居眠り姫と王子様・19
おひさしぶりです
ちょっとながいです
「すまないね、アルミン、急な……しかも気を遣う来客で」
ひさしぶりに厨房へと顔を出し、ユリアンは料理長にそう声をかけた。
彼はユリアンが家督を継いだころシャファト家に雇用され、現在に至るまでずっと献身的に勤めてくれている人物のひとりだ。
前料理長が事故に遭い突如引退した後も、シャファトの伝統的料理を絶やさずに済んだのはひとえに彼のおかげだ。
レシピが秘伝とされているものがいくつかあり、アルミンは口頭でそれを教わった。
再現できたのはその調理師としての才能ゆえだろう。
「いえ、むしろうれしいのです。
高貴なる方々に、わたしの作品を召し上がっていただける」
青みがかった灰色の瞳がそう言って笑んだ。
それは心からの言葉であることをユリアンは知っている。
昨年、彼は同じくシャファト家に使える洗濯女中と結婚した。
もうすぐ四十に手が届くところで、晩婚の部類に入るだろう。
見目も悪くなく朗らかな彼を狙っていた多くの未婚メイドたちの嘆きは相当なものだったが、それでも祝福の声は大きかった。
そして、古参の従者たちの間には、安堵感が広がった。
アルミンが、決して幸せな来歴の者ではないことを知っているから。
トラウムヴェルト国内での一般的な婚姻の流れは、まず居住を定める地域の身分登録官に婚姻の宣誓をし、間違いなく夫婦となったことを二通の書面とし、登録するところから始まる。
一通は戸籍記録として地域で保管され、もう一通は自分たちの控えとする。
法律上での手続きはそれのみだが、伝統的に書類の控えを以って友人たちに報告することがなされる。
多くの場合、それは結婚式という形をとり、衆目の前でもう一度婚姻の宣誓をし、それが既に身分登録官の手によって書面にされた正式な契約であることを証拠として提出する。
それによって見守る者たちからの祝福を受け、公に真の夫婦となったとみなされる。
婚姻の宣誓の際、見届けのために付添人が二人帯同するのが習わしだ。
婚約の報告とともに、ためらいがちな付添人の依頼を受け、ユリアンは諸手でよろこび引き受けたものだ。
もうひとりは家令であり執事長としての役もこなすリーナス。
共に言葉にはしなかったが、アルミンが自分の幸せを求めたことを、心からうれしく思っている。
長くかかったが、少しずつ彼は、自分の人生を歩んで行けるだろう。
頼まれてメニューの確認をした。
主人として出されるものは把握しておかなくてはならない。
イェルクの好物が一品入っていて、あの子は今ごろどうしているだろう、と、今朝の光景を思い浮かべつつユリアンは考えた。
****
制服を冬物に替えたばかりで、少し歩くと肌が汗ばむくらいには、今日は陽の照りがいい。
朝礼の前に、隊長室へと足を向けた。
ノックに誰何があり、いつも通り「イェルクです」と答える。
いつも通りなのに、なぜか外から自分を見ているような、ふわふわとした感触がイェルクにはあった。
入室許可の後にドアを開け、「失礼します」と入る。
いつも通り敬礼し、いつも通りまっすぐに相手を見た。
ランドルフ隊長は……すべて悟ったような微笑みで、イェルクを見ていた。
「――決めたのか」
「はい」
それだけで、すべて伝わったようだった。
「お世話になりました。除隊します」
目を見て言い、そして深く、深く腰を折った。
承認の言葉は、少しかすれていた。
****
「こーんにーちはー!」
いつも回っていた警ら隊第7班地区を、今日はひとりで回る。
「おお、警らのボン、なんかひさしぶりに顔見るなあ!」
「あー、そっすねー、最近4号通り沿いのが担当多かったんで。
師匠います?」
「あいよー。
ばあちゃーん! 弟子が来てるよー!」
八百屋のアガーテばあちゃんは、イェルクに市井の常識を叩き込んでくれた師匠だ。
入隊したばかりのころは、一般の常識なんてぜんぜんわかっていなくて、アガーテばあちゃんの言うことを全部鵜呑みにしていた。
結果的にそれはイェルクが警ら隊に馴染む最速手段でもあって、心から感謝している。
