表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

隣の電子辞書

作者: 狗山黒

 本日の三時間目は、古文である。もちろん、予習はしてあるので、古文の現代語訳はばっちりである。今日は、先生に当てられないはずだが、もし当たっても平気ではある。しかし、もし当たるとして、私の訳と周りの訳が違っていたら、ということも十分に考えられる。そうでなくても、古文の授業に古語辞典は必要である。しかし、しかし、だ。今日、私は辞書がない。やけに鞄が軽いと思ったら、辞書がなかったのである。多分、昨日予習してそのまま置いてきたのだ。どうしよう! 

 辞書がないくらいでこんなに困ることはないのかもしれない。だが、私は優等生で通っている。中身は、断然ちゃらんぽらんなのだが、見た目は真面目ちゃんなのである。その、私が、忘れ物など、許されない! 許されるはずがない! 許されていいはずがない! 常に完璧でなければ私のプライドが許さない!

 これだから、電子辞書がほしいのだ。家では、紙の辞書を使う、という風にすれば忘れることなどないのに! なぜうちの母は電子辞書を買ってくれないのだ! 従兄弟の健太郎は持ってるのに! クラスの八割は持ってる(私調べによる)のに! お母さんのけち! 

 だからといって、他のクラスに借りに行くには、時間がない。そもそも他のクラスに友達なんていない! クラスの子に借りるわけにはいかない。寝てる子にでも借りればいいのだけど、そんなに仲良くない。神は、私にどうしろというのだろう。

 隣の子に見せてもらうという手もある。だが、私にそんな勇気はない! 断じてない! 私は一番仲のいい友達に消しゴム一つ借りられない、チキンである。「だが、断る」などと言われた日には、恥ずかしくて死ぬ。羞恥心で死ねる。大げさなのは分かっているが、それでもできんものはできん! 

 だいたい、一番仲のいい子にさえ、遠慮している私が、自分の、好きな子にそんなことができるだろうか、いや、できまい。そう、これが古文で習う反語である。……そんなことはどうでもいい。とにかく、私に手段はない! 

 私の隣の子こそ、私の好きな子なのである。ほぼ全ての授業を寝て過ごす男、そう三村進治君である。彼が起きているのは、正直体育くらいである。この高校は進学校だが、それで大丈夫なのだろうか。

 どこに惚れたかと言えば、はっきり言って不明だ。しかし、恋というのはそんなもの。恋は盲目、突き進め私! まあ、私はまったく突き進んでいないわけだが。席が隣になったのもまったくの偶然なわけで。誰にもこのことを喋っていないから、協力もしてもらえないし、そもそもこんな恥ずかしいこと話したくない。完全な片思いだし、実る可能性はマイナスレベル。

 いやいや、そんなことより、とりあえず、三村君のことより古文の授業という壁をどう乗り越えるかがこれからのポイントである。人生のターニングポイント!

 だがないものはない! 借りる勇気もない! もう諦める! 切り替え大事、超大事! 私は辞書なしでこの古文という授業という名の難関を乗り越えてみせる! 


 

 先生が来た。私は机の上に教科書、ノート、筆箱をきっちり置く。一ミリのずれもないくらい、きっちり置く。さすが、私。さすが、優等生。背筋をのばす。眼鏡はない。見えない。コンタクトもない。見えない。

 そもそも、目が悪い癖に眼鏡もなくコンタクトもなく、チビの私が一番後ろの席で、その前にクラスで三番目に大きい子がいるとは、一体果たしてどういうことなのか。神は、私をどうしたいのだ。

 眼鏡は煩わしいし、コンタクトは怖い。そのため、真面目に授業を聞き、予習をきっちりするようになったのだ。そうでもないと、ついていけない。少なくともぼんやりと、ぎりぎり文字が把握できるくらいは見えているのでなんとかなる。いや、眼鏡を買えばいいだけなのだけど。

 授業が始まる直前に、三村君は教科書を持って、教室に入ってきた。いつも通り派手な黄緑のベルトをして、ズボンはまくってある。深緑のサンダルを履いている。地震がきたら、きっと死ぬ。おしゃれとは、分からんものである。まったくもって、解せぬ。

