居眠り姫とお医者様
※全面的にフィクションです。
実際の疾病、人物、団体とは一切関係ありません。
髪を撫でられたような感覚に、ゆるゆると意識が上がり下がりし、ルドヴィカはぼんやりと目を開けた。
ものを考えられるほどに覚醒してはいない。
目覚めは必ずこうだ。
終わりのない泥濘に身を取られて、助けを呼ぶ気力さえも絡めとられる。
体の芯の部分に澱が溜まったよう。
指一つ動かすこともままならず、ただこの時間をやり過ごすのもいつまで続く習慣なのだろう。
遠くに声が聴こえる。
むりしておきなくていい
頷いたつもりだったができたかわからない。
ルドヴィカはまた目を閉じた。
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「今日はいつから寝ているの?」
ルドヴィカの往診に来た医師に問われ、ザシャは答えた。
「一時間前くらいからですかね」
「そう」
ザシャとさほど年も変わらない若い医師は、ルドヴィカが「居眠り姫」になってから探された人物で、専門は精神医療だという。
受け入れ難い事実ではあるのだが、身体機能に問題がない以上、不意に訪れる眠りの発作は心の病によるのではないかという、幾人かの医師の助言を受けてのことだった。
「お嬢様は」
ザシャが雇入れられたのもそのためだった。
眠りに落ちたルドヴィカを安全に守り、起きていられるときには安寧を守る。
「心の病なんですかね」
いつか訊いてみようと思っていた言葉を、ザシャが喉奥から絞り出すとさらりと医師は言った。
「違うと思うよ」
「…え?」
「確定ではないけれど。
だからわたしが担当しているのだし。
…なんでそんな意外そうな顔しているの」
「いやだって、先生は精神の先生だって…」
「そうだけど。
べつに心の病だけが精神医療ではないし。
ルドヴィカ嬢の症例は滅多にないけどね、わたしの研究分野」
本人が寝ているので問診できず、医師は早々に帰り支度を始めた。
「じゃ、帰る。
次来るの3日後」
都合悪かったら連絡して、と言い残して、本当にさくっと帰ってしまった。
え、こんなあっさりしてていいの?
「…藪じゃね?」
ザシャの呟きは部屋付き侍女に聞き咎められ、窘められた。
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エルヴィンの元に診療の依頼が来たのはちょうど今から3年4ヶ月ほど前だった。
彼は医師ではあるが、普段は研究者であるため特定の患者は持っていない。
彼の所属する研究所には全国から多くの症例が集められ、または報告され、彼は二十代の殆どを書類に埋もれて過ごした。
代々医師を輩出している家系であるため、兄も医者をしている。
堅実な勤務医になってくれたため、煩く言われなかった弟のエルヴィンは趣味の赴くまま研究に没頭できた。
気儘な独身貴族の彼は家族のために稼ぐ必要もなかったので、ほぼ研究所に入り浸り、とにかく稀少な症例ばかりを集めては入手可能な(時には入手困難な)世界中から取り寄せた文献と突き合わせてきた。
ルドヴィカ嬢の依頼が舞い込んだのは、そんな彼の経歴を見込んでのことである。
本来ならば診察とかしんどい。
やりたくない。
人間こわい。
それでも受けたのは、ルドヴィカ嬢の症例が大変珍しかったこと、最近親が「わたしたちもいつまで生きていられるかわからないから」とかいう理由でしっかりして欲しいとか涙ながらに言ってきたこと、それに紹介してきた先輩医師から「これお前が探してた本じゃね?」と目の前に垂涎の文献を掲げられて言われたからである。
あと、患者の名前がいい。
ルドヴィカ。
深窓の令嬢っぽい。
初めて持つ患者が髭面のおっさんとかやだ。
会ってみたルドヴィカ嬢は思っていたよりはやんちゃだったけれど、なかなか面白い娘さんだった。
嫌々ながらではなくこれまで数年往診を続けてこられたのも、そんな理由からだった。