灼熱のドゥーベ海 その1
《ドゥーベ海 商船 甲板》
戦闘海域というのに、堂々とその傍らを横切ろうとした一隻の商船は、当然ながら、不審船としてナルムーン共和国海軍に拿捕された。
水中から突如現れた青い亡霊なる機兵は、オルカのジャンプの如く、商船の甲板飛び乗り、険悪なイエロートパーズの双眸をブリッジへと向けた。ウルトラマリンとナイルブルー、そしてゴールドフレーム。亡霊なる機兵と言えばゴーレム的な重量感のある体格だが、この青い機兵は真逆だ。シャープなで俊敏性が窺えるフォルム――気高く、凛とした印象を与えるフェイスマスクは彼の気性の表れなのか。青い機兵は海の神の如く彼らの行く手を阻んだ。
『我が国の商船がなぜここにいる? 渡航禁止命令が出ていたはずだが』
ブリッジを臨み、全長4メートルの体躯を静かに動かし、彼はロングソードを引き抜いた。
答えないのならば、沈める。
無言の圧力に、商人達は一斉に甲板に現れ、彼に慈悲を求む。
「も、申し訳ございません、リヴァイス様! 我々はミザール商工ギルドの者にございます! 主たる魔導騎士団団長、パウロ・セルヴィーの命により、急ぎ帰国命令を受けておりまして――」
『手形を見せろ』
「は、はっ!」
商人は急いで主から貰い受けていた水晶盤通行手形を、リヴァイスに見せた。すると、リヴァイスの身体が青い魔力光を放ち、手形に仕組まれた魔法を発動させたのである。
【免状 当船員はミザール魔導騎士団パウロ・セルヴィー直属の使節であると証明す。友軍はその自治権を以って、彼の者の通行を妨げることを禁ず。異議申し立てあらば、直接、当魔導騎士団へ申されたし候】
光の文面がリヴァイスと商人達の間に現れた。ナルムーンの魔導騎士団にのみ許された特殊魔法で解読できる記憶デバイスである。当然、その精巧さ故に複製どころか、再発行も難しいと呼ばれる代物なのだ。
これを持っていると言うことは、紛れもなく彼らが同胞であると、リヴァイスは了承し、彼らに手形を仕舞うよう命じるが、
『あのキチガイめ……能天気なものだ!』
苛立ったように、彼らのパトロンへの暴言を吐き捨てた。
すると彼は、そのウルトラマリンの背中を向け、海の中へと帰る素振りを見せる。そして、安堵する船員達に、こう忠告をつける。
『これ以上戦闘区域に近かれては迷惑だ。手助けしてやる……潮の流れに任せて、余計な舵を切るなとブリッジには伝えろ』
「はっ!」
『水星よ、彼の者を送り届けん――《せっかちな水先案内人》!』
フリーの左手が空を切る。途端、リヴァイスの魔力が船体を包み、うねる気流が海面に風紋を残した。すると、船は一人でにその船首の方向を転換させ、走り出したのである。
甲板にどよめきが上がる。
『さっさと失せろ』
彼はそれ以上何も言うことなく、大海原へとジャンプした――すると、商人達にとんでもない光景が飛び込んだ。
リヴァイスは華麗な宙返り後、水飛沫もあげず海面に立ったのである。あんぐりと口を開けて、彼らはその天地がひっくり返ったような現象を眺めていたが、リヴァイスはさも当たり前のように、アメンボよりも軽やかなダッシュを切り、混乱する戦闘杭域へと走り出したのである。
世の中には、理解の範疇を越えた出来事が存在する。
商人達が外れかけた顎を戻していると、突如耳に届いた大砲の恫喝に、慌ただしく持ち場へと散開した。
商船が去った後、その海域は激しい魔力の激突で、酷暑がさらに熱を増すこととなる。
何せ、僅か5㎞先では、サンズ教皇国とナルムーン共和国の海軍が実に十数年ぶりの艦隊戦を繰り広げていたのだから――
◆ ◆ ◆
サンズ教皇国とナルムーン共和国の間には、ドゥーベ海と呼ばれる大洋が存在する。各国の主要貿易ルートなる一方で、敵対する二カ国間の全面的な進軍を阻み、世界の平穏に努めてきた母なる海である。
だが最近、そのドゥーベ海の最西端に、とある海上遺跡の実在を確認したと、大陸の考古学者達は沸いていた。
古よりその存在を説かれながらも、誰一人、発見したものがいなかった、伝説の海上要塞遺跡――〈デネブ〉の出現である。
これは偶然の発見であった。この海域は元々、船舶が消息を絶つ事件が多発し、魔の海域として忌避されていた場所なのだ。だが、たまたまそこで居合わせてしまった、サンズとナルムーンの艦隊戦が発端となり、この海上遺跡の存在が表沙汰となった。
結界的に双方の戦艦は撃沈。しかし、それは敵の砲撃によるものでじゃなく、デネブの結界に船体が突っ込んだためと、生還者は話した。
命辛々脱出した彼らが、荒れ狂う波に揉まれて目にしたのは――海に浮かぶ城。海と空の狭間すら曖昧に見えるこの世の果てに、何千年もの間、人の手を拒み続けた孤高の城塞はついに人々のその姿を見せた瞬間である。
