息吹の寝床
ダイアモンドダストという現象がある。氷点下10度以下、大気中の水蒸気が昇華して、小さな氷の結晶となって降る。だからそんな現象が起きる地域では、大きく成長できた雪はむしろ暖かさの象徴といえる。
飴玉くらいの雪片が、フロントガラスを僅かずつではあるが埋め尽くそうと降っていた。車中では女が震えていた。彼女の視線の先、ダッシュボードの上には指輪があった。それは彼女が左手の薬指にはめているのと同じデザインだった。指輪の斜め下のヒーターから生温い風が垂れ流されている。彼女はこうなることを心のどこかで予期していたが、それでも震えがおさまらなかった。べっとりとぬめる赤錆色を纏って、ナイフは彼女の膝かけを汚していた。彼が段々と会う回数を減らしていったことから、こうなることは分かってはいたのだ。ただ受け入れられなかった。確信を押し殺しながらもはじめから終わりまで彼女は計画的だった。まさかこうなるなんて、という何度目かの虚ろな言葉を彼女は口にした。他人から見ればつまらないことなのかもしれない。ありふれたことなのかもしれない。
もう、君とは会いたくないんだ。そう彼は言った。どうしてなのか分からなかった。だってこんなにも愛し合っているのに。
「電話をかけたり、僕の引越し先を同僚に訊いてまわったりするのももう勘弁してほしい。君と僕とは、付き合っているわけじゃないんだから。」
と彼は苛々しながらも冷静な口調で断言した。そして彼女がつい先ほどプレゼントした指輪を突き返した。付き合うってどういうことだったかしら、と彼女は考えた。愛し合っているのなら他に何の証明も必要無い。付き合わなくても十分なのだ。彼が何を言おうとしているのか彼女には回りくどすぎて分からなかった。
「つまり、何?」
思わず彼女は訊いてしまった。これを訊いたら彼女を支えているものが失われるのは分かっていた。失言だったと彼女が振り返る間もなく彼は答えた。
「もう一切の関わりを持ちたくないってことだよ。」
彼に向かっていた愛情の矛先が彼女を向いて、ずたずたに引き裂いた。流れ落ちた血が彼女の頭から思考を抜き去った。
「つまり……」
思考が抜き去られた後に残っていたのは予期していたとおりの、受け入れたくない現実だった。
彼女は泣くのを止めた。これからどうするのか、答えが見つかった。マメが潰れた手で後部座席からスコップを取り、再び車外に出た。彼女が震えている間に降った雪は、ブーツが沈むほど深く積もっていた。車中とは違う、寒さに対応するための震えが彼女を揺さぶった。きっと彼も同じ思いをしているに違いない。早く掘り起こして、それから警察に行こう。赤錆を通り越して黒くなったナイフは、膝かけにくるんで無かったことにして、一刻も早く彼に謝りたい。動かなくなった彼の薬指に同じ指輪をはめることは許されるだろうか。彼女は立ち止まり、車の方を振り返った。のっしりと雪を乗せて、それでも車はそこにあった。指輪はその中にある。しかし彼女は再び、前へ歩いて行った。木の立ち方から、ここに埋めたはずだと彼女は雪をどかし始める。埋めた時に雪は降る気配も見せなくて、枯葉の腐った後の湿った土があるだけだった。今、その地面は雪に覆われて、傷を癒されているかのように押し黙っていた。彼女はスコップでその肌に傷をつけていく。ぱっくりと白い斜面に穴が空き、黒い地面が顔を出した。しかし土は一度掘り起こされたとは思えないほど固い。もう少し下だったかしらと彼女は再び雪をどかす。どかしている間、一つ目の傷はしんしんと降る雪が塞いでいった。二箇所目も違った。しかもこんなに木に近かったとは思えない。もう少し、あの木とこの木の間くらい、そう、この辺に……。体が熱くなってきた。