 三村君は隣の席に、どかっと座る。座った瞬間に欠伸。そんなに眠いのだろうか。さっきの授業も寝てたのに。

 彼が隣に座るだけで、こっちはドキドキするのである、いい加減慣れたはずだが。きっと彼は私がこんな気持ちでいるだなんて気づいてはいない。だって、私は優等生。そんなことは誰にも知られないのである。あ、優等生は関係なかった。

 先生が「始めるぞ〜」と言い、私は教科書を開く。三村君は寝る。いくらなんでも早すぎる。お前はのび太か。

 彼の眠る速さはまさに神業である。神はここにいたのか。どうしてばれないのかが不思議だ。先生達は、見て見ぬふりでもしているのだろうか。

 彼を見ていると眠くなる。三村君はとても気持ちよさげに寝る。だが、私は寝ない。私は優等生だからだ。それに、机で寝るのは寝づらいし痛い。だから、寝ない。

 先生に当てられた子が現代語訳を読み始める。彼女からなら、私は当たらない。数えてみたけど、当たらない。

 先生は、板書をしていないようだ。まあ、この先生は板書をしないので有名で、だから結論が分からない先生でもあるのだが。

 私は開いた教科書とノートを見比べるのに忙しい。もう一度、現代語訳を確かめるのだ。何かの間違い、私のところまで誰も答えられないとかいう到底ありえない間違いとかが起きた時のためだ。事前の準備は、とっても大事。保身のためには、とっても大事。

  「小田!」

 突然、先生に呼ばれた。まさかの事態か、と思って顔をあげると、まさかの事態だった。

 先生の顔が電子辞書だった。

 え、なんで。私、何かしたっけ、私魔法使いとかだっけ。え、何。何が起こったの? 天変地異? 驚天動地? 私が動転してるの? 何事なの? 東海地震でも襲ってきたの? 私が現実逃避してるだけなの? わけわかんない。誰か説明して。「説明しよう!」って言ってナレーションの人、説明して。

 神様の仕業か? 私が電子辞書をほしがったあまり、こういうことになったのか? いやいやいや、それはない。それはないわ。

 三村君に聞こうとしたけど、寝てる。しかし、クラスがざわついてる様子はない。私にしか見えてないのか。それとも、みんな同様に動揺(駄洒落じゃない、断じて駄洒落じゃない)してるのか? 隠してるのか? 

 いや、こういう時こそ、冷静になるべきだ。さあ、深呼吸。吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いて―。少し、落ち着いたような気がしないような気がしないかもしれない気がする。……やっぱり、落ち着いてなかった。

 しかし、ここで優等生の私が、恥をさらすわけにはいかない。せめて、落ち着いて「まるで動揺してません」という顔をし、やり過ごすのだ。頑張れ、私! 行け、私! 

 「突然だけど」

 よくよく聞いてみると、というかよく聞かなくても先生の声じゃない。先生にしては高いしやけに機械っぽいというか、電子辞書が英語を読み上げてくれる時の声そっくりである。先生は身も心も電子辞書になったのだろうか。

 それに、先生にしては話し方が馴れ馴れしい。まるで、クラスメイトみたいな、そんな感じ。

 先生は、私の方に向かってくる、なんでだ、私が遅いからか。動揺してるのがばれたか。

 おかしなことに、誰もこっちを向かない。いつもなら、一人くらいは見るのに、みんな優等生になったのだろうか。それにしても、三村君は寝たままである。

 さらにおかしなことに、先生のベルトは派手な黄緑である。黒いズボンは捲し上げてあり、すね毛が見えてる。サンダルも、いつもと違って深緑のものだ。まるで、三村君である。

 「ここの部分を現代語訳してみて」

と先生(仮)が話しかけてきたわけではなく、画面に文字が表示されていた。私の教科書を指さしながら表示する。これ怖い。

 「できないの」

と画面には表示される。まるで音が出ないので怖い。恐怖政治ならぬ、恐怖授業。

 とりあえず、私はあわてて首を振り、現代語訳を読む。予習してあってよかった。

 本文の後に続いて現代語訳を読むのだけど、先生(仮)がじっとこちらを見ていて、気まずい。彼に目はないのだけど。

 「恋ひすてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか。恋をしているという私の評判は早くも広まってしまったなあ、人に知られないようにひそかに想い始めたのに」

と私が読むと、先生(仮)の顔(?)には笑顔が広がった。というか画面に笑顔の絵が描かれてあった。

 そもそも、これは先生か? どっちかというと、体の生えた電子辞書、という感じ。知ってる人じゃない。暫定彼は先生ではなく、辞書なのだ。先生は身も心も電子辞書になったのだ。しかし、それにしたって三村君そっくりである。これ、私の願望なのだろうか? 

