居眠り姫と王子様・15
賑やかに去って行ったザシャとルドヴィカの後、壁際に控えていたラーラも一礼し部屋を出た。
二人きりになった途端落ちた沈黙に、イェルクは膝を正す。
リヒャルトもいくらか緊張した面持ちで茶を口に運んだ。
「話さなきゃいけないことがあるんだ、イェルク」
あらたまって言われた言葉に、イェルクは緊張して乳兄弟の目を見られなかった。
「わかった……ちょっと待って」
おもむろに立ち上がり、イェルクは壁際の飾り戸棚に向かった。
硝子戸を開けて、手馴染みのいい硝子のタンブラーをふたつと、シャファトで愛飲されている蒸留酒の丸みを帯びた瓶を手に取る。
「飲もう……そういう話だろ」
リヒャルトは差し出された杯を受け取って、琥珀色の液体を受けた。
加減がわからなくてイェルクは八分目まで注いでしまったけれど、そういえばこの酒は強いのだと思い出す。
構わずに自分にも同じだけ手酌した。
ぐいとひとくち飲んで、叩きつけるようにローテーブルへと杯を置く。
喉が焼けた。
そうするとリヒャルトも同じように煽って、それでも静かに置いた。
「……いいよ、聞くよ……なに?」
思った以上に破れかぶれの言葉が出た。
そんなつもりではなかった。
けれどそれを受けてもリヒャルトの面持ちは冷静で、だからイェルクも心が鎮まった。
言葉を選ぶようにリヒャルトは沈黙し、イェルクもそれを待つ。
その上で紡がれた言葉は、イェルクの予想を裏返したものだった。
「この前のことは……ごめん。
僕はあのときいくらか捨て鉢になっていて、君をいたずらに傷つけた……後悔している、本当に。
それを先に伝えたかった、受けてくれるかい?」
否応もなく、イェルクはうなずいた。
その謝罪は必要のないものだ。
あのときリヒャルトは追い詰められ、実際に他の手段を持たなかったのだ。
もし自分が、という想定は、この日に至るまで何度でもしてきた。
そうして得た結論は、毎回心を切なくさせて、イェルクを迷いなくさせもしたのだ。
だから、それは必要ないと言おうとしたけれど、彼のためには受けた方がいいのだと思い直して、もう一度イェルクはうなずいて言った。
「僕が傷ついていると思ったなら、それは心配しないでほしい。
むしろ、リヒャルトが本当のことを隠さずに言ってくれて嬉しかった。
だから……謝らないで」
リヒャルトは泣きそうに笑って、ありがとう、とつぶやいた。
それにつられてイェルクも泣きそうになったけれど、もう一度酒を口に含んでごまかした。
少しだけむせて、リヒャルトに気遣われる。
「ねえ、イェルク、君が警らになりたいと思ったのはいつ?」
天気の様子を尋ねるかのようにリヒャルトは言った。
その気持ちがわからなくて、イェルクは小さく「十三のとき」と答えた。
「うん、知ってる」
爽やかな、そして穏やかな笑顔でリヒャルトは告げた。
「君が警らになりたいと言って、そして、僕は自覚したんだもの。
騎士になりたいって」
そうだった、とイェルクは思い起こす。
自分が、自分の進路の件で父と衝突し家を出ると宣言した騒動があった。
その後に、リヒャルトはシャファト家を去ったのだった。
覚えている、よく覚えている。
とても、とても悲しかった――。
「今も昔も……君は僕の恩人なんだ」
リヒャルトはうつむいた。
その優しい飴色の瞳は、同じ色の酒を見つめているようでもあったし、どこか遠くを思っているようでもあった。
イェルクはその次の言葉がどんなものかわからなくて、ただ杯を手に持ったまま待った。
「イェルク、僕はもう、君を煩わせることはなくなった。
どうか共に喜んでほしい、僕は先日、騎士に叙任された。
君にこそそれを伝えたかった」
喉がつかえたように一瞬声がでなかったけれど、イェルクははっきりと「おめでとう」と祝福した。
きっとリヒャルトは泣いただろう。
自分も警らとしての採用通知をもらったとき、ひとり自室で泣いたから。
「……そして、君は、警らを続けてくれてかまわない」
一瞬何を言われたのかがわからなくて、イェルクはリヒャルトをじっと見つめた。
ためらうような間があって、もう一度リヒャルトは「よかったら、そのまま警らを続けてくれ」と言った。
「……どういうこと?」
リヒャルトが騎士に叙任されたということは、自分もともに騎士になることが決定づけられたということではないのだろうか。
そういう条件であったはずだ。
意味がわからなくて、イェルクは解答を待つ。
「たしかに、僕は最初、君と共にでなければ推薦も叙任もできない、と言われた。
けれど、結局そうではなかったんだ。
絶対に君が居なければ叙任されないわけではなかった。
事実、こうして今、僕は君なしに騎士としてここにいる」
「……意味がわからない」
「謝らなければならない、イェルク。
僕は……騙されていたと言うつもりはないけれど、君を誘うように誘導されていた。
もちろん、君と共に騎士になれたらいい、という気持ちも少なからずあった。
でも、君は僕のために騎士になる必要はなかったんだ。
それを今日伝えに来たんだ」
一息に言われたその言葉の、半分もイェルクは飲み込めなかった。
どういうことだろう、この目の前の幼馴染は、一体なにを言っているのだろう。
イェルクはそのことで悩み、衝突し、いろいろな人とすれ違いもしたのではなかっただろうか。
そして今、突きつけられると思っていた言葉はなく、これまでのすべてはまやかしだったのだという。
「意味が……わからないよ」
リヒャルトは口を開いたが、また閉じた。
再び言葉を探すように視線を巡らせたが、それも意味がないと悟ったのか、酒の杯を煽る。
半分までに減った相手の酒杯を見て、イェルクは自分も干そうとしたが、腕が持ち上がらなかった。
イェルクが感じていたのは、怒りだ。
そして、泣きそうなくらいの、それでいてささやかな安堵。
「……振り回してしまって、申し訳なかった」
リヒャルトは立ち上がって、深々と頭を下げた。
その状態からぴくりとも動かず、それを見てイェルクは泣きそうになった。
起きたことと、取り戻せないことと、そのどちらもが大きくて、これ以上の言葉はきっと空々しくなる。
酒杯を口に運んで、三口喉に注ぎ、杯を持った両手を見下ろす。
琥珀色の液体は、飲み干すにはまだイェルクには苦くて、ちらちらと光るその滑らかな水面をじっと見る。
そのうちイェルクもこれを美味いと思うようになるのだろう。
その時の自分がどんな人間になっているのか、イェルクは少し、考えた。