ンゴンゴ
「ンゴンゴ」
地元で有名なプリン専門店『プリンの星』で、限定のプププリンを食べていると、愛ちゃんが鳴いた。
「なにそれ?」
「意味はないかな。最近流行ってるから言ってみただけ」
「んごんご……ゴリラみたい」
「まあひどく動物的なのは違いないかな」
良く分からないことを言う。
まあ愛ちゃんはこういう子なので、特に気にはしない。
プリンを食べ終わり店を出ると、すでに夕暮れ時だった。赤い真ん丸に向かって歩き出す。
「美味しかったね~」
「うん」
嘘だ。実は私は細かい味の違いはわからない、味音痴なのだ。だからスーパーで売っているプリンと、食感以外の違いはよくわからない。味音痴というより、貧乏舌?
「ま、正直、評判良いから美味しいって思いこんじゃうよね」
「あはは」
私の本音を知ってか知らずか、愛ちゃんが言った。
「ん」
「どうしたの?」
「あれ」
急に立ち止まった愛ちゃんの視線を追う。
長い道の先で、黒い人影が動いたのが見えた。その黒い影は、柵を越えて林の中へと入っていく。
黒い、人影。
「最悪」
「お兄さん? 林の中に入ってったね」
「はあ……」
ため息しか出ない。
変な恰好でうろうろするなと念押ししたのに。
「追っかけよ」
「え、ちょっと!」
制止する暇もなく、愛ちゃんが駆けて行く。彼女は野次馬根性マックスなのだ。
兄が飛び越えて行った柵を、必死に跨いごうとする愛ちゃん。
パンツ見えるよ。
仕方がなく私も追いかける。歩道と森林を隔てる柵は、隙間が空いているところを通った。
少し入ると、すぐに愛ちゃんがいて、キョロキョロと周囲を見渡しているようだった。
「愛ちゃん」
「どこ行ったんだろ? 見失っちゃった」
「もういいでしょ? すぐ暗くなるし、危ないわよ……」
「ん~でもなあ。こそこそ何しているのか知りたいくない?」
「知りたいくない」
どうせしょうもないごっこ遊びに決まってる。自分で設定した空想ごっこで走り回ってるんだ。小学生の頃の兄は長い木の棒を持って同じことをしていた。
幼い私は喜んで着いて行っていたけれど。
「愛ちゃん帰ろ――」
「きゃっ!」
「えっ!」
近寄った瞬間、愛ちゃんが足を踏み外して身体を傾けた。反射的に私のスカートを掴み、私も引っ張られて坂を転がっていく。
体感では数十秒くらい転げていた気がするけど、坂を転げ終えて顔を上げると、そこまで低く落ちたわけではなさそうだ。
「いった~」
「愛ちゃん、大丈夫?」
「うんごめん。お志津こそ、怪我してない?」
「うん。落ち葉がたくさんあって、柔らかかったから」
と、愛ちゃんが右腕を抑えているのに気が付いた。
どうやら痛めたらしい。
周囲を見渡すが、この斜面を登る以外に道は無さそうだ。
「遠回りしてたら、陽が暮れちゃう」
「大丈夫。登れる」
愛ちゃんは右腕を抑えながら無理矢理笑顔を作って立ち上がった。そして斜面を登り始めたけど、急な斜面で足だけで登るのには限界がある。でも、右腕を痛めていて巧く手を使って登れなかった。
「後ろから押すね」
「お志津にお尻触られてる……!」
「もうっ、こんな時に……」
冗談が言えるなら大丈夫そうだ。
しかし軽く言ったものの、思いのほか重い。愛ちゃんが、というよりは人ひとりはなかなかに重い。
「きゃっ!」
愛ちゃんの身体を支えきれずに、また短い距離を二人で転がった。
「ん~キツイね」
「私が先に登って引っ張る?」
「ロープとかなくない?」
「じゃあ人を呼んでくる」
「えーそれはちょっと……」
「どうして?」
「なんかハズいじゃん?」
「言ってる場合?」
まあ女の子としては、あまり見せたい姿ではない。
「でもそんなこと言ってる場合じゃないかも。もう陽が沈むし、ここ猪とか出るって言うし早く上にあがらなきゃ」
「あ、お志津それフラグだよ」
「フラグ?」
「そ。そういう話してると出るんだよ」
「まさか……」
と、愛ちゃんの目が見開かれた。
彼女は明らかに驚いた表情で、私の後ろを見つめている。
「もう。そういうのいいから」
振り返る。
「うそっ」
そこにいたのは――猪。
なのだろうけれど。
しかし。
「でか……」
テレビで見たそれとは、一回り近く大きい。
私の腰辺りまでの高さがある。そしてその鼻の両脇からは鋭い牙。
愛ちゃんが、私の身体を引っ張った。そして自分が猪の前に立つ。
「愛ちゃ……」
愛ちゃんがこちらを振り返った。その目に、言葉を止める。
愛ちゃんは普段のふざけた様子をみじんも見せず、冷や汗を垂らしながら目配せをしてきた。
斜面を登って逃げろ、と。
それはもちろん、一人で。
理解した時には、私の首は横に振られていた。そんなこと、できるわけがない。
「お願い」
愛ちゃんが、静かに言う。
馬鹿。そんなの、ありえない。
だがそんなやり取りを、目の前の巨大なケダモノが待ってくれるわけがない。
猪は、興奮したように鼻を鳴らして、助走に入った。
「愛ちゃん!」