 辞書の人は、黒板の前に戻ると

「小田さん、大田さんの席に座って」

と言った。大田さんは私の席の列の一番前の人だ。辞書さんの気遣いは嬉しいかもしれないのだけど、正直前は嫌だ。ていうか辞書さんのすぐそばっていうのがなんか嫌だ。

 しかし、とりあえず先生の代わりだろう辞書さんの指示に逆らうわけにはいかないので、しぶしぶ前の席に行く。大田さん、今日は休みだった。

 私が席に座ると、一番の前の列の人達がいなかった。私はクラスメイトの出欠まで記憶してないけれど、こんなに人が休んでいたはずはない。後ろに人がいる気配もない。少し振り返ってみると、誰もいない。寝てたはずの三村君もいない。なんでや。

 マンツーマン授業はさすがにいやだ、いやすぎる。だが、優等生の私はそんなことおくびにもださない。別に相手は先生ではないけれど、妥協は許さない、私が。

 「これから、図書室へ行こうと思って」

と画面には表示されている。先生、怖いです。

 また、突然と思ったのはまあいいとして、なぜ私だけ残されたのか。叱られるのだろうか。私、何かしたかな。今日は辞書忘れたくらいで、何もしてないはずだけど。あれか、みんなを追い出したのは私を一対一で叱るためか。何を、言われるのだろうか。早く言ってほしい。顔から血の気が引いてく。優等生の私が、この私が叱られるとか。死にたい。

 「でもちょっと、小田さんに話したいことがあって」

と辞書さんは表示する。叱られるのか。でも辞書さん、あなた話してないです。強いて言うのなら、文字を打ってます。

 「驚かないでね」

と表示される。正直、あんたの状態の方がよっぽど驚きだよと言いたい。が、言わない。

 辞書さんはしゃがんで机の上に置かれた私の手を握った。なんだこれ、叱るんじゃないのか、叱ってくれるんじゃないのか。この人手なんか握ってどうするつもりだ、そのまま叱るのか、新手の拷問か。なんで私緊張してるのかな。なんで汗かいてるのかな。なんで鼓動が早くなってるのかな。このままじゃ早死にするんだけど、やめてほしいのだけど。どうしよう、蒸発したい。

 引いていった血が戻ってきて顔が火照る。手汗でノートが湿っていく。文字が上手く書けなくなるから、早く手を放してほしい。

 確かに男の人に(人かどうかは怪しいけど)手を握られるなんて父親と従兄弟と弟以外にはない。それも恐らく同年代(三村君そっくりだから)なんて従兄弟以外にはない、はず。だから、緊張するのとかは分からないでもないけど、これは異常だ。まるで好きな人を前にしてるみたいな。私、辞書さんを好きになった覚えはないけれど。あれか、辞書さんが三村君そっくりだからか、顔と話し方以外。なんてこった。

 きっと私の顔は真っ赤で、まさに緊張してます、という風に違いない。恥ずかしい、穴に入って埋まりたい。すごく恥ずかしい。緊張のあまり、辞書さんが三村君に見えてきた。もう末期だ。余計緊張してきた。私馬鹿だった。

 「俺さ」

「あ、三村進治なんだけど。信じられないかもだけど」

とか表示しだした。どう反応するべきだ。知ってると言うべきか、驚くべきか、同姓同名すごいと言うべきか、でも画面の下にCATIOって会社名が入ってますって突っ込むべきか、ふざけるなと怒るべきか。私は混乱した! 緊張しすぎておなか痛くなってきた。涙でそう。

 「俺、実は…………」


 

