターへと赴いた。


「そろそろだと思うんだけど」


 時計を見る。10時を回ったところだった。

 ショッピングセンターの入り口を見遣ると、数名の人が中から出てくる。ショッピングセンター自体は8時に閉っているから、スタッフだろう。

 そしてその一番後方から、見知った人間が出てきた。

 兄だ。

 今日からここの清掃のバイトも始めた。何故知っているかと言うと、兄が仕事を申し込むのは私のスマホからだからだ。さすがにもう一台スマホを買うのはまだ早い。

 帰る時間が重なったため、少しの気の迷いで見に来ただけだったが、ドンピシャリだったようだ。

 こっちに向かってくる兄に、なんと声を掛けようかと思考を巡らせていると、私よりも先に別の男の人が2人、兄に話しかけた。兄と同年齢くらいだろうか。私は様子見をする。

 暗くて何を話しているかわからない。2人の男の笑い声だけが響いてくる。すると、片方の男が、兄に向ってペットボトルの水をかけた。一瞬で気持ちが冷たくなったが、兄はそれに対し沈黙したまま、黙って立ち尽くしている。男2人はそれで満足したのか、兄を馬鹿にするように笑いながら去っていった。


「なにあれ」


 こちらに近づいてきた兄に話しかける。


「志津香。待っててくれたのか?」

「待ってない。ただ様子を見に来たら、帰る時間が重なっただけ」

「そうか。残念だ」

「さっきの人たち、誰?」

「ん? ああ」


 兄は自分の服についた染みを見下ろした。


「俺の中学の時の同級生だ」

「中学の?」

「そう。俺が戻って来たってもう街では有名らしくてさ。面白がって茶化しに来たらしい」

「それで水掛ける?」

「水じゃない。ウィルキンソンだ」

「どっちでもいいわよ。なんでここで働いてるってわかったのかしら?」

「さあ。でも街は狭いからな」

「中学時代、いじめてきてた人?」

「……多分。中学入ってすぐ行くの辞めたから、ちゃんとは覚えてない。顔も変わってるし」

「ふーん」

「それで、今日の晩御飯は何にする?」

「もう買っちゃった。時間も時間だからたいしたものは作らないわよ」

「そうか。俺に任せてくれればいいのに」

「もう野性味あふれる脂っこい料理は勘弁。お肌が荒れる」

「なんだ、好きな人でもできたのか?」

「はっ、はあ!? なんで急にそうなるのよ! 女は皆気にするの!」


 私がそう返すも、兄は特に何も返してこなかった。

 なんだその含んだような顔は。


「さっき、よくやり返さなかったわね」

「ん? ああ、水掛けられるくらいなんてことない。どうせ服も洗うんだしな。それに暴力沙汰でバイトをクビになりたくない」

「そうね。それくらいのことは耐えながら、地道に働いて、地道に生きていく。それがこの世界で生きるってこと。私たちの歩く道。いつかやり返せる日が来るわ」

「まずは借金を返さないとなー」

「それね。今日いくらだったの?」

「本屋は月給になったし、ここは3000円。時給はいいけど、他にもっといいの探したいな。冷蔵倉庫で深夜帯のやつがあったからそれにしようかな」

「それいつ寝るつもりなの?」

「俺は2時間も寝られれば充分だから大丈夫」

「なにそれ。キリンじゃない」

「そうなのか?」


 こうやって兄と他愛ない会話をしながら歩いたのは、いつ以来だろうか。

 そんなことを思いながら家路を進む。

 状況は大きく変わってしまったけれど、そしてひどく遠回りをしてしまったけれど、それでも私はいま、確かに家族と歩いている。

 決して楽観視できる人生ではないけれど、でも、なんとか少しずつ、私たちは上向きに動き出している、そんな気がする。

 だからもう少しだけ。

 あともう少しだけ、踏ん張ってみようと思う。

 ようやくそう思えたんだ。


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