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兄が異世界救って帰ってきたらしい  作者: 色川玉彩
第三章
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死相

「どういう、こと?」

「静かに」


 震える声で私が尋ねると、兄は周囲を気にしてそう制止した。


「お父さんが戻って来るって……何を言ってるの?」

「志津香、落ち着け」

「お母さんは、そんなことのために、こんなバカげた施設にいるの?」

「説明はする。一度外に出よう」

「お父さんは、もう戻ってこないんだよ!!」

「誰だ!?」


 興奮を抑えきれず叫んだ私に、すぐさま男の声が飛んで来た。

 私は立ち上がって、ホールの中央でこちらを茫然と見つめる母を睨みつける。

 その様子に、会場がざわついた。


「志津香?」


 母が気づいた。

 その目を、その間抜けな瞳を睨みつける。


「君たちは何だ? どこから入った?」

「すみません。うちの子で……」


 弁明する母の下に歩み寄っていく。

 周りの人たちなんかどうでもいい。この男ももはやどうでもいい。

 ただ、母への怒りが収まらない。


「やめて! そんな人に頭なんて下げないで!」

「志津香、どうしてここに……あーもう、いいから、あなたもこっちに来て謝りなさい」

「触らないで!!」


 私の頭に触れようとした母の手を振り払う。

 自分でも鼻息が荒くなっていることに気が付いていた。

 でも収まらない。収められない。


「お母さん、どうしてこんなことしてるの? こんなおじさんの臭い息吹きかけられて、お父さんが戻って来るわけないじゃない!」

「こら! いい加減にして! なんてこと言うの!」

「目を覚ましてよ! こんなところもう二度と来ないで!」

「志津香こそ一緒にお願いするの! お父さんが戻って来るように!」

「なにを言って……!」


 母の目は、本気で私を咎めていた。

 信心を持たず否定する私を理解できず、本気で諭そうとしていた。母として。

 愚かな我が子を、諭そうとしている。

 母の両腕を掴み、逆に私の方から諭すように言う。


「しっかりして! お父さんは死んだ! もう戻って来ないの!」

「戻って来るわ! あの人は戻って来る! だって創太が戻ってきたのよ?」


 そういうことか。

 戻って来ないはずの兄が戻ってきた。奇跡が起こった。

 母は、そのありえない奇跡に心を揺さぶられ、再び奇跡を求めた。

 こんなバカげた集団に。


「ここで地道に幸せを集めたから、創太も戻ってきたの。だったらあと5年でも10年でも幸せを集めて、そうしたら今度はお父さんも戻ってくる」

「違う! お兄ちゃんは行方不明だっただけ! でも、お父さんは……」


 お父さんは、明確に死んだんだ。

 私も母も、父の遺体を見たし、お墓に納骨までした。

 いなくなったんじゃない。死んでしまったんだ。


「まあまあ。嶺さん。落ち着いて」


 割って入ってきたのは男だった。

 いきなりの介入に驚いていたが、落ち着きを取り戻したのか、先ほどまでのように教祖の代理人としての余裕ある口ぶりで言う。


「そうやって幸せを押し付けてはいけないと初めにお話ししましたよね?」

「ああ、そうでした。申し訳ありません。私はなんてお恥ずかしい」

「大丈夫です。こんなことで幸せはあなたを見捨てはしません。ですが、娘さんは少しお説教が必要なようですね」


 言って私を見る。

 近くで見ると、なんて卑しい男だろうか。身なりは高級品で整えているけれど、その顔は卑しさに満ち満ちている。

 不快。その一言に尽きる。


「あなた方のやっていることにこれ以上口は出しません。ただ、お母さんはもうやめさせてもらいます」

「志津香さんでしたよね? お母さんから話は聞いてますよ。お母さん思いで、とても優しい子だと。君は、幸せかな?」

「幸せです。母と二人で慎ましく暮らせて、それだけで幸せです」

「でもこのままだと君は働かなくちゃいけない。それでもいいのかな? 同世代の友達は大学に行ってキャンパスライフを謳歌(おうか)して、後から就職するくせに君よりも高い給与と地位で働くんだ。今は良くても、数年後、後悔しないと言い切れるか?」


