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作者: 丁稚の助



身が千切れるような後悔の念に襲われ、家を飛び出した。時間は夜の9時をまわり、辺りはすっかりと夜の静寂(しじま)を思わせるように佇んでいる。



 街灯の少ない田舎道を牛のごとき悠々閑々な速度で歩を進める。自分の他に人の姿は無く、ただ夏の虫の静かな鳴き声だけが響く道々は、荒れ狂う私の心をゆっくりと沈めていった。

 暗闇の中、ぼうっと光る姿を感じる。次第にそれは人の姿を帯びていき私の前に立ち止まった。それは幼少期の私だった。父が習っていたという空手を自らも習い初め、嬉々とした表情で毎日を過ごす私そのものだった。昔は多くの成績を残し周囲からちやほやされたものだ。そんな自分に浮かれながらも、昔より「礼に始まり礼に終わる」という精神は叩き込まれた。この年になりこの「礼に始まり礼に終わる」という精神は様々な機会に対する“感謝”という意味合いが強いのではないかと感じる。そう感じるのも勿論、その精神を学び育ちながらもそういった人との縁において失敗を経験してしまったのだから当然だ。ヒトは失敗から学ぶのである。



 暗闇を歩き進む私のすぐ横を、歩幅の差による遅れを取り戻すかのように時折小走りになりながら幼少期の私はついてくる。この純粋な子どもの心が少しずつ曲がった方向へ進んでしまったのはいつ頃だろうか。




今こうして夜の世界に飛びだしてきた理由は他でもない、自らの元妻に対する情念によるものだ。ハッキリ言って情けない。女々しいという言葉がとても似合う男だろう。奇しくも女々しいという言葉自体、ほとんど男性にしか使用されていない言語であるが。兎にも角にもこの矛先の定まらない想いを胸中で幾多となく反響させ、既に体は内側から崩れ去ろうとしている。どうして過ぎた日々を、過ぎ去りし人を想起するのか。何がそうせしめているのか。自分は過去のこの縁に感謝できていなかったのだろうか。はたして「礼に始まり礼に終わる」の精神はどこへいったのか。多くの疑念が今度は頭の中を反響する。この痛みに耐えきれなかったが故に私は家を飛び出した。この静かな夜に全てが昇華されてしまうことを望んで。




どのくらい歩いただろう、いつの間にか眼前は漆黒の闇で包まれ、世界における自分の所在が全く分からなくなってしまった。しかし未だ小さな私は遅れることなく私について歩いていた。  

すると突然目の前を青白い光が包んだ。スクリーンのように何かを映し出し始めた。それはおそらく、いや間違いなく私の記憶だった。現在の私の自我を形成する因となった多くの出来事が、走馬灯のように映し出されていく。次第にスクリーンの中の私は成長し、現在と変わらぬ容姿を表し始めた時分、彼女の姿が移り始めた。忘れ得ぬ数々の記憶の中に現在と少し異なった自我を振り回す自分の姿が映る。そう私は、自分の理想を追い求めるが故、愛すべき妻を手放してしまった。思い通りにはいかない妻に対して、自分が変わろうとは思いもせず、相手に対して変わってくれの一辺倒で、ただ私の理想を啓蒙しようと躍起になるだけであった。そして挙句の果てに、今とは違う理想のパートナーとの“縁”を求め、別れを決意した。




あれから3年が経った。失って気づく愛とはまさにこれだ。そんなものなら最初から欲しくはなかった、と言ってしまえば最後、追従するかのごとく後悔と憎悪が付きまとう。何が縁を大切にしている、だ。挑戦と探求という意味合いの強い“縁”に振り回され、勝ち取ることができていた1つの“縁”に対する有難味が希薄になっていることに気づくことができなかった。



幾らか死人のような心持ちでこの青白い光に包まれ、まさに放心といった状態で目の前を見つめる。気づけば横にいた小さな私は姿を消していた。代わりに現在の自分が前から歩み寄ってくる。今にも泣き出しそうにクシャクシャになった顔でそいつは私にこういうのだ。

「今ある幸せの価値を忘れるな」

「この惨憺たる姿を忘れるな」と。


                  








 白い壁で覆われた小さな部屋で目を覚ました。眼も顔も涙でぐしゃぐしゃになり、体は小刻みに痙攣している。ふと眼下に映った全身には無数の機械が取りついていた。

そしてぼやけた視界の中で白衣に身を包んだ男は哀切に満ちた顔で私を見ながらこう言った。

「これが、奥様と離婚を決断してから迎えるであろう3年間です」と。


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