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兄が異世界救って帰ってきたらしい  作者: 色川玉彩
プロローグ
1/85

お兄ちゃん

 兄が消えたのは7年前の冬だった。


 私が10歳になったばかりの頃、中学に上がったばかりの兄は学校に馴染めず次第に家に引きこもるようになった。

 部屋から聞こえてくるのはカチャカチャとゲーム機を操作する音と、たまに苛立ち任せに叫ぶ声。

 それから我が家の様相が一変した。

 優しかった父までイライラするようになり、声を荒げだした。

 母はただ声を殺して泣いた。

 何がどうしてそんなことになるのか私にはわからなかった。

 なぜ兄は部屋を出ることもできないのか。

 なぜ父は兄を部屋から引き出すこともできないのか。

 なぜ母はただ泣いていることしかできないのか。

 純真無垢で無知な私には、すべてが謎だった。


 食事をする時に、気を張り詰める生活は嫌だった。


 そう気づいた時に、私にも変化が訪れたのだと思う。

 なんとなく、本当に僅かに、気のせいかと思うほど小さくではあるが、兄への苛立ちが込み上げた。

 私は部屋の前に行き、扉をリズムよくノックした。

 小さなころの兄は、そうすれば歌いながら部屋から出て来てくれて、一緒に遊んでくれた。私がミュージカル映画が大好きだったから、その真似をしてくれた。

 でも、中から歌声が聞こえることはなかった。

 おそるおそる扉に手を掛ける。

 開かない。中からがっちり締められている。

 そこで私は妙に腹立たしくなり、扉を思い切り蹴りつけた。

 今度は肩から全身で扉にぶつかった。

 何度も、何度も。こんな扉、無くなってしまえばいいんだと。

 それが解決になるのだと、そう熱くなった馬鹿な頭で確信して、ぶつかり続けた。

 自分の身体も慮らず、苛立ち任せに。

 ガタン、と扉がドミノ倒しのように開かれた。探偵アニメのように綺麗には開いてくれないらしい。

 一瞬、父に怒られると恐怖が走った。

 が、私は部屋の様相に意識を奪われ、唖然として思考を止めた。



 兄が、いなくなっていた。



 それからはあっという間だった。

 兄が行方不明になり、父と母は混乱の極みとなった。

 父は兄を追い込んだのかと自分を責め、母はこれまで押し殺していた気持ちを爆発させるように父を責め続けた。それに父が反撃するようになり、両親の仲はもはや修復の効かない状態となった。

 何かが崩壊していく様を、私は目の前で初めて体験した。

 母は何かが狂ったかのように、テレビやSNSで兄の捜索を始めた。

 テレビに映し出される母の泣き顔が、私はどうしようもなく恥ずかしかった。

 まるでさらし者のようで。

 ネット上では母や兄に対する誹謗中傷とやっかみが飛び交っていた。

 兄の写真がばら撒かれ、学校で馴染めなかった様子を事細かに記事にされていた。

 必然、私までネット上のネタの対象となった。

 学校でも嘲笑され、遠ざけられ、虐げられた。

 気づけば今度は母が苛立ち声を荒げ、父が声を押し殺して泣いていた。


 そして、父が死んだ。


 車を運転していて、山道から転落したらしい。

 冬の山道を速度超過で走っていたのだそうだ。

 もはや自暴自棄だったのだろう。すべてが嫌になって、死んでもよかったのだろう。


 すべては、兄のせいだ。


 その時になってやっと、私はそう確信した。

 その時、初めて兄を恨んだ。

 そこで何かが吹っ切れたように思う。


 家に引きこもるようになった母を、守るのは私しかいないと気持ちが奮い立った。

 こんなクソみたいな世界に反撃してやろうと、心が騒いだ。

 兄のようなみっともない存在になってはいけないと、感情が私を駆り立てた。



 それから七年――。



「お疲れ様でした」

「はーい。志津香(しつか)ちゃん、これご飯。帰り道気をつけてねー」

「いつもありがとうございます」


 丁寧に頭を下げて、バイト先の居酒屋『二軒目』を後にする。

 居酒屋で高校生が働かせてもらうことをはじめは渋られたが、この『二軒目』の店長さんは私のことを知っていたらしく、なんとか働かせてもらえることになった。

 ここでバイトをしだして一年になる。

 しかも家庭の事情を慮って、まかないを母と私の2人分用意してくれ持たせてくれる。

 店長には足を向けて寝られない。

 帰路の途中、ポケットの中の茶封筒を取り出す。茶封筒には、「4月分 (みね)志津香」と手書きで書かれていた。


「今月は……5万くらいかな。あんまり入れなかったな」


 それでも貴重な収入だ。

 母と二人暮らしの私たちは、母のパートの収入だけではまかなえない。高校生になり、義務教育じゃなくなった分、必要なお金も増える。自分の分の生活費くらいは、自分で稼がなければならない。


