しっかりしてよ
やってみればわかるけれど、一人の人間を運ぶというのはなかなかに難儀なことで、それが大の男を女一人で運ぶとなればなおさらだった。
店にはいられないと兄を引きずり出したは良いけれど、結局店を出て一分進んだところで私の力が尽きた。兄の身体はもちろん、肩にかけられた大剣が重すぎる。捨て置こうかとも考えたけれど、後からネチネチと言われそうだったからそれはとどまった。
幸い凍えるような寒さというわけでもないので、程よく涼しい風が通り居心地は悪くない。
でもこんな道端でいつまでもいられないと思い、どうにか移動手段を考えたが、私には車を運転できず、かといってこの状態でタクシーに乗るわけにもいかない。
病院に行ってもいいが、兄は現在行方不明中で、確か母曰く保険証がない。あきらかに高額になる治療費の事を考えると足がすくむ。
最終的に思考を巡らせた私が連絡を取ったのは、朝川診療所。母が勤める診療所だ。
こんな時間に無駄だろうと思いつつ連絡を取ると、朝川先生は私の泣きそうな声にいたく心配してくださり、わざわざ車を出して迎えに来てくれた。
そのまま何も聞かず診療所まで連れて行ってくれ、そして兄をベッドに寝かせたあと傷の手当などをしてくれた。ここが外科で助かった。
「あの……」
「治療費なら大丈夫。今回は特別じゃよ」
私が言いたいことを瞬時に理解してくれて、しかも慮ってくれる。
世界にはこんなにいい人がいるんだと素直に心が洗われた。
すると、朝川さんは黙って私にハンカチを手渡した。
「拭くといいよ」
言われて意味が分からず鏡を見る。
すると私の目からは涙が溢れていて、今にも目から飛び出してきそうだった。
言われるまで気付かなかった。
ハンカチに顔を埋め、涙を吸いあげる。
「すみません。いきなり」
「緊急には慣れとるよ」
「母の事と言い、ご迷惑ばかり……」
「ふむ。君は、いささか自分で物事を背負いすぎじゃないかい?」
「え?」
「たった17の女の子なのに。お母さんの事とか、借金のこととか、大きなものを背負いすぎじゃないかと思ってね」
「仕方がないんです。そういう、運命なんです」
「君くらいの子供なら、そんなもの知っていても背負わず、誰かに任せちゃって自分の事ばかり考えるものだよ」
「……でも、任せる誰かがいないんですよ」
「それは任せる気がないだけじゃろ。君は誰も信用してないから」
突然の辛辣な言葉に、返答を失ってしまう。
朝川先生の目はよぼよぼに皺が入った年相応のものなのに、その奥に佇む黒い瞳は吸い込まれそうなほどに凛としていて、飲み込まれそうになる。
「お母さんも言ってたよ。志津香ちゃんは立派だけど、何でも自分でやろうとするから心配だって。私が母親として頼りないからかなーって。そう笑ってたよ」
「お母さんが……?」
「少し肩の力を抜いた方がいい」
「でも、私がしっかりしないと……」
「辛かったら誰かを頼ればいい。世の中なんとかなるもんだよ」
言って、最後に朝川さんは破顔して優しく笑う。
もう齢60は超える人にそう言い切られてしまうと、私なんて子供には反論もできない。
「して、察するに喧嘩か何かかな? それにしては度が過ぎていると思うけど」
「そんなところです。その、怪我は治りますか?」
「血は出ているけど、傷はさほどでもないから大丈夫だろう。随分鍛えられてる身体だ。理想的と言ってもいい……警察には?」
私は黙って首を横にふった。
安易に通報していいものか迷っている。もし通報するとすれば店長がしているだろうし、私がしたところで事態を余計にこじらせそうだから。
なにより、母が人質にされている。
あれは、そういうことなのだろう。だから彼らは法など度外視にして暴れ回ったのだ。もしもの時の保険を用意しているから。