彼女はガウンを脱いで、再び雪にスコップを突き刺した。雪は小さくなっていくが降り止む気配は無い。針葉樹のてっぺんには鈍色の雲が広がっている。そうして雪をどかし続ける女をただ観察している。白い森の中、すべての植物と動物が眠りについている中で、盛んに動き続ける彼女は異端だった。彼女は腕まくりをした。なぜかどこを掘っても掘った跡が見つからない。早く彼をこの冷たい世界から救い出してあげたいのに。彼女はセーターを脱いだ。体に熱が篭っている。溜まった熱は彼女の中の暗い感情も明るい幻想もすべて溶かして一緒くたにして、溶鉱炉から出てきた鉄のようにとても手をつけられないものにしてしまった。混ざり合うことで彼女の中からは現実感も希望も奪われてしまった。彼女はただひたすら雪をどかし続ける。雪は彼女の掘った穴を、まるで最初から手も触れられていないかのように覆い隠してしまう。彼を埋めたという事実も無かったかのようだ。彼女には、今掘っている場所が既に傷をつけた所なのかも分からなかった。彼女の身体は燃え上がるようで、もう一枚服を脱いで下着だけになりたいくらいだった。四肢の先端に血が通わず、腐ろうとしていることにも気付いていなかった。この辺りだったはずだ、彼女はスコップを突き立てて、ぐるりと周囲を見回した。そう、間違いない。掘っていて転んだ時にスコップが樹皮にあたって幹をえぐったのだ。彼女のいる場所よりずっと後方で、上に雪を抱えた枝が大きくしなり、限界を超えて積もった雪を払い落とした。静かな森で雪花が崩れ落ちる音は不意打ちに彼女の耳に響き、驚かせた。しかし音は、何度でも雪に吸い込まれていく。振り向いた彼女の目には動くもののない垢の無い世界しかなかった。彼女に疎外感を覚えさせるほどの完璧さで、彼女は自身の心の傷さえも忘れた。たった一人の人間に拒絶されるだけでその存在ごと消してしまうほど臆病な彼女は今、自身が隔絶されていると感じながらもそれに恐れを抱くことは無かった。雪は彼女の中に根付いている、居心地の悪さも吸い込んだ。その居心地の悪さは人ごみの中でも、誰もいないビルの屋上でも職場でもしつこく付きまとっていたというのに、今の彼女には居場所を思い出させた。居場所というより終着点だ。そこに当然在るべきはずだという感覚を彼女は初めて経験した。再度彼女は車のある方向を見た。いつでも戻れる場所に車があることを確信して、彼女は再び雪をどかしていった。
雪は容赦なく降り続ける。
掘っているのか、埋めているのかすらも分からなくさせる。雪が彼女の周りを落下していく。彼女はもう寒さを感じていなかった。ただ彼を暗い土の中という牢獄から解放することだけを考えていた。しかし空から見ていると閉じ込められているのはむしろ彼女だった。雲に隠されていた太陽が沈もうとしている。ただでさえ暗い森の中がさらに光を失っていく。大地に影を落とす雲の下で唯一雪だけが真っ白で何にも染まらずにいた。彼女の心の方が雪に染められつつあった。
(真っ白な雲からちぎれてこんなところまで落っこちてしまったんだね。)
彼の心臓を刺した時のあの衝動はどこへ行ってしまったのだろう。彼が自分から永遠に離れようとしていることに気付いてしまった時の、あの貫かれるような痛みはどこへ行ったのだろう。熱くて熱くて仕方が無い。雪の布団に飛び込んだ。じわじわと冷たさが伝わってくる。動くのが億劫で、そのまま彼女は動かなくなった。体温を残さず雪に奪われていく。彼女の肉体はもう、体温をつくり続けることに疲れてしまっていた。雪は穏やかに、母親が子どもを抱くように、熱を引き受ける。彼女の肉体の望みをある意味叶えていた。そうして最期の温もりが去った時、雪の下からこんな声がした。
「君のからだは冷たいけれど、ここはとても温かだ。」