居眠り姫と王子様・13
帰宅にたっぷり一時間半を要してしまい、日が傾きはじめていた。
「せっかくの公休が、焼き菓子のためだけにつぶれてしまった……」
つぶやいたイェルクの頭をザシャは雑につかんでなでる。
「ま、ゆっくりできたしいんじゃね?」
「どーせなら家で寝たかったけどね」
「しゃーなし」
笑いながら二人は馬車を降りて、御者のツェーザルのねぎらう。
イェルクは買っておいた小袋の菓子をツェーザルに渡した。
ザシャはイェルクが、ただ場に合わせて笑って見せているだけなのを気づいている。
これから訪ねてきたという乳兄弟と話すのだろう。
それが、きっとイェルクにとって大きなことなのだというのも感じ取れて、ザシャはもう一度ぐしゃぐしゃとイェルクの頭をかき回した。
貴族のお作法や習いについては、ただ見聞きしたくらいのことしかザシャには理解できていない。
けれど、乳兄弟であるなら、きっとイェルクの従者候補であったはずだ。
それが、今イェルクは妹のルドヴィカのように専属の従者を持たず、候補であった者は現在従騎士として国に仕える準備をしているのだという。
どこでそういう話になって今があるのか、シャファト家に仕え始めて四年のザシャにはよくわからない。
けれど、イェルクがザシャに求めているのは、なにもかもを把握した理解者という立場ではないことを知っている。
だから、なんかあったらそのうち自分から話すだろー、と、ザシャは特に聞き出したりはしなかった。
「お兄様、ザシャ、おかえりなさいませ!」
玄関に入るといつもの声が、ホールの階上から聴こえた。
見上げるとルドヴィカと、その少し後ろに控えるように見知らぬ金茶色の短髪青年。
「リヒャルトお兄様がみえましたのよ、はやく二人ともこちらにいらして! お話ししましょう!」
たぶん俺たちはいない方がいいっすよー、お嬢様ー、と思いながら、ザシャはイェルクとともにその言葉に従った。
****
帰宅すると、さらにまた公務が待っている。
エルザの日常とはそういうものだった。
初恋をこじらせてずっと独身であることを貫いていたジークヴァルト国王陛下に見初められ、熱烈な愛の告白を受け、電撃結婚を果たしたのは彼女が十九歳のころ。
当時、他に思いを寄せていた男性がいなかったわけではない。
ただ、その人はとても臆病で、エルザの気持ちを察していながらも手を取ってはくれなかった。
エルザはそれに、ちょっと疲れてしまっていたのだ。
あのころジークヴァルトは四十をいくらか過ぎた年で、それまで若者たちとの交友を多く持っていたエルザにとって、とても素敵に見えた。
もちろん、今でも素敵だけれど、とエルザは心中でつぶやく。
その真っ直ぐな愛の言葉は心をとろけさせて、足腰が立たなくなるくらいエルザを惑溺させた。
前の恋に未練など残さずに、王妃という重苦しい座に飛び込めたのは、ジークヴァルトの愛を確信できたからに他ならない。
件のこじらせた初恋の相手が、エルザの母であることを知ってもそれは変わらなかった。
本当に焦って何度もエルザとヴァルトルーデは違う、あれは幻想だった、君はわたしの地上の天使だ違うんだと言い訳をする姿は、エルザのいたずら心を刺激したものだった。
王宮の自室へ戻る前に、ふと思い立って国王であるその愛しい夫の執務室に立ち寄った。
王妃が来たことを近衛兵が高らかに告げる声。
そしてしばらく後に是認の返答があり、扉が開かれる。
毎度こんな仰々しいことをしなくても良さそうなものだが、伝統とはなくても平気だけれどあったら素敵なものとして、残していくべきなのだろうとエルザは納得する。
実は他の者が来室するときにこの慣習は守られていないのだが、エルザはそれを知らなかった。
「戻りましたわ、あなた」
難しい表情で書類を繰っている姿に膝を折って告げる。
「ああ、ご苦労だった、今日はなんだった?」
「ウンシュルディヒ磁器の展覧会ですわ。
新しい絵付け師が入ってから、諸外国でも高値で取り引きされるようになったとか。
いつも通りの公務です、つつがなく」
「そうか、何事もないなら良かった」
従者が茶を整えているテーブルに着き、エルザは夫に向けてにっこりと笑った。
こうすると必ず執務の手を止めて、同じ席に着いてくれることを知っている。
聞いて欲しいことがあるときにエルザがよく使う手だ。
案の定少しの後に、ジークヴァルトは手を止めてやってきた。
たまにこうして息抜きをさせるのも妻の役目だとエルザは勝手に思っている。
「どうした、なにかあったか」
そう尋ねる夫は、たしかに以前より白髪が目立つようになったけれど、それでもかっこいいとエルザは思う。
「帰りの馬車の中で、アディと話しましたの。
シャファトのお家のお嬢さんのことを」
エルザはジークヴァルトの茶に砂糖をひとつ入れてやった。
自分にはミルクをさす。
「そうか」
「アディがお披露目のエスコートを、ということでしたでしょう?
わたくしもしばらく会っていないですし、顔合わせには参加したく思いますのよ」
「ああ……そのことだが」
茶を口に運んでから、ジークヴァルトは言葉を続けた。
「午前中に、ヨーゼフが来てな。
兄がエスコートをするとはりきっているそうだ。
なので、話はなかったことにしてくれ、と」
「まあ!」
エルザは驚きのあまり、カップとソーサーで音を立ててしまった。
「あの! オティーリエのように貴族位の常識がないあの子が! 妹のエスコートをすると言ったのですか⁉」
まあ、まあ、とエルザが驚き喜ぶ姿を、ジークヴァルトは珍しそうに見やった。
「そうだな、今は警らをしているとは聞いている。
そんなに嬉しいのか?」
「それはもちろん。
生まれたあの子を見て、わたくしも赤ちゃんが欲しくなったんですもの。
恩人だし、わたくしにとっても息子みたいなものだわ。
早くお嫁さんにしてちょうだいって、あなたの寝所を訪ねたのもその日の内よ」
ジークヴァルトは咳払いで赤面をごまかした。
従者はなにも聞こえていないかのように壁際で控えていた。
電撃婚と囃し立てられた二人の結婚だが、そうなった経緯として、ジークヴァルトが『待て』をできなかったのではという下世話な説が巷では噂されている。
****
「ああー、この時機でいい写生ができたー! よかったー!」
ユーリアは帰宅し、持ち歩いていたノートに描きつけた絵を眺めながら、満足の声を上げた。
もちろん完璧な絵ではないが、十分に思いを深めることができたので、『いねむりひめ』の描写に厚みが出るだろう。
王宮の二頭立て箱型馬車を見られたのは本当に良かった。
それに近衛兵の服装も、以前中庭で写生させてもらったときのものとは違い、さらに華美なものだった。
ユーリアは忘れないうちにと写生帳を取り出し、見たことを脳内で反復しながらもう一度コンテを握った。