魔法陣
放ってはおけない。
そう思いグラウンドへ駆けると、グラウンドには想像通り兄がいた。
「なに、してるのよ?」
「ん……あ」
何を思ったのか、兄はそう気まずそうに口を開ける。
「なにその格好!」
黒い上下に、黒いマント。
「いや、向こうと同じ格好じゃないと落ち着かなくて」
「全身黒づくめにマントとかどこの厨二病よ恥ずかしい!」
「悪い。志津香の学校だと思わなくてさ」
「いいから早く隠れて!」
「お、おうっ?」
腕を引っ張り、校舎の死角に隠れる。
倉庫の横であれば、校舎の衆目からは逃れられる。
「そんなに引っ張らなくたって」
「恥ずかしいの!」
「だったら出てこなきゃよかっただろ」
「そう、だけど!」
確かにそうだけど。無視するべきだったのかも。
でも今更もう遅い。
「なにしていたの?」
「いや、微妙にフォトンを感じてさ……気のせいだったかもだけど」
兄は校舎を見渡しながら言った。
「あーはいはいフォトンフォトン。それで、あの馬鹿みたいな絵はなに?」
「いわゆる魔法陣ってやつさ」
「見たらわかる」
「大気中にフォトンがあれば、向こうの世界みたいに言霊詠唱でマギアが使えるんだけど、あ、俺みたいに詠唱不要の場合もあるんだけど」
「隙あらば自慢しないで」
「とにかく、言霊詠唱ができない場合、魔法陣でのマギア発動も可能なんだ。本来は考え方が逆で、元来魔法陣で使っていたマギアを、より簡略化して利便性を求めたのが言霊詠唱で、さらにそれを高めたのが無詠唱――俺はサイレンスアウトって名づけてる」
「だっさ。それで、そのマギアとやらは使えたの?」
「いや、ダメだった。やっぱりフォトンのある環境下じゃないとマギアは発動しないらしい」
「はいはい。残念でしたね。もういい? だったら早く帰って仕事でも見つけてきて」
「だから悪かったって。本当に志津香が通ってる学校だなんて思わなかったんだ」
「そういう問題じゃないの! そもそも外で変な恰好して変なことしないで!」
「家にいたら息が詰まるんだよな……」
「はあ!? はあっ!?」
ついヤンキーみたいに切れてしまった。
「どの口が言うのよ。ずっと引きこもってた癖に」
「それは悪かったと思ってるけど……」
「けど? ……なによ?」
兄の言葉が止まる。少し難しい顔をして、目を右へ左へ遣る。
「なに?」
「し」
人さし指を自分の口元に当て、もう片方の手で私の口を覆う。
今気づいたがまさかの革製の穴あき手袋だ。
「んんんっ!」
不快のあまりその手を振りほどこうとするが、まるで岩の彫刻のようにその手は動かない。
兄はすぐ傍にあったグラウンド整備用の通称トンボを手に取り、あろうことかそれを上に投げた。片手で軽々と投げたそれは、急な放物線を描いて倉庫の向こう側へと消えていく。
「きゃあ!」
「うわっ!」
トンボの地面に当たる音と同時に、男女の悲鳴があがった。
そして倉庫の死角から転げるように現れたのは、愛ちゃんと北田くんだった。
「愛ちゃん!? 北田くん!?」
「お、お志津……」
二人は気まずそうに顔を見合わせ、立ち上がる。
「ごめんね。顔出すか迷ったんだけど……」
「穂田の奴が、盗み聞きしようって」
「人聞きが悪いわね」
「本当だろ?」
言い合いする二人。本当に典型的な幼なじみだ。
「えっと、志津香の友達?」
「そう。穂田愛ちゃんと、北田光太くん」
「そうなんだ。ごめんな、つい習性で」
「習性で死角から物を投げるやついないでしょ」
「命狙われることも多かったから、隠れてる人間の気配には敏感なんだ」
「ちょっと!」
友達の前で、妄想話は止してよ!