私は愛ちゃんにしがみつき、反転して自分の背を猪に向けた。しかし愛ちゃんも抵抗して、身体を猪の側に向けようとする。結局お互いに抱きしめあって、半身を猪に向ける状態となった。
この間、1秒くらい。
一瞬愛ちゃんと目が合い、互いに覚悟を決めぎゅっと目を閉じる。
ザッ――と、地面の落ち葉を踏み締める大きな音がした。
目を開けると、黒い衣装の人物が、猪に向かう形で上から落ちてきて着地していた。そしてその人物は――兄は、向かい来る猪に自ら進んでいき、衝突の直前で上へと跳びあがった。そして空中で手に持っていた巨大な剣で、猪の脳天を切り結んだ。
見えなかった。一瞬、クロスに光が走っただけのような、その程度。実際、それを見てから剣を振るったのだと類推したくらいだ。
すると猪は一瞬で力を失くしたかのように、地面に倒れ込んだ。
そのあまりの重さに、地面が少し揺れた。
「大丈夫か?」
着地した兄が、こともなげに言う。
しかし私たちが状況を掴めず茫然としていると、兄はものすごい剣幕でこちらに歩み寄ってきた。そして私に手を伸ばした。
親に怒られた時の記憶がフラッシュバックし、身体がびくりと縮こまる。
――と、兄は私たちを通り過ぎてその奥へと進んだ。
そこには、小さな猪が、怯えた瞳でおろおろとしていた。
「それって……」
「ウリ坊だな。この斜面の穴をねぐらにしてたんだろう」
言って兄は、ちょいちょいと子猪を指先で誘う。子猪は怯えながらも兄の手にその頭を寄せた。
「よしよし。悪かったな」
「ねえ、もしかしてその子って」
私が尋ねると、兄は何も言わず黙りこくった。
つまり、私の考えが当たっているということだ。
「やっぱり、今殺した猪の、子供?」
「え」
と、愛ちゃんが悲痛な表情を見せる。
「獣っていうのは、基本的に人間を怖がってる。むやみやたらと人間を襲うことはないし、それは人間が勝手に作りだしたイメージでしかない。そうすることで、無邪気な子供が不要に獣に近寄るのを防いでいたのもあっただろうけどね」
兄に撫でられる子猪は、気持ちよさそうに頭をしゃがむ兄の膝にこすり付けていた。
「もちろん人間より上位に立つ生き物なら、人間を捕食するために襲ってくることはあるかもしれないけど……基本的にこっちの世界ではそんな存在はいない。獣が人間を襲う大半の理由は、自分の身の危険か、自分の子供を守るためか」
兄はみなまで言わなかったが、私も愛ちゃんもそれをすでに理解していた。
そう。偶然、私たちの近くに猪の住処があり、そこに子猪がいて、親猪が子供を守るために私たちに襲い掛かったのだ。
私も愛ちゃんも、それを申し訳なく思ってしまう。だから何も言えず、下を向くしかなかった。
兄はゆっくりと立ち上がり、こちらを振り向いた。
「ま、こういうもんだよ。気にするな。世界は弱肉強食なんだ」
口調には軽快さがあるが、子猪を見下ろすその目はどこか冷めている。
「こんな光景は、何度も見てきた……」
「こんなところで、何をしてたの?」
既に暗くなり始めた兄の背中に、問いかける。
元々は、あなたがここに来ていたからこうなってしまったんだ。もちろんそれは口には出さないけれど。
「ん、あーそうそう。ちょっと食材を調達しに」
兄は腰に巻きつけた小さな袋を掲げて見せた。その絞った口から、草花のようなものが飛び出ている。
「食材?」
「そう。今日の晩御飯の」
「調達ってなによ? スーパーで買い物じゃなくて?」
「だってスーパーとかだとお金がかかるだろ? ここならタダだし。誰にも迷惑をかけてない。完璧だろ?」
「タダじゃないわよ!」
「え?」
「日本の土地は全部誰かの所有地なの! この森に生えてるものは、この森の所有者のもの! あなたがやってるのはタダの窃盗!!」
「え、そうなのか!?」
本当に知らなかったのだろう。兄はぎょっとして慌てだした。
「そっかー。またやっちゃったなー」
「また」ってなによ。その「また」が向こうの世界とやらの何かなのだろうけれど、そんなことを掘り下げるつもりもない。
「顔を出せば迷惑をかけて……もううんざり。愛ちゃん、行こ」
放心状態の愛ちゃんの手を掴み、斜面に足をかける。
しかし勢いで進んだものの、斜面を2人で登れないという問題が解決していないことを思いだした。
「っと」
すると、兄が愛ちゃんの身体を肩にかけるように持ち上げた。
「え、わわわっ」
急に地面から浮きあがり、愛ちゃんは足をばたつかせる。
兄はそのまま軽々と斜面を登って行き、上で愛ちゃんを降ろした。追いかける。
「あの、ありがとう、ございます」
「こちらこそ、迷惑かけてごめんね。志津香のことも、よろしく」
「あ、はい……」
「行こ、愛ちゃん」
社交辞令のやり取りなんて、待っている時間も勿体ない。
私が冷たく言って林を出ていくと、愛ちゃんも慌ててついてきた。
勝手に追いかけて、勝手に転んで、その上で助けてもらったのに、どうしてこんなにも腹立たしいのか。自分でもわからないし、自分でも情けないと思う。
きっと私は、この7年間で兄との接し方を忘れてしまったのだ。