いの一番に挨拶に来るべきは、ここだと決めていた。
「ボン、あんまり見なかったね」
「不義理をしました、師匠。
お元気でした?」
「ふん、まだ心配されるような年じゃないよ。
なんか言いたいことがあんだろう、さっさと言いな」
なんでもお見通しだなあ、とイェルクは笑った。
大好きだ、アガーテ師匠。
制帽をとって、頭を下げた。
「今月いっぱいで、除隊することになりました。
本当にお世話になりました」
騒がしい商店街が、一瞬静まり返ったような錯覚をする。
それは錯覚にすぎないけれど、きっとイェルクの気持ちを少し切なくした。
「……そうかい、そうかい」
その言葉とともに、イェルクの頭に暖かな手のひらが添えられた。
慈しむように何度も撫でられて、泣かないと決めていたのにイェルクは涙ぐんだ。
「いの一番に、ばあのところに来てくれたんだねえ。
……ありがとうなあ」
泣かない。
歯を食いしばった。
笑顔でありがとうを言おうと、決めたから。
「アガーテ師匠には、本当に、本当に、お世話になりました! ありがとうございます!」
「なんも、あたしはあたしのできることしかできんさ。
なにかあたしから得たものがあったとしたら、あんたが得ようとがんばったからだ」
ひとつぶ涙が落ちた。
気づかないふりをしてくれる手が、何度も何度も惜しむようになでてくれるのが、うれしいような辛いような、どっちつかずの気分を揺さぶる。
「ボン、警ら辞めるんかあ! まじかあ!」
アガーテ師匠の息子さんが本気で驚いたような声を上げたので、人差し指でさっと目元をぬぐって顔を上げ、イェルクは制帽を少し深めにかぶった。
「辞めてどうすんの、故郷にでも帰るの?」
「……母方の……家業を継ごうと思って」
街のみなさんには、そう言うと決めていた。
母から「騎士になってね、イェルク」と言われるのが、幼いころはとても嫌だった。
勝手に決められた道のように感じて、ずっと心の中で反発していた。
けれど期待を裏切るのはどこか後ろめたくて、のらりくらりとその言葉をかわして。
警らになりたいと思ったのは、かっこいいと思ったことの他にきっと判然としない親への反抗心があったのだ。
今ならそれを理解できるし、そして容赦してやれもする。
警らになったことを、イェルクはまるで後悔していない。
「そりゃあ、孝行なこったなあ。
お母さんも鼻が高いだろうよ」
「……だといいな」
「ちょっと待って、仕事中だろうけど、ちょっとなんか持ってけ。
りんご食えるか?」
「はい、大好きです」
「よっしゃ、柿も持ってけ。
また来いよ! ばあちゃんあんたが来るの楽しみにしてたんだからな!」
「うるさいよ、よけいなこと言うんじゃない!」
笑った。
笑顔で「ありがとうございました!」と言えた。
アガーテ師匠と握手して、「また来るのでずっと元気でいてください」とイェルクは願いを込めて言った。
「当然だよ、ばばあ扱いするんじゃない!」
追い立てられて、イェルクはその場を後にした。
笑った。
笑って別れた。
****
「……さみしいもんだねえ」
アガーテは店先の椅子に座ってぼやいた。
小さな声で言ったつもりだったが、息子には聞こえてしまったらしい。
「なんも、また来てくれるだろ!」
呑気な言葉に、アガーテはこれみよがしにため息をついた。「なんだい、そりゃあ!」と抗議の声が挙がる。
「おまえにゃわからんかい。
あの子はねえ、りっぱな人になるよ。
――こんな下町の八百屋なんか、もう来られない身分になるさ」
言葉の最後の方は、小さくなってしまった。
息子が「ああ、あいつは出世するだろうよ!」というどこまでも明るい声を聞いて、アガーテもめそめそするのをやめにした。
****
「こーんにーちはー!」
商店街の裏側。
同じ形の家が並ぶ道で、そのうちのひとつの扉をノックした。
「あらあ、ちょっとひさしぶりね、イェルク。
カティンカ、あんたに手紙渡すってずっと待ってたのよ」
「そうなんだ、それは申し訳なかった」
「カティンカー! イェルクが来たよー!」
いつも少し疲れた表情の主婦。