「志津香ちゃーん」


 聞き覚えのある不快な音に、身体が本能的にビクつく。

 路駐されていた黒塗りの車の窓がゆっくりと開き、そこから時代をふた時代程間違えたようなグラサンをかけた柄の悪い男が出てきた。

 彼はグラサンの上の隙間から見上げるように私を睨みあげる。


「金」


 男は端的に言った。


「ど、どうして! もう待ち伏せないって約束したじゃない!」


 周囲を警戒しながらそう小さく叫んだ。


「は? 知らないよそんなの~。か・ね・か・え・せ」


 おちょくったような口調だが、しかしそれはもう慣れたものだ。


「給料、5万入ったでしょ?」

「なんで……」

「あほ言うたらあかんで~。俺は志津香ちゃんファンクラブなんだもの。四六時中見つめてるんだー。時給840円で1日3時間×20日間でー、5万400円なり」

「ずっと見てるんですか?」

「もちろん。ずーっと。志津香ちゃんがお着替えしてる時も、お手洗いに行っている時も、一人で気持ちいいことしてる時も」

「してません!」

「ほらほら大声出すと、噂なってまうで? 健気に母を支える純真無垢な嶺志津香ちゃんが、実は学校で禁止されてるバイトをしてて、しかも夜な夜な怪しい男と密会をしてるって」


 そう言われては何も言えなくなる。

 心の中で振り上げた拳を、そっと胸の奥にしまい直した。


「今月は少しだけ、待ってくださいませんか?」

「なんで?」

「母の、誕生日なんです。ケーキと誕生日プレゼントを買ってあげたくて……」

「あ、そうなの? すばらしいじゃないの。何買うん?」

「えっと、最近仕事で手荒れがすごいらしいので、ちょっといい保湿クリームを」

「かー! 貧乏くせー! そんなもん誕生日プレゼントじゃないっしょ!」

「いいんです。それで」

「もっといいのを買ってやりなよ。カバンとかさ、ネックレスとか」

「そんなお金私には……」

「だから、働くところ紹介するって言ってんじゃん? 志津香ちゃんなら、いくらでも稼げるで? あんな明日には閉店しそうな飲み屋じゃなくてさ。そんだけ身長高くてモデル体型なんだから、身体使わないと損っしょ?」

「それは絶対しません! 後ろめたい生き方はしたくないんです」

「借金しといてそれはねー」

「それは……そうですけど」


 仕方のないことだってある。

 だが言い返したところで意味がないことはわかっている。

 こういう時は黙るのが一番良い。


「それじゃあ、5万、出して?」

「え……今少し待ってくれるって」

「言ってへんよ〜。お母さんにプレゼントするのがいいねって言っただけ」

「でも、お金がないと」

「それとは別に稼ぐしかないっしょ~。もう一回」

「そんなすぐには……」

「いい単発バイトあるよ?」


 男は小さな声で私にささやいた。

 その顔は卑しく笑んでいる。

 なんとなく、意味は察した。


「単発でもそんないかがわしい仕事はしません!」

「違う違う。お店で身体売れって意味じゃなくて」

「?」


 意味が分からないという顔をすると、男は黙って車の中で腰を浮かす。

 そしておもむろに指先を自身の股間に向けた。


「一発手でしてくれたら、2千円。口でしてくれたら5千円。その先は……要相談かな」

「なっ――!」

「人情で金は発生しないよ~? お金欲しいなら、働かないと!」


 そう言って男は高々と笑い始める。

 この男を殺してやりたい。

 今すぐ車から引きづり降ろして、轢き殺してやりたい。


 でも、そんな勇気は私にはなかった。


 悔しくて悔しくてしょうがない。

 だけどこれが私の置かれた今。人生。

 そう受け入れたのに。


 受け入れていたはずなのに。


 私はいつの間にか走り出していた。

 逃げるように。

 こんな人生もう耐えられないと。

 心が悲鳴を上げ出した。


「おい! 待てこらァ!!」


 先程まで丁寧に話していた男が、怒号をあげる。

 本来関西弁であるところを、いつも彼はふざけて標準語を使って相手をおちょくる。しかし本当に怒ると、本来の関西弁が出るのだ。

 そしてそれは、迫力があり怖い。

 すぐに後方から車のエンジン音がした。そして少しして走る私を背後からヘッドライトが照らし出す。

 音が、車が近づいてくるのが分かる。


「走れ走れ~!! 轢かれるぞ~!!」


 そう馬鹿にするように叫ぶ。

 まるで狩りの標的にされた動物のようだ。

 だが今更止まれない。

 止まってあの男に弱みを握られて、もっとひどい目に合わされたくない。


「私は……私は……なんでこんな……」


 走りながら声が漏れる。

 そして涙があふれ出る。

 意味もないのに、与えられた運命に抗議する。


「私は悪くないのに……なんで……!」

「保険で誕生日プレゼント買ってやれやァァァ!!」


 私のすぐ後ろで、男がアクセルをめいっぱい踏み切るのが分かった。


「……なんでよ、お兄ちゃん……!!」


 ドシャン――と、激しい音が背後から聞こえた。

 驚いて振り返る。

 そこに男の黒塗りの車が止まっていたが、そのボンネット部分がひしゃげている。車からはピロピロと警報音のようなものが鳴り響き、男は運転席でエアバッグに寄りかかるように気を失っている。


 何が――。


 そう疑問が湧いたと同時に、私は車の前に立つ誰かに気が付いた。

 壊れたライトに照らされるそのシルエットは男。

 肩から小汚いマントのようなものをはためかせ、手には身の丈ほどもある黒い大剣を有している。そしてまるで、その車を止めたのは自分だと言わんばかりに立ち尽くしていた。

 そして、その男はゆっくりとこちらを振り返った。


「よう。志津香。元気してたか?」

「…………お兄、ちゃん…………?」




 兄が、帰ってきた。



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