涙の再会
「ただいま」
おもむろに扉を開く。
古びたアパートの古びた扉は、もう限界であると訴えかけるかのように悲鳴をあげる。
「おかえり、志津香」
「お母さん」
「? どうしたの?」
玄関の前で立ちっぱなしの私に、母が不審がる。
「また、取り立てが来たの?」
「それも、あったんだけど……」
「絶対そっちには行かないって約束してもらったのに……! ごめんね、志津香」
憤る母。しかしそのまま相手方に抗議、とはいかない。
それは私と同じ。
「いや、それはもういいんだけど……」
「だったら何? 寒いから早く扉を閉めて」
「ん~なんて言えばいいかわからないんだけど」
「誰か、いるの? もしかして……彼氏?」
母が、私の背後で動いた人影に敏感に反応する。
「ちっ、違うわ! そんなんじゃなくて……」
そう口ごもると、母は何かに気付いたかのように台所から包丁を抜き出した。
そしてまるで我が子を守る雌ライオンのような目つきになり、こちらへ歩み寄ってくる。
「お、お母さん?」
言い切るか否か、母は私の身体を引っ張り入れて、外で待機していた人間に包丁を突きつけた。
サビかけた刃が鈍く光る。
「娘に近づかないで! 家まで押しかけてきてどういうつもりなの!? お金なら月末にきちんと払って、る……」
おそらく、借金取りが私を脅して家まで着いてきたと思ったのだろう。あれはそういう男だ。
だから母は私を守るために、強気でそう啖呵を切ったのだ。
しかし母は包丁を向けた先の人物を見て、言葉を止める。勢いを失う。
それは、まあ借金取りではないけれど、でも不審な人間であることにかわりはなかった。
まるで布を巻いただけのような小汚い衣服を纏い、肩からは捨て損ねたシーツのようなマントをはためかせている。そしてその腰には、一本の身の丈ほどもありそうな剣。
7年も経っているのだから、一瞬、私も誰かわからなかった。
「ただいま、母さん」
その声を聞くまでは。
「……創太……?」
その時すでに、母の声に涙が混じっていた。
「創太ァ……!」
そして母は、崩れるように兄へと身体を預けた。
一回り身体の大きくなった兄はそれを軽く受け止める。
「本当にごめん」
兄は小さな声でそうささやいた。
〇
「お腹、空いてない?」
一通り泣きじゃくった後、母は普段の疲れ切った表情ではない若さを取り戻したかのように明るい表情になった。
兄を家に招き入れ、油っぽさの抜けないダイニングキッチンへと通した。
「大丈夫。1週間くらいは食べなくても平気な身体になったんだ」
なんだそれは。
「そうなの? 断食ってやつかしら?」母が問う。
「断食じゃないよ。必死に生きてたらそうなっただけ。あっちで満足に食糧も得られない環境下に身を置いていたから……。それに食事を取りすぎると眠くなるから、極力抑えるようにしてたんだ」
なにを言っているのだろう。
私と母は頭にはてなを浮かべ、お互いに顔を見合った。しかし母も兄の言っていることが理解はできていないようだ。
「創太、貴方はどこにいたの?」
当然、その質問になる。
「んーっと、そうだな……なんて説明したら理解してもらえるかわからないんだけど……」
なにその上から目線。海外留学に行って帰ってきた人みたい。
鼻につく。
「こことは違う世界で、別の文明を築いているところがあって……」
なんだそれは。異世界とでも言うつもりか。
「光術っていうフォトンエネルギーを使った魔法のようなものが当たり前に使われていて、基本的には中性ヨーロッパ的な世界なんだけど、マギアが発達していてこっちでいう車とかもあったりして……」
いやいや、異世界かよ。
「まあぶっちゃけ言うと、異世界に行ってたんだ」
異世界かよ!
と内心でツッコミを入れた。
なんてすまし顔で言うんだろう。
「馬鹿馬鹿しい。7年経ってまともになったかと思ったら、厨二病に磨きがかかってるじゃない。ふざけないでよ」
兄の妄言についていけなくなり、私はそう吐き捨てて部屋へと戻る。
「志津香、夕食は?」
「まかない貰ってきた。お母さんの分は台所に置いてある」
「でも、創太も戻ってきたんだし、一緒にご飯にしましょ? あ、せっかくだから外に食べにいかない? ね、創太?」
「俺はいいけど」
「そんなお金どこにあるの?」
自分でも熱くなっているのがわかる。でも抑えられない感情が漏れ出て、冷たく言い放ってしまう。
そのまま急な角度の階段を上がり、二階の自室へと向かう。
このアパートは母と二人になって移り住んだ。駅からも遠く築40年という悪条件が相まって、3DKで5万円ととても安い。両隣は中国人が住んでいて、いつも喧嘩のような怒声が響いてくる。それが彼らの日常的な会話音だと気づいたのは入居してから1年ほど経ってからだ。
先日はやかましかった右隣の陳さんが引っ越したと思ったら、2週間後に陳さんが戻ってきた。察するに別の陳さんだろうと思う。比較的声が小さく安心したが、目覚ましの音がうるさくしかも朝が早くて困っている。しかもなかなか起きないから性質が悪い。
とはいえそれが私の今の現状だ。
こんな場所にしか住めない。
別にそれを苦だと思ったことはない。現状を恨んだことはない。
受け入れて、進んでいる。
自室に入り、さっさと服を脱ぐ。バイト終わりのままの恰好だから、油っぽさが気持ち悪い。お風呂に入ろう。
すると、階下から話し声が響いてきた。普段は母が一人なので気づかなかった。
そりゃそうか。両隣の家の話声が聞こえる程壁が薄いのだから、階下の話声が聞こえてくるのは必然だ。
「志津香、元気ないのか?」
「急にあんたが帰ってきて、困惑してるのよ。バイトで疲れてるみたいだし」
「バイト……してるんだ?」
「もう高校生よ?」
「そっかそんな歳か。昔は大人しくて、俺の後ろについてくる感じだったのに」
「しっかりしないと、生きていけなかったから。今も学校行きながら、ほとんど毎日バイトしてるのよ。近くの居酒屋さんで」
「えっと、その……」
「あ、ごめんね。帰ってきて早々嫌な話はしたくないんだけど……今うちは借金を抱えてて……志津香も返済を手伝ってくれてるの」
「そうなんだ」
「えっと、でもね――」
いつもなら雑音にしかならない音が、明瞭に耳に入ってくる。
私はスカートを脱いだ状態でストッキングも脱がずにベッドに倒れ込む。枕を頭に被せて周囲の音を断絶した。
「なによ……今更……」