そしていつも元気な女の子。
この道を回るときにはぜったい寄ってね、と約束をしたのは去年。
「おそいわ、イェルク!」
怒ったようなふりをして、小麦色の髪の少女は飛びついてきた。
しゃがんで目線を合わせる。
「あたし、おてがみかいたのよ。
イェルクによ。
パパにもみせていないの。
ないしょよ。
あとでよんでね」
「あとで? 今読んじゃだめ?」
「だめ! あとで!」
「わかったよ」
もらった手紙を胸ポケットへ入れて、イェルクは少女に向き直る。
この子にも、どれだけ救われて来たか、数えればその思い出はかけがえがない。
「カティンカちゃん。
今日はね、ご挨拶に来たんだ」
「ごあいさつ? おはようございます!」
「おはようございます! そう、それ。
僕からはね、カティンカちゃんに、いっぱいありがとうってことなんだ」
「ありがとうは、いいことよ!」
「そう、カティンカちゃんは、たくさん僕にいいことをしてくれた。
ありがとう」
「どういたしまして!」
鼻をならして少女は言った。
イェルクは笑った。
「……そしてね、もうひとつご挨拶だ。
あのね、僕、警らを辞めることになった」
部屋の奥から「えっ!?」と声が聞こえた。イェルクは制帽を取って、奥へ頭を下げた。
「奥さん、お世話になりました。
今月いっぱいで、除隊します」
「なんで……なんでまた!」
あわてて少女の母親は玄関へとやって来た。
イェルクは立ち上がって、もう一度頭を下げる。
「母方の、家業を継ぐことにしました。
ずっと好き勝手やらしてもらったんで、そろそろ親孝行です」
「いやいやいや、なに言ってんの! 警らなる息子のどこが親不孝だってのさ! そりゃ、お家の仕事も大事だろうけどさ!」
「ええ、だから、親もいままでなにも言えなかったんです……ずるい息子でした」
イェルクは笑った。
本心だ。
夢みたいな理想論を掲げて、これまで問題を先送りにしてきた。
向き合って、どれだけ自分がずるい人間だったか、とてもよく理解して今日という日を迎えた。
「じょたいってなに?」
足元から少女の声が聞こえて、もう一度イェルクはしゃがんだ。
そして少女に向き合い、告げる。
「僕ね、警らを辞めるんだ」
少女の瞳が見開かれる。
幼いのに、本当に敏い子だと思う。
「こうやって、カティンカちゃんのお家に来ることもなくなる。
本当に今までありがとう。
たくさんお話ししてくれて、うれしかったよ」
「――だめー!」
拳を振り上げて、少女はそれをイェルクの肩へ振り下ろした。
両手を何度も何度も。
母親に「やめなさいカティンカ!」と押さえ込まれ、少女はあがく。
「イェルクは、けいらよ!」
「そうだね、でもこれからは違うんだ」
「だめー! そんなのだめー!」
「……ごめんね」
謝る以外になにもできなくて、イェルクは形ばかりの笑顔を作る。
それでも少女はかんしゃくを起こしたまま、「だめー!」と言い続けた。
「いい加減になさい、カティンカ! 押し入れに入れるわよ!」
「だめー! イェルクは、イェルクは、けいらなの! かっこいいけいらなの!」
思わぬ言葉に胸が詰まった。
そう、警らはかっこいい。
そう思って、イェルクはこの二年を過ごしてきた。
「――イェルクは、けいらじゃなきゃ、だめ!」
「……ごめんね」
それ以外なにも言えなくて、ただ謝ることを繰り返した。
最後に少女が口にしたのは、衝撃の言葉だった。
「リコンよ!」
イェルクと少女の母は硬直した。
「イェルクのおよめになんかなってあげない! イェルクなんかリコンするんだから!」
母の手を払い除けて、少女は階段を登り二階へ言ってしまった。
少女の母はその背を見送るとイェルクに向き直り、そしてしみじみと「いやあ、さみしいねえ」と言った。
「ごめんね、どこであんな言葉覚えてくるんだか。
いやあ、ほんと、辞めちゃうのねえ! びっくりだわ! まだまだ若いのに」
「若いからこそ、ですかね。
今ならまだ、家業継げるだけの経験積めるかもしれないんで。
やっとふんぎりがつきました」
「いやあ、そうなのねえ。