「ん」
その時、兄がうめき声をあげて目を覚ました。
「ああ、志津香」
「なんでそんなにのんびりなのよ……」
まるで寝起きのように落ちつている兄に唖然とする。
心配していた自分が馬鹿みたいだ。
「なんだ志津香、泣いてたのか? 俺のために?」
「な、泣いてないわよ! ありえない!」
「……ここは?」
ようやく兄と朝川先生が目を合わせる。
「ああ、朝川さんの」
「久方ぶりだの。まだ寝ておいた方がいい」
「ああ、いえ、大丈夫です。もう血も止まったので」
そう言って兄はばりばりと肌に付いたガーゼや点滴針などを取っていく。
朝川先生は驚いてあたふたしていたが、少し兄の身体を見てその顔付きが鋭くなる。
「なんと……驚異の快復力じゃ」
「自己治癒能力は極めたので」
兄は腕をぐるぐると回して健康であることをアピールする。
そう言われれば、まぶたの大きなコブまで消えている。一、二時間程度でここまで快復することはまずないだろう。
「どうして、抵抗しなかったの?」
「志津香が喧嘩するなっていったんだろ?」
「そうだけど……普通、自分が殺されかけてまで守ること?」
「別に殺されかけてないからな。本当にやばかったら抵抗してたさ」
「気絶してたくせに」
「そうした方が早く終わるからな。志津香が戻って来る前に終わらせたかった……とはいえ気絶したふりだとあのシューエンって男は気づくからな」
「狙って気絶するとかどこのゴキブリよ」
見るからに死にそうだったんだけれど。
本人が大丈夫というからには大丈夫なんだろう。
「どうして……こんなことされなきゃいけないんだろ」
「?」
「私たち、何にもしてない。ただ真面目に生きてるだけなのに。あんな面白半分で、人生めちゃくちゃにされなきゃいけないの?」
「あはは……たしかに世の中、理不尽だよなあ」
ふと、兄が含んだように言って笑った。
明らかな空気感の違いに困惑する。
「でも生きるってそんなもんだ。悪意や理不尽は絶えないし、人間が生きるってのはそういうのと戦い続けるってことなんだ」
「なに……? あんなやつらを肯定するの?」
私を、否定するの?
「違う。あいつらはあいつらで、いずれ淘汰される。でもすぐに新しい悪意が生まれて、理不尽が襲ってくる。いちいち悲観していたら体力が持たない」
「だからって、平気な顔して生きていけっていうの? 達観して見て見ぬふり? そうやって生きるのが当たり前だって、異世界で学んできた?」
嘲笑するように言ってやる。
私は子供だと思う。
「ああ」
「もう! もうもうもうもうもうっ!」
傍にあったタオルの山を取り、兄へと投げつける。
兄はそれを避けもせず何枚も顔に食らっていた。
「なによ! わかりきったような態度とって! あんた一方的に殴られてるのよ!? 馬鹿にされて、傷つけられて、お母さんを人質にまでされて、それで何の感情もないわけ!?」
「母さんも志津香も、まだ傷ついてない」
「時間の問題よ! 今すぐなにか手を打たないと!」
「落ち着け。じゃあ俺にどうしてほしいんだよ?」
「それは……わかんない!」
わからない。
警察に頼ればいいのか、泣き寝入りすればいいのか、やり返せばいいのか。
私は答えを持ち合わせていない。
「あんたもお母さんも、いっつもマイペースでのほほんってしてて、いっつも私だけイライラして、焦って……お願いだからもっとしっかりしてよ……なんで私だけ……」
私を、子供でいさせてよ――声に出せない言葉を、胸の内で消化する。こんな弱音を吐きそうになった自分が怖い。
このままでは、どんどんと弱音や愚痴が口からこぼれ出てきそうだ。
私は理性を優先する。
「帰る」
私はまた出そうになった涙を飲みこんで診療所を後にした。




