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兄が異世界救って帰ってきたらしい  作者: 色川玉彩
第三章
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おろ

「ありがとうございましたー」


 午後7時半。バイト先の『二軒目』からお客様が帰られるのを、玄関先まで見送る。

 私がバイトを始めてから、何度か見るお客様だ。ご年配のご夫婦で、月に一回この店で食事をするのを楽しみにしていると言っていた。お子さんも手を離れて、夫婦水入らずの時間を楽しんでいるそうだ。

 素直にいいなと思った。

 私もいつかあんな夫婦になれる人ができるのだろうか。

 私の両親は残念な結末となってしまったが、しかし私に家庭を作ることに悲観的になっているわけではない。

 そう思いふけってすぐにはっとする。顔を手で叩いて体に喝を入れる。

 そんな妄想にふけっている暇はない。


「ノーゲストでーす」


 店内にはお客様が一人もいなくなった時、こう大きな声で言うことになっている。

 平日の夜はだいたいこんなものなので、私は出た洗い物を洗おうかとカウンターに入った。


「志津香ちゃん」

「はい?」


 店長に呼ばれて、手を動かしながら顔を向ける。店長は片方の口角をあげて少し後ろめたいことがあるような顔をしていた。わかりやすい。


「めっちゃごめんなんだけど」

「はあ」

「今日も8時上がりでお願いできる?」

「え、今日も8時ですか?」


 たしかにお店にお客様はいないけれど、8時上がりだとたいして稼ぐことができず困る。

 とはいえ、高校生である私を働かせてくれている恩がある以上、無茶は言えない。


「わかりました」

「ごめんね。最近ちょっと厳しくてさ。人件費もあまりかけられなくて」

「そうなんですか?」

「うん。大型の予約も全然でさー。最近の若い人はあまり飲み会とかしないみたいで……」

「私は大丈夫ですよ。わかりました」


 大丈夫ではないんだけど。

 でも、経営が厳しい以上仕方がない。


「それと、(まかな)いも今後は志津香ちゃんの分だけにしてもいいかな?」

「え……はあ」

「経費も少しずつケチってこうかと思って。ほんとごめん」

「いえ、むしろ今までありがとうございました。気にしないでください」


 とは言いながら、内心肩を落とす。

 夕食代が浮くというのは月数万円浮くということであり、とてもありがたかった。しかも店長の作るご飯はとても美味しかったので少しだけ残念だ。だけど贅沢は言えない。


「店長、お店は大丈夫ですよね?」

「ん? 心配させたかもだけど、まだまだ大丈夫。一旦全体的に見直して行こうって思ってるだけだから。また状況が良くなったら戻すね」


 それが本当かどうかはわからなかったけれど、ひとまずは店長のその言葉を額面通り受け取ることにする。

 私にとってもう一つの家のようなものなのだから、無くなったら悲しい。 

 勝手ながら、父の居ない私にとって店長はそう思えるくらいの恩人なのだ。


          ○


 一人分になった賄いは思った以上に軽かった。

 人ひとりのお腹に入る量というものを直に感じる。これだけの量を毎食で食べておかないと、人は生きていけないのだ。

 いつもならこのまま帰って母と一緒に賄いで夕食といくところだが、今日から母の分が無いためそれを準備しなければいけない。

 

 「そういえば最近は来ないわね」


 帰り道、できるだけ人の多い通りを選ぶようにしているのもあってか、私を待ち伏せる取り立ての姿が無くなった。あれだけの大怪我なのだから、当分は戻って来られないとは思うけど。

 でもあの狂人があれだけのことをされて黙っているとは思えない。

 それはそれで怖いのだけど、でも背に腹は代えられないというか。働いてお金を稼がなければ生きていけない。今更怖がって縮こまってられない。


「なんだか、嫌な慣れだなあ」


 女子高生らしくない自分に嫌気がさす。

 もっと言えば、女子高生らしく生きられないこの状況に。

 諦めはつけていたつもりだったけれど、たまにこうして後悔が湧いてくるのはどうしようもない。

 雑念を振り払い、夕食のメニューを考える。

 なんとなく凝ったものを作る気分じゃない。今日も兄が作ってくれているといいが、どうだろう。修行に出ると言っていたから今日はないのかも。

 ああいうルーティンから外れる行動するのは本当に困る。こちらの予定を立てにくいではないか。結局自分本位な精神は何も成長していない。


「んーパスタ」


 一番楽なものにする。

 家に賞味期限が切れかけの卵がいくつかあったし、カルボナーラにしよう。しかも味の濃い濃厚なのを。たまに食べたくなる。

 しかし家に粉チーズが無かったはず。あと生クリームも無かったな。これがなければ始まらない。

 8時にあがれると、駅前のスーパーが開いている。このスーパーで買い物をするのは久しぶりで少しワクワクする。なんというか、名実ともに主婦感が出てきてしまっているようだ。