 そんなことまで話しているのか。

 母を睨むが、母は完全に代理人の男の側に立っていて、私を諭すように見つめているだけだった。


「でもお父様が戻ってくれば、君は当たり前の子供のように大学に行って、より幸せな生活を送れるんだ。今よりももっともっと幸せになれる」

「そうよ? 志津香。きちんと祈って、幸せを集めれば、きっとお父さんも――」

「今更なのよ!!」


 追撃する母の言葉に我慢ならず、(さえぎ)るように叫んだ。

 溢れ出そうになる涙を堪え、男ではなく、もう一度母に向き合う。

 お母さん、聞いて。


「私だって、大学に行きたいわよ……! みんなと進学して、キャンパスライフ送って、オシャレな服着たり、彼氏を作ってデートしたりしたい!」

「だったら……」

「でも今更なのよ! 私は受験するつもりで勉強してないし、塾も通ってない、高校だって夜はバイトに行けるように授業の多い進学科じゃなくてあえて普通科を選んだ!」

「それは……でも、お母さん詳しくはわからないけど、今からでも間に合うでしょ? ね?」

「そんな簡単な話じゃない!!」


 スムーズに言葉が出てこない。

 今この苛立ちを的確に表現する言葉が出てこない。

 うまくは言えない。だけど、言いたいことは浮かんでくる。

 涙と共に。


「なんで、どうして今なのよ? だったらこうなっちゃう前に止めてほしかった!」

「志津香……」

「お兄ちゃんがいなくなった時、悲しさに任せて自暴自棄になるんじゃなくて、きちんと現実と向き合ってほしかった……お父さんとちゃんと話し合って、一緒に頑張ってほしかった! お母さんはお父さんが死んでからしっかりしなきゃって思ったのかもしれないけど、やってしまってから反省されても困るの! そんなことしたってお父さんはもう帰ってこない! 失ってしまってから反省したって意味がないの!!」


