居眠り姫と王子様・20
今年もよろしく!!!!
そしてよいお年を!!!!
幼いころに、何度も来たことがある。
父に連れられてのこともあれば、母に連れられてのこともあった。
『旧き十三家』のひとつであり、それ相応の地位を持ったシャファト伯爵家は、他の旧家とは比べ物にならないほどに小さな館を王都に擁している。
それがとてもままごとのようで、それでも、広すぎる王宮に住む自分は持たないなにかがあるようで、アーダルベルトはとてもうらやましかった。
父にとっては知友の息子の家であり、母にとっては親友の家族の家だ。
普段は公人である二人が、打ち解けた表情をするのもこの家でだった。
自分にはそれができなくて、少しだけさみしかった。
学生時代を隣国で過ごしたアーダルベルトは、およそ五年ぶりに眺める館が記憶のままそこにあることを、目を細めて少し笑った。
父のようにシャファトの息子と確かな友誼を結ぶことはできなかったが、それでもアーダルベルトにとっては懐かしい場所なのだ。
追いかけ回されたりバッタを押しつけられたり変な踊りを伝授されそうになったり、さんざんだった。
それも今となっては、優しい思い出だ。
「……何年ぶりかしらね」
母も馬車の窓からその姿を眺めて、感慨深げにそうつぶやいた。
開け放たれた門を抜け、屋敷の前へ。
馬車が停車し降車すると、左右に控えた侍従たちが一斉に礼をとった。
中心には主人であるシャファト伯爵がおり、彼も腰を折っている。
母の手を取り降車を手伝ってから「楽にしてくれ」と言う。
「出迎えありがとう。急な訪いで申し訳ないね。今日はよろしく」
「お待ちしていました、両殿下。満足なおもてなしもできないかもしれませんが、どうぞごゆっくりなさってください」
「もちろんよ、シャファトはわたくしの実家みたいなものですもの」
母にとっては本当にそうなのだろう。アーダルベルトはその声に弾みを感じて少し笑った。
そして、シャファト伯爵の横にいるのは。
「――ルドヴィカ……ルイーゼ。大きくなったわね」
そうだろうか、とアーダルベルトは思った。小さいが。自分の肘くらいまでの背丈ではないだろうか。それでも、母の喜びを邪魔する気持ちはない。少女は名を呼ばれて綺麗な淑女の礼をとった。
「おひさしゅうございます、エルザ妃殿下。そしてアーダルベルト殿下。お会いできてうれしゅうございますわ」
なんと、ちゃんと挨拶ができている。
それはそうか、と思った。小さなころの印象しかないが、彼女はもう、お披露目を控えた女性なのだ。アーダルベルトも微笑みながら「久しいね、ルイーゼ。僕のことは覚えていないかもしれないけれど」と述べ、手を差し出した。少しだけ目を見張り、少女はおずおずと握手に応じる。
「おっしゃる通りでございます。失礼ながら、殿下のことをあまり憶えておりませんの。とても幼かったのですわ。どうぞご寛恕くださいまし」
なんて正直なことだろう! 思わずアーダルベルトは笑ってしまった。ここは「そんなことはありません」とでも、ごまかしてしまえばいいのに。いくらか本心から「会えてうれしいよ」と、彼は少女へ告げた。
「――りっぱになられましたね、殿下」
次いでシャファト伯爵へ手を差し出すと、しっかりと握り返されながらそう言われた。同じ年ごろの子を持つ親として、やはりそんな目線になるのだろう。
屋敷内に招き入れられ、アーダルベルトは周囲を見回し深呼吸した。どこか懐かしい香りがした。
****
「――やっぱここにいたか」
寝転がった屋上で聞き慣れた声が降ってきて、イェルクは目を開けた。光が眩しくて瞬く。
声の主はイェルクの隣に座った。なんと言えばいいのかわからなくて、イェルクは押し黙ったまま寝転がったままでいた。
頭のあたりに置いていたりんごを「これ、食っていいか」と問われうなずく。声が出ない。胸が潰れそうだ。
しゃりしゃりと、りんごをかじる音と、街の喧騒が聞こえた。なにか言われるのが怖くて、でもなにかを言ってほしくて、自分が自分で確定的なことを口にするのが嫌で、その状況がとてももどかしかった。
それでもその無言の時間は、イェルクにとってとても優しかった。
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ユーリアは自分の安下宿の部屋を、ずっと歩き回っていた。
落ち着かない、落ち着かない。昨日シャファト家に赴き、雇用主であるルドヴィカに見てもらった。反応はこちらがうれしくなってしまうくらいのもので、ほっと胸をなでおろしたものだった。
なので、絵の件で悩んでいるわけではない。
「……どうしよう」
何度目かわからないつぶやきをする。
昨日ルドヴィカに言われたことを、心の中で反芻する。
そして、何度目かわからないため息をついた。
(……あたしが? あたしが、シャファト家の? 無理、無理に決まってるじゃない!)
パトロンになりたい。真っ赤な顔で、ルドヴィカはそう告げた。白いクッションをぎゅっと抱きしめて。ユーリアの後ろ盾になりたいと。だからシャファトの傘下の絵師になってほしいと。混乱しきって、ユーリアはまともな言葉を出せなかったように思う。
「どうしよう」
考えさせてください――そう述べるのがやっとだった。逃げるように帰ってきた。驚きすぎて、今に至るまで食欲がない。
わかっている。ユーリアにとってまたとない機会だ。もうこんな申し出はどこから受けることもないだろう。なにせ、ユーリアは決めたばかりなのだから。
自身の名で描くこと。
自分を偽らず、ユーリア・ミヒャルケとして描くことを。
それでも。
「――利用するみたいで、嫌じゃない」
その気持ちがずっとぐるぐると頭の中を巡っている。それは、慕ってくれているあの愛らしい少女を、その気持ちを、ひどく損なうことのような気がして。
誰が聞いたとしてもそんなことはないと言うのはわかっている。だから、これは自分の問題だ。うれしい、とてもうれしい。自分を、そこまで高く評価してくれることを。
ユーリアは自分が描いた絵を手に取った。これでやってきた。今も昔も。
そして、気づいてしまった。
「……怖いだけじゃん、あたし」
つぶやいた声が、部屋の中に広がった。
ユーリア・ミヒャルケとして、立つこと。そのことが。
「――もしシャファト伯爵家の後援がついても受け入れられなかったらって、怖いだけじゃない」
言葉にしてみたら情けなくて、ユーリアは少し、泣いた。