 とりあえず半額になってそうなお惣菜を見に行ったが、やはりめぼしいものは売れてしまっているようで、私はそのままスルーして目的の乳製品のコーナーへと立ち寄った。


「わ、また高くなってる」


 乳製品の価格は不安定だ。以前はバターがほぼ店頭に置かれずマーガリンだけの時があって困ったものだった。

 しかしもう口がカルボナーラの口になっているため迷わず購入をする。既に人もまばらなレジを通り自分のカバンの中に詰めていると、正面のガラス越しに一台の黒塗りの車が止まったのが目に入った。


「おろ」


 その運転席に座る40代ほどの壮年な男性、そして助手席に座る人物に目が留まる。


「おろ、おろおろおろ?」


 馬鹿みたいな声が漏れる。

 その助手席に座っていた女性は、運転席の男性に満面の笑みをこぼしつつ車から出た。そしてその女性を見送り、黒塗りの車は走り去っていた。

 女性は車が角を曲がって見えなくなるまで見送った後、私のすぐ横の自動ドアを使ってスーパーの中に入ってきた。


「お母さん?」

「あら」


 その女性――母は豆鉄砲を食らったかのような顔をして私を見た。


「志津香、バイトは?」

「早上がりになっちゃって」

「あら、また?」

「うん。それで夕食でも作ろうかなって」

「良かった。私もそう思ってたのよ。創太の分も必要だし。被らなくてよかったわ」


 母はそう言って笑った。

 いつも通りの母だ。

 その小奇麗な身なりを除けばだけど。


「えーっと」


 なんと質問していいかわからず、さきほどまで車が止まっていた外を見遣ってから、再度母を見る。


「ん?」


 母はまるで何が言いたいかわからないと言いたげな顔をした。

 この人、とぼける気だ。


「えーっと。今日はどこ行ってたの?」

「ん? 仕事よ?」

「その格好で?」

「変かしら?」

「変じゃないけど……ちょっと普段着って感じじゃないから」

「お母さんもまだまだ若いからね。オシャレしてみることにしたの」

「それはそれは……」


 絶対に今の男性については話さないつもりのようだ。

 母から嗅ぎ慣れない良い匂いがしてくる。肌も心なしか艶やかだし、スカートも気のせいか短く見える。


「仕事にしては、ちょっと遅くない?」

「あ、ちょっと最近残業が多くて」


「あ」って。今、「あ」って言ったよこの人。

 この仕事は残業が無いのがいいと選んでいたはずではなかったか。

 ツッコむべきか。母の意志を汲んで傍観するべきか。娘としての器量を試される時が来たようだ。


「そうなんだ。じゃあさっきの車の人は? 職場の人?」

「え、あー」


 と、母は考えるように口を開けて少し固まった。


「最近診療所にお手伝いに来てくださってる先生でね。家が近いから近くまで送ってくれてるの」

「確かに、いい車乗ってた」

「そんなことより、お兄ちゃんは?」


 あ、無理矢理話を変えた。

 これ以上は踏み込むなということだろう。


「なんで私が知ってるの。知らないわよ」

「そう。お昼に家に電話したらいなかったから」

「修行に出るって言ってたわよ。夜まで帰らないって」

「修行?」

「私に訊かないで」

「まあなんにしても、元気なことは良いことよね。あの子が戻って来てくれただけで幸せだわ」


 母はそう言ってにこにこ笑い、私が持つビニル袋を持ってくれた。

 マニキュアまでしていることに今気が付いた。


「お父さんが知ったら、びっくりして生き返っちゃうかもしれないわね」


 母が何気なく放ったそのセリフに、私は何も返すことはできなかった。

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