居眠り姫と王子様・16
「…………かけた」
安アパートの狭い自室で、ユーリアは呆然とつぶやいた。
その声が他人事のように自分の耳に入ってきて、そのためにか時間差で自覚が伴って、ふつふつと喜びが湧き上がってくる。
手にしているのは、イメージを形にした『いねむりひめ』の登場人物たちのラフ画。
「描けたーーーーーー‼」
両手を挙げて叫んだ。
隣人にドン、とひとつ壁を叩かれて、ユーリアは小さく「ごめんなさい」と言った。
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息子からの遣いが来た。
言伝はシャファトにはいつ行くか、ということだった。
さて、とエルザは首を傾げる。
先程王である夫と話したところによると、どうやら息子は|デビュタントのエスコート《ガヴァレリスト》を務めなくてなくてよさそうである。
しかし、エルザとしてはシャファトとの顔合わせはぜひともしたかった。
よって、ことの流れを伝えることはせずに、自分の予定のみを息子の近習に告げた。
その方が、ちょっとおもしろいことになるかもしれないじゃない? とエルザは考えたのだ。
慢性的に娯楽に飢えているので。
幼いころから陰日向と息子に仕えている近習が一礼の元に去るのを、エルザは笑顔で見送った。
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『友人』である小さな姫君に別れを告げて、ヨーゼフはシャファトの王都邸へと帰るために馬車を借り受けて乗り込んだ。
領地から赴いていろいろと手を尽くしていたことのひとつが片付き、もうひとつも解決がなされそうだった。
孫娘であるルドヴィカの社交界復帰についてと、そしてシャファトの庇護下にあったドレヴァンツ男爵家の爵位返上についての手続きだ。
孫娘については、外に出る機会としてメヒティルデ殿下の話相手としての職務が内定し、年明けのお披露目へ向けての対外的印象の改善、また本人の体力や自信をはかるためのお膳立てとしての段取りがすべて済んだ。
折しも本人が自身から本を出版すると言い出し、外界と関わりを持ち始めた折でもあり、あとは煩うことなくその職務に当たってくれさえすれば、きっと道は拓けるだろうという明るい展望もある。
その経過で、兄であるイェルクも社交界復帰を果たせそうなことは、嬉しすぎる誤算だった。
あの子は、とぼけたような顔をして、本当にいろいろなことを考えているのだろう。
ルドヴィカのお披露目をしない可能性を示唆した父ユリアンに対して、すぐにそれをあり得ないと切って捨てた様は、ずっとそのことを考えてきた証拠でもある。
育て方を間違えたか、と少なからず悩むこともあったユリアンが、あれほど嬉しそうな表情をしたのを久しぶりに見たように思う。
もちろん、その喜びはヨーゼフも心を同じくした。
時代は移り変わるもので、旧くから続くしきたりや慣習は、いずれは潰えていくのだろう。
もしかしたらイェルクは、その先駆けなのかもしれない、と考えていた。
やりたいことをし、為したいことを成し、生まれた立場の垣根を越えて生活している姿には、そう思わせる力があった。
――しかし、どうするのだろうか。
ヨーゼフは独り言ちた。
ドレヴァンツ男爵家の次男であり、イェルクの乳兄弟であるリヒャルト。
従騎士であった彼は、貴族としての家名があるうちに、騎士爵を得なければならない立場だった。
最終手段として、シャファトの養子にすることはユリアンとも話し合っている。
しかし、それはドレヴァンツの奥方である、リヒャルト自身の母が頑なに拒否している上、手続き上そう簡単なことでもない。
ドレヴァンツ男爵本人とその長男が咎人として裁きを受けることになった以上、どんな形でもドレヴァンツの名を正しく残せるのは、リヒャルトのみとなってしまった。
リヒャルトは最後の矜持であり、希望なのだろう、ドレヴァンツにとって。
イェルクは、誰にも何も語らなかった。
交換条件を出された状況を、ヨーゼフも把握している。
酒によって促してさえ、考え深い孫は、祖父であるヨーゼフはもちろん、父ユリアンにも語らなかった。
もどかしく感じつつも、成人したひとりの大人であるイェルクへ、ふたりはなにも言わなかった。
