いつもの朝
「おはよ〜」
かすれた声でそう言いながら、階段を降りていく。
するとダイニングキッチンには母は既におらず、兄は玄関で靴を履いていた。
「ああ、志津香おはよ」
「お母さんは?」
「ちょっと前に出ていったけど」
「そう……」
「母さんの仕事ってなんだっけ?」
「診療所の受付事務。なんだけど……」
「だけど?」
「いつも私が家を出たあとに出るはずなのに……。最近ちょっと早い」
「そうなのか」
いつもは私の朝食を用意してくれていて、私が家を出るのを見送ってくれていた。
たしかあの診療所は9時からだから、今出るには早すぎるんだけど。
「ていうか、鼻大丈夫なの?」
話を変えて、兄に尋ねる。
「おう。もう治った」
「治るか」
しかし振り返った兄の鼻はたしかに元通りで。折れているようには見えなかった。
「化粧でもしたの?」
「まさか。あんな女男と一緒にしないでくれ」
女男……ああ、この間の芽木という中性的な男子のことか。
今どきお化粧する男子がいることはネットで知っていたけれど、本当にあそこまでモデルのように飾っている人を見るのは初めてだった。まるで写真加工のまま現実に飛び出てきたみたいに。
「あっちにいた時から怪我は日常茶飯事だったからな。自然治癒能力を高める修行をしたんだよ。おかげで小さな怪我だったら、少し休めば治る」
「……マジなのかネタなのか」
「もちろんマギアを使えればより効果的なんだけど。治癒力を高めるために、香を炊いたりして代用した。もう少し調整が必要かな」
「次は家の中でもまともに会話できるように練習してよね」
朝から勘弁してほしい。
慣れてしまっている自分も自分なんだけど。
私は冷蔵庫からお茶を取り出した。
「それで、あなたはどこに行くの?」
ジャージ姿で今にも外に出んとしている兄に尋ねた。
「ん。修行」
「……修行?」
「ああ。この間のシューエンとかいう奴とやりやって、久しぶりに血がたぎった」
「たぎった……」
「同時に、俺の体がどれだけなまってるか思い知らされたよ」
兄は自身の手をグーパーさせる。
大丈夫よ。元気に動いてる。
「環境の違いってのは俺が思ってる以上に高い壁らしい。こりゃ、のらりくらりと生きてたらあった言う間にこの環境に甘んじてしまう」
「そりゃ、あなたのような口だけニートが生きていけるんだから、甘い世界よ」
「いざという時に、守りたい人を守れない……その辛さはもう二度と味わいたくないんだ」
「遠い目をして回想に浸ってるところ悪いんだけど、いいからさっさと行けば?」
「ああ、そうだった。じゃあ夜まで帰らないと思うから」
兄はそう爽やかに言って玄関を飛び出ていった。
「もうずっと帰らなくてもいいと思うんだよ」
私は一人ごちてお茶を飲み干した。
○
「おはよう」
「あ、お志津〜!」
教室に入ると、愛ちゃんが猫なで声で言いながら抱きついてきた。
激しく跳ねるから、パンツ見えちゃうぞ。
周囲の男子の視線が一瞬愛ちゃんの腰回りに向いたのを見過ごさない。しかも全員が揃えたかのように即座に視線を戻して普通に振る舞うんだから、男子ってのは訓練されていると思う。
「お兄さん大丈夫だった? 悪夢とかでうなされてない?」
「悪夢は私が見てるわよ。兄というね」
心配してくれている愛ちゃんを他所に、北田くんを探してしまう。
好きとかそういうんじゃなくて、先日の遊園地での騒動の一員なのだから。北田くんはいつもの男子メンバーと喋っていて、一瞬私を見たと思ったら、目があった瞬間逃げるように視線をそらした。
「北田がごめんね」
「え?」
「ほら、あの芽木ってオカマ、あいつのバイト先の先輩らしいんだ」
「あーそうだったんだ」
遊園地の帰り、北田くんはひたすら場を和まそうと喋り続けていたが、芽木との関係は終始語らなかった。
そうか。バイト先の知り合いか。
「あいつ、お志津が襲われそうだってのに、先輩が怖くて動けないとかありえない。めちゃくちゃ怒っといたから」
「たしかに情けなかったかも」
「それ直接言ってやってよ」
「ん〜、でもほら、男の子には男の子なりの立場ってものもあるんでじゃないかな」
「お志津心広すぎ大好き」
心は広くない。
私も怖くて一歩も動けなかったのだから、北田くんだって怖かったに違いない。
男女関係なく怖いものは怖いと思う。
「その点、お兄さんはイケメンだよね〜! 可愛い妹のために、暴漢に立ち向かうんだもん!」
「ぼっこぼこにやられたけどね」
「それは……でも勇気がすごいじゃない?」
「勇気というか、無謀というか」
少しは体術に覚えがあるのだろうけれど、格闘技を本格的にやっている人間には適うものではない。
兄もこれで自分が英雄であるかのような妄想から目を覚ましてくれるといいんだけれど。
「そういえば北田くんって、なんのバイトしてるんだっけ?」
「ん? いろいろだけど」
「あの芽木って人がやってそうなバイトって想像つかないよ。もしかして、ホストとか?」
私がそう言うと、愛ちゃんが一瞬固まったあと、腹を抱えて笑い始めた。
「ないない! あいつが、ホスト? あははははっ! ありえない!」
そう言われて北田くんのホスト姿を想像する。
顔は悪くないけれど、たしかにホストという風貌ではない。
想像したら、私まで笑けてきた。
「でもおばさんには受けがいいかもよ?」
「お志津やめて、まじツボ!」
そんなことで二人で笑い続けてこの日はあっとう間に過ぎていった。
北田くんには申し訳ないと思ったけれど、でもあの時私を助けてくれなかった分くらいは笑うことを許してほしい。