 母に投げつけた石は、いともたやすく母の身体を貫いた。

 でもこれが私がずっと思っていたこと。

 内側に置いて押し殺していたもの。

 それがまるで火山のように、嘔吐のように吐き出てくる。

 それは、すべてを吐き出すまで止まらない。


「こんなことするくらいなら、失敗する前にちゃんと自分の行動を見直してよ! また同じように失敗して、同じように反省して、同じように後悔しないでよ!」


 母の辛さはわかってる。

 悲しさは、人をいともたやすく(もろ)くする。

 だから、あの時の母の行動が、仕方がないとはわかってる。

 母がそのことを心から反省し、取り返したいと思っているのもわかってる。

 でもだからって。

 だからって、あの時の失敗をなかったことになんてできない。


「お母さん、お願い。一緒にがんばろ? 帰ってこないお父さんよりも、私はお母さんと一緒に生きていきたい。生活が苦しくたって、お母さんと一緒にいれば幸せなんだよ?」


 言い切った。最後は少し息が足りなかった。

 全部言って、激しい脱力感に襲われた。

 母は同じように目に涙を浮かべ、黙って私に近づいてくる。

 そして、へたり込む私をゆっくりと抱きしめた。


「ごめん……ごめんね。志津香。そうよね。私、またおかしくなってた……。志津香を守るって、お父さんに誓ったのに……私……」


 私を抱きしめる手に、力がこもる。

 母の身体が小刻みに震えている。何度も何度も、ごめんと言って泣いていた。


「すばらしい」


 代理人の男が、そうわざとらしく言って拍手をする。

 気づけば、他の信者の女性たちはその場にはおらず、代理人の男とその他黒いスーツを着た数人の男たちが私たちを囲んで見ていた。


「すみません(あら)さん。取り乱してしまって……また後日退会のお話をしに来ます」

「そうですか。残念です。嶺さんは非常にすばらしい方だったのに。世界中の人を幸せにできた……本当に、残念だ」


 荒と呼ばれた代理人は、傍にいた男から紙を受け取りそれを母に差し出した。


「荒さん……これは?」

「これまでの施設や商材の使用料と、退会費用です。入会費も無料でしたが、退会されるということで規約違反となりますので、退会時にお支払願います」

「え……」


 母の持った紙を覗き込む。

 そこには、3ケタ万円程の額が書かれていた。

 当然、私たちに払える金額ではない。


「なにこれ……こんなのありえない!」

「すべて入会時に渡した規約書に記載されています。私たちはそれに則っているだけですので」

「そんな……ちょっと、待ってくださいますか? こんな大金、すぐには払えなくて……」

「無理ですね。今月末にお支払頂けない場合、催促させていただくことになります」


 催促。その言葉に秘められた意味は、想像に難くない。

 母を見る。しかし母は青白い顔をしたまま動かない。


「やっぱりこういうことなのね」


 私は荒を睨んだ。

 こいつは敵だ、そう判断して。


「何の話かな。私はあくまでビジネスの話をしてるんだよ? 随分ないいがかりだ」

「最低! 貧しい人の心につけ入って、なけなしのお金を搾り取って楽しい? それがあなたの生きる意味なの?」

「可愛い子供と思っていたが、随分と口の悪い女だ」


 荒の言葉に、たしかな凄みが加わる。

 囲んでいた男たちが一歩こちらに迫ってきた。


「わかった。私もそんな悪魔のような扱いを受けるのは気分が良くない。いたいけな女の子に涙目で睨まれる趣味もないしね。だからお金に関しては一つ提案をしよう」

「提案……?」

「君が働いて返せばいい」

「……わかりました。バイトなのでたいした金額じゃありませんけど、少しずつ返していきます」

「それじゃあ何百年かかるか。私が知ってるバイトを紹介してあげよう。割のいい仕事だよ? 君なら数ヶ月で返せると思う」


 荒が卑しく笑った。

 これが彼の本性なのだろうとその時確信した。

 結局、ここまで折り込み済みだったのだろう。

 あの、借金取りの男と同じ。

 搾り取れるお金は全て搾り取る。


「すみませんすみませんすみません!」


 母が私の前に滑り出て、そう叫びながら土下座をした。

 頭を床にこすりつけて。


「お願いします! 荒さん! 私はここに残って身を粉にして働きますので、どうか娘だけは!」

「無理ですよ。契約上、退会は口頭でも成立する。こちらも承諾したのでもうあなたはうちの会員じゃない。再度入会していただいても構いませんが、初回入会費無料は適用されないので、改めて20万の入会費を払ってもらわなければいけないんです」

「そ、そんな……」

「どちらにせよ、今月中に退会費をお支払頂けなければ、弁護士を通して請求させていただくことになりますし……。どうしますか?」


 母は絶望に顔を固めた。

 右も左も、退路を断たれた。


「私が……私が働いて返しますから」

「すみません。春海さんではちょっと仕事は紹介できないですね。やはり若い子でないと需要が少ない」


 母が示す活路を、荒は待ってましたと言わんばかりに潰していく。

 まるでそれを楽しんでいるかのように。

 私たちの絶望に歪む顔を愉しんでいるかのように。


「……」


 絶望に歪む母の横顔を、私は知っている。

 かつては父も同じような顔をしていた。酒を飲み、苛立ち任せに暴れた後、この顔をしていた。

 そして、その数か月後、死んだ。

 この顔は、死相だ。

 追い込まれた人間が最後に見せる表情。

 母は、この男に殺される。

 でも、私に。

 私なんかにできることは――ない。

 それがなによりも悔しくて。

 こんなに腹立たしいのは初めてだ。

 悔しい! 悔しい悔しい悔しい!!

 どうして私は、こんなにも無力なんだ!


「では、このまま娘さんを店に紹介しましょう。とはいえその前に、商品として問題ないか私の方でチェックする義務がありましてね」

 

 荒が私に近寄ってくる。

 高級なスーツで包まれた卑しい腕が、伸びてくる。

 これは悪魔の腕だ。この腕に捕まれたら最後、私は地獄へと堕ちていく。

 でも、私にはどうすることも――。



 ズダン――私と荒の間に、何かが落ちてきた。



 この光景は以前見たことがある。

 そうだ。

 いちいち高いところから、劇的に現れるこの男は。


「君は……?」

「嶺創太。覚えとけ。お前たちに絶望を送る者の名だ」

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