物思いに耽っているうちに、馬車はシャファト邸の正門前の通りを走っていた。
綺麗に舗装された大通りの歩道にふと目をやると、一生懸命歩いている女性の姿が目に止まり、ヨーゼフは御者席に声をかけた。
その女性に横付けする形で馬車を停める。
見るからに驚いた女性は、思った通り孫娘ルドヴィカが雇っている画家の女性、ユーリア・ミヒャルケ嬢だった。
「ユーリア嬢、どうなさいましたか? ルイーゼに御用ですかな」
ほっとしたように肩を下げて、ユーリアはうなずく。
「はい、ラフ画ができて……見ていただきたくて。
いきなりでごめんなさい」
そわそわと居ても立っても居られないというように彼女は言った。
素直で可愛らしい女性だと思う。
民間人なので、先触れを出すといった習慣も伝手もないのであろうから、予定伺いのために自らが来てしまったというところだろうか。
「問題ありませんよ、乗ってくださいますかな」
御者が扉に回り、開けてユーリアへと手を差し出す。
こうした所作に慣れていない彼女はびくびくしながらその手を取り、乗り込んできた。
「あの……すみません、ありがとうございます」
「次からは辻馬車を使ってください、費用はすべてシャファトが持ちますから」
「えええ、そんな! 申し訳ないです!」
「いえいえ、シャファトは雇用している者の足も整えられない、と噂される方が痛手です。
こういうことは遠慮しなくてよろしい」
はっとした顔で、ユーリアは「はい、そうします!」と述べる。
驕ることのないその性格は好ましいが、従者のザシャ同様、いくらか教育する必要があるかな、とヨーゼフは考えた。
彼女はこれから、シャファトお抱えの画家としての名を得るのだ。
そうした作法や価値観は、得ていた方がいい。
ゆっくりと門をくぐり、馬車は母屋前へと着ける。
先にヨーゼフが下車し、ユーリアへと手を差し出していると、なぜか厩舎方向からやってきたルドヴィカが、「おかえりなさいませお祖父様!」といつもの明るい声を上げた。
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帰宅準備を始めたユリアンは、定時に帰宅準備をできる幸せを噛み締めていた。
表情からいって同僚のトビアスも同じような状況だ。
しかし朝廷で寝泊まりしている上司であるヴィンツェンツは、仕事の体勢を崩そうとしない。
これまでもユリアンやトビアスが泊まり込みで仕事をするときは、だいたいそこらへんにいたが、もちろん仕事はしていなかった。
ので、大きな大きな進歩だ、涙なしに語れない。
しかし、仕事しない上司が定時後も仕事をしているのは、たいへん帰りづらいことこの上ない。
よって、ユリアンは「ヴィン、あなたももう上がりましょう」と述べた。
「しっかりあなたが仕事をしてくれたおかげで、今日の分は無事なにごともなく終わりましたよ。
時間外はゆっくり休みましょう、ヴィン。
それも仕事のうちです」
少し考えたような間があって、ヴィンツェンツは国璽をユリアンへと放り投げた。
あわててそれを受け止める。
怒るよりも先に、ヴィンツェンツは一枚の書類を差し出した。
歩み寄ってユリアンはそれを受け取る。
そして、息を飲んだ。
『従騎士リヒャルト・ドレヴァンツ氏の騎士叙任推挙に関する案件』
おまえが捺せ、と言わんばかりにヴィンツェンツは朱肉を机際に押し出した。
逡巡する。
けれど、ユリアンはその気遣いに感謝して、ヴィンツェンツの机上でしっかりと押印した。
トビアスはなにか察するところがあったのか、なんの書類なのかは尋ねてこなかった。
吸引紙に挟んで乾かす。
できあがった書類に目を落として礼を言おうと思ったときに、扉が叩かれた。
「はいー」
トビアスが応じると、白い近衛の儀仗服を着込んだ騎士が立っていた。
「シャファト書記官へ、王妃殿下からの御言葉です」
部屋に入って入り口付近で読み上げられたそれは、要約すると『おひさしぶり、お元気だったかしら? 明日息子とシャファトのお家に遊びに行こうって話になったんだけど、いいわよね? お仕事のお休みちょうだいって、上司さんに伝えてくださる?』というものだった。
国璽尚書室に沈黙が落ちた。