もったいないねえ、警らなのにねえ。
でもねえ、お家ねえ、そうねえ、大事よねえ」
あいまいにイェルクが笑うと、「ちょ、ちょっと待ってて、かぼちゃ! かぼちゃ食べられる?」と言われたので、「はい、好きです」と答えた。
「ごめんねえ、こんなんしかウチになくて。
昨日煮付けたやつ、いちおう得意料理よ、おいしいわきっと」
「もちろん、奥さんの手料理なら美味しいに決まってる」
「あんたいい男ねー! ウチの娘見る目あるわ!」
そう言って肩を叩かれた。
笑って、「ありがとうございます」と言えた。
言えた。
もうそれだけでいい。
「あのねえ、カティンカ、あなたが初恋だったのよ」
頬に手を当てて少女の母は言った。
初めて知ったかのような顔で、「そうなんですか?」とイェルクは言った。
「年が違いすぎるけど、あなたみたいなお婿だといいねえって、よく旦那と話してたわ。
旦那も、あなたみたいな男連れてきたら、しかたないなって言ってた。
なんかねえ、さみしいねえ」
もう一度頭を下げて、イェルクは礼を言った。
制帽を目深にかぶり直して、「ご主人にも、よろしくお伝えください」とその場をあとにした。
****
いつも使っている毛布といっしょに自ら押し入れに入って、カティンカは真っ暗な中声を押し殺して泣いた。
母が呼んでいる声がする。
階段を上がってくる音がする。
でも見つかりたくなくて、こんなふうになっている状況を、大好きな母親にだって見られたくなくて、カティンカは口を両手で押さえた。
「カティンカー、どこに隠れたのー? イェルク行っちゃったよ? よかったの?」
よくない。
なにもよくない。
イェルクは警らで、かっこよくて、カティンカのやさしい人で、パパより好きな人。
そんなイェルクがいなくなっちゃう。
それだけはわかった。
それだけはいやだった。
「……カティンカ?」
カティンカがだいっきらいな押し入れに、自分から入るとは思わないだろうと考えて入ったけれど、母親にはわかってしまったらしい。
閉めた扉のすぐ前で、母の呼びかけが聞こえた。
母は、「……そっかあ」と言った。
「……ねえ、カティンカ。
いっぱい泣きなさい。
そしてね、素敵な女性になりなさい。
あんたが大人になったとき、今日のこの思い出が、とっても大切になるから。
いい人を好きになったわね。
ママも鼻が高いわよ。
イェルクはね、きっとすごい人になるから。
見ていなさい、『わたしが初めて好きになった人はあの人よ!』って、そのうち胸を張って言えるようになる」
なにを言われているのか半分もわからなくて、でも泣いていいって言われたのはわかって、カティンカは声を上げて泣いた。
「うえぇえ、ぅぇええええ……」
だいすきだったの、だいすきだったの。
やさしくて、かっこいいけいらのイェルク。
あのね、パパよりだいすきだったの。
「……あんたの好きなオレンジのケーキ焼くわ。
泣きやんだら、降りていらっしゃい」
あたし、すてきなレディになるわ。
そして、すてきなひととけっこんするの。
けっこんしきでは、おはなのドレスをきるのよ。
ママみたいに。
パパよりすてきなひとと。
――バイバイ、イェルク。
****
イェルクは、以前警らの巡回時に見つけた、四階建てのビルの屋上に来た。
だれにも教えていない、イェルクのサボり場だ。
サボるなんて器用なことも、できるようになったのはつい最近だけれども。
四肢を投げ出して仰向けになり、空を見た。
水色に少し薄雲がかかって、冬の入り口なのに日差しは暖かかった。
八百屋でもらった、新聞を再利用した手提げ袋。
そこからりんごを取り出して、制服の腹で拭いて口に運んだ。
想定していたよりはちょっとすっぱくて、少しだけ流れた涙の言い訳になる気がした。
アルミンの来歴のごく一部についてはこちら
https://ncode.syosetu.com/n2252gj/8/
カティンカちゃんについてはこちら
https://ncode.syosetu.com/n3496fz/6/
この更新分吐きそうなくらい泣きながら書きました