 「今日はここまで、残り訳しとけよ」

 先生の声で目が覚めた。気づくと寝ていた。さっきのは夢だったらしい。顔を上げると、先生の顔はちゃんと、人間の顔だった。ちゃんと先生だった。

 授業中に本気で寝てしまうなんて、私史上最大の恥だ! その上、授業が終わるまで気づかないとか……今世紀最大の失態だ! 過去に戻ってやり直したい。

 私は今日も真面目に授業を受けました寝てませんという顔をしつつ、机を片付けていると、なぜか私の机の上に電子辞書があった、それもCATIO製の。誰のか分からないけど、広辞苑が表示されている。人が調べたものなんて見るものじゃない、と思ったけどやっぱり目に入った。

 調べてあったのは、『好き』という言葉だった。誰のか知らないけれど、すごい言葉を調べたなと思う。誰のや。

 

「ごめん、それ俺の」


 隣から声がした。

 隣を見ると、三村君は知らないうちに起きていて、顔を真っ赤にして口元覆って、もう片方の手をこっちに差し出していた。

 私の顔も真っ赤だと思う。さっきの通り、私は彼が隣にいるだけで動悸が激しくなるのである。つまり、喋るとかもってのほか。

 でも、これが彼のだとすると、この言葉を調べた動機を知りたくなる。私の机に置いてあった経緯とかどっちでもいい。きっと誰かのことが好きで、なんとなく調べたんだと思う。すごく悲しい。とても悲しい。なにこの勝負の前に負けた感じ。告白前に失恋かよ。私一人に始まり、私一人で終わるんですか。学級委員、早急な席替えを要求します。すごく消え去りたい。冗談じゃなくて涙でそう。

 震える手で電子辞書を渡す。今、ここで叩き割りたいとか思った。

 三村君は顔を真っ赤にしたままそれを受け取った。耳まで赤かった。

 私の青春はもう終わりか。私の人生も短かったな。乙女は命も短ければ、恋も短いのか。初恋は叶わないものなんですね、神様。

 だいたい、この私が好かれるなんてなかったんだ。プライド高いし、人付き合い下手だし、優等生ぶってて感情出さないようにしてるし。私が好かれるなんてただの希望的観測だったんだから。

 なんかもう諦めた。顔の熱も引いて行った気がする。切り替えは大事だよ、うん。もう忘れよう。勉強一本になろう、優等生らしく。私にはそれがいい、それでいい。……やばい、死にたい。

 心の中で号泣しつつ、机の上を片付け、次の時間の用意をする。そういえば、さっき三村君の前でもろに顔赤くさせてしまったな、失敗だ。ばれたかな。それこそ、消え去りたい、埋まりたい。

 すっと、隣から小さな紙が回ってきた。なんだろうと思いつつ、なんか泣きたくなってきた。諦めようと思った矢先に彼からなんか回ってくるとか、なにこれいじめ? 神様、私をいじめて楽しんでるんですか?

 紙を見る。どうせ、私には関わりないだろうけど。


 ……顔が赤くなってく。別の意味で消え去りたい。どうしよう、冗談抜きで蒸発したい。むしろ今なら蒸発できそう。なんか、すごく浮き上がりそう。ヘリウムガス突っ込まれた感じ。やっぱり乙女の命も恋も短くないんですね、初恋は叶わないものじゃないんですね、神様。神様、万歳!

 顔が赤いのはどうにもならないので、せめてにやけるのを抑えようと口で手を、じゃなくて手で口を隠しながら返事を書いて三村君に渡した。

 嬉しすぎて彼の顔を見てる余裕なんてないけど、きっと真っ赤な顔してると思う。多分、首まで真っ赤。

 なんか恥ずかしくなってきて顔隠して笑ってると、友達の美華ちゃんが話しかけてきた。「よかったね」って、なんか全部悟ったみたいに。

 え、どういうこと。

 私が嬉しそうなのは見りゃ分かると思うけど、なんで全部知ってますみたいなのこの人。隣を見ると三村君は彼の友人達にからかわれてる。三村君、やっぱり顔真っ赤。友人の一人が「これでお前もリア充だな」って。なんで知ってる。

 周りを見渡すと、クラスの人達のほとんどがこっち見てにやにやしてやがる。なにそれ、どういうことなの。

 美華ちゃんが肩に手を置いて、「そういうことだよ」と一言。

 「え?」

 「え?」

 「えぇえぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 

 もう死にたいと思った。私って感情全然隠せてなかったんだね、今までの困惑も動揺ももろばれですね。さっきの夢は予知夢か何かだったんですね、電子辞書さん。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