そう咎めるつもりで兄を睨む。
愛ちゃんがなにやら私を見ていて、その大きな目で何かを訴えてくる。何かと思い彼女の目配せを追って彼女の手元を見る。
エンガチョしてた。
気持ちは分からなくないけど。
「命……?」
しかし事情をわかっていない北田くんが、不穏な言葉に反応を見せる。
「あ、あのね、北田くん」
「嶺のお兄さんって、たしか行方不明になってたよな?」
「そう、なんだけど……最近帰ってきたの」
「えっ!?」
北田くんは確認するように兄を見る。
兄は困ったように頭の後ろを掻いた。
「ニュースで昔やってたけど……」
やめて。それは忘れて。
「ってことは、生きてたんですね?」
「まあ、なんとか……何度か死にかけたけど」
「いちいちそういうのいらないから」
小さい声で兄を制す。
ことあるごとに異世界での話を盛り込もうとするあたり、痛々しい。
「どこに行ってたんですか?」
「ちょっと北田」
「あ……すみません。無神経でしたね」
「いいよ。全然。俺は――」
と、何のためらいもなく話そうとしだした兄に、私は反応が遅れたことを後悔した。
言い出す前に、止めるべきだった。
「少し海外に行ってたんだ。1人で旅してみたくなっちゃって」
しかし兄の口から出た説明は、異世界だのなんだのといった妄想ではなく、至極全うなものだった。
「中学生でですか!? すごいですね! 子供1人で止められなかったんですか?」
「ん、ああ……そうだね。少し特殊な方法で移動してたから、一般的な空港とかは使ってないんだ」
「へ~まじですか! それって、政府がらみとか?」
「それは言えないね」
さも本当のように、兄は微笑をたたえる。
対外的には巧く誤魔化す方法を考えていたようで、ほっとする。
「じゃああの魔法陣はなんですか? もしかして、政府との暗号のやり取りとか?」
「おっと、それ以上は言わない方がいいよ。世の中には知らない方がいいことがある」
と、ウィンクしながら人差し指を自分の口元に当てた。
ゲロゲロ。
キモッ。
同じ感覚を覚えたのか、案の定、愛ちゃんのエンガチョがこれ以上ないくらいに震えている。
しかし一方で、陰謀論が大好きな北田くんは兄の話を鵜呑みにしているようで、目を輝かせていた。
「お兄さん、また今度会って話しませんか? ここじゃマズイでしょうから、どこかでしっぽり」
「俺が話せることは何もないよ」
「わかってますって、今も監視されてるんですよね?」
北田くんと兄は意気投合したようだ。コソコソと旧友のように話す。
しかし兄にとっては予想外だったのか、少し困っている様子にも見える。
「君、何してるの?」
そこに、少し大きな声。
見ると、数人の先生方がこちらに歩み寄って来ていた。
マズイ。
「ちょっと!」
「わかってる」
兄は特に焦った様子もなく、踵を返す。そして近くのフェンスに向かって駆けだした。
「君、待ちなさい!」
体育教師がそう言って追いかける。
しかし兄はみるみる内に小さくなっていき、なんと数メートルはあるフェンスをひとっ跳びで超えていった。
まるで猿のような身軽さに、誰もが唖然と見つめる。
「嘘……」
「お兄さんぱねえ……」
愛ちゃんと北田くんは、化け物でも見たかのように唖然としていた。
教師陣は、慌てて逃げた不審者を追い始める。あれだけ身軽なら、捕まることはないだろう。
「カメラ、準備して。警察呼ぶから」
教頭がそう言って、背筋に寒気が走る。
マズイ。そうだった。校舎内にはいくつも防犯カメラがある。
「いえ、それが……」
教頭に指示された美術教諭が、言葉を濁した。
「確認してたんですが、実はカメラのどこにも映ってなくて……」
「そんな馬鹿な! どこかには写ってるだろ!?」
「いえ、本当に映ってないんです……死角ばかり通ったみたいで……唯一グラウンドを遠くから撮ったものもあるんですが、あまりにも小さくて人物像が判然としなくてですね。顔もずっと後ろ向きだったので……」
「くそっ、高い金をかけたのに」
教員の会話を横耳に、ほっと肩をなでおろす。
狙ったのか狙っていないのか。まあ狙って全部のカメラを避けられるはずがない。学校側の防犯システムに穴があったようだ。ラッキー。
しかし。
「お兄さん、まじすげえ……」
北田くんだけは、一人瞳を輝かせていた。