この報告を受けた学者は最先端の魔導工学を用いて一斉にその海域の分析を開始。結果、どうやら強力な結界が広範囲に張られていると判明した。
だが、その防御壁を突破するには魔導経典の力を借りるしかなかった。
想像を絶する魔力に、大陸の学者達はこぞって同じ意見を提唱したのである。
これにより、二カ国間の争いは一層激化した。
そして、盗賊団スターダスト・バニーにより統一された魔導経典を携え、サンズ教皇国はナルムーンに対し完全優位に立つため、デネブへ艦隊を走らせたのである。
《サンズ艦隊 旗艦》
至近距離を航行していた味方の戦艦から火柱が上がった。ナルムーン軍による砲撃が動力部に直撃したのだ。
崩壊した船体が儚くも海へと飲み込まれる。あれだけの戦艦でもいつか海の藻屑と化すのだと、作戦参謀エミリオ・ジャスウィックは焦燥感に駆られる自分にそう言い聞かせた。
「デネブまで、間もなくです。魔導経典でデネブの結界を破り、その中に逃げ込んでしまえば、奴らは負けたも同然」
作戦司令室に陣取るお荷物――もとい、サンズ魔導正教古典派の重役司祭達はエミリオの言葉に満足そうに頷いた。
「さすがだ、ジャスウィック中佐。加えて、こちらには魔導経典がある……もしもの時は貴が経典を使用し、ナルムーン艦隊を蹴散らせればいい」
「そうそう! 分家とは言えど、貴殿はノーウィック直系の魔導師。魔導経典を使う資格は十二分にある」
「恐れ入ります」
老人達の楽観論を不快に思いながらも、エミリオは真面目な好青年であることを努めた。
そもそもエミリオは老人達のお気に入りであった。この白と黒の軍服に輝く中佐の襟章も、すべて彼らのご機嫌を取り続けた成果なのである。
歳は28。赤茶色の髪を7対3にピタリと分け、古風な顔つきと礼儀正しさを弁えた男だ。人望も厚く、サンズ魔導大家当主と言う地位もある。そんな絵に描いたような騎士を嫌う石頭はいるはずなかった。
彼は徐に、卓上の七芒星魔法陣の中心に置かれた書物――正真正銘の魔導経典に視線を落とす。
その折、作戦司令室にまた砲撃による爆音が届いた。今度はナルムーンの戦艦が沈み、サンズ艦隊は善戦を喫している。
だが、そろそろ魔導師である自分が働かなくてはならない。無駄話も頃合いと、彼は段取りを説明することとした。
「……デネブの結界出現地点に到達した瞬間、私は魔導経典の力を解放します。そうしましたら、後方で控えているノーウィック少佐の艦を陣の中央へと呼び、我々のデネブ突入を援護してもらう次第です」
エミリオが作戦盤の駒を移動させると、老人達は鼻で笑った。
「あのノーウィック少佐に尻を守ってもらうなど、気が引けるな!」
「そもそも彼は引退した陸の猿だろ? なぜ、今回の作戦で呼び戻したのだ」
「恐れ入りますが、フェンディ・ノーウィックは我が国最強の遊撃魔導部隊〈ブラッド・ライン〉を抱えています。ナルムーンのファントム・ギャングが参戦している以上、いてもらわねばなりますまい」
それは無意識か。思わずゾクッとするエミリオの黒い微笑みに、彼らは顔をひきつらせて、
「……それは、殿という意味でか?」
「ご自由にお取りください」
真面目の皮を被った邪悪――しかし、この野心の強さが一層、老人達の気を引いた。自分達の目的を果たすために、これほど心強い味方はいようか。
「それではここで失礼いたします。歴史的瞬間をお楽しみくださいませ……親皇派の皆様」
エミリオは彼らに一礼し、作戦司令室を後にし、ブリッジを目指した。
その間、彼はどうしようもない己の邪心を顔に表し、人知れず呟いた。
「死んでくれぬものかな……フェンディよ」
彼には敵軍よりも殺したい味方がいる。
その彼が偶然にもこの大海原に消えてくれることを祈り、彼も出陣の支度を急いだ。
◆ ◆ ◆
《サンズ艦隊 後方陣営 巡洋艦》
「お願い、少佐! 早く出てきてェェェ!? 仲間の船、沈んでんですけどォォォ!?」
敵の砲撃に船体がガンガン揺れる中、この兵士は決死の想いでトイレのドアをガンガン叩くことに努めた。
それも当然至極。
何てたって、現在、敵戦艦2隻の猛追を受けている緊急事態なのだ。奴らの砲撃を甲板の魔導師達は防いでくれるものの、攻撃の要、かく言う母国最強の魔導師の姿がないぞと大騒ぎになってみたらこの様だ。
トイレ籠ること8分――間違いなく大きい方である。
「ちょっと待ってくれ……! 今いいところまで出てきた、腸から降りて来た――痛たたたたたッ!? 左! 左側が、水分不足の固いのが降りてきたせいで痔に――」
「実況しなくていいから早く! 早く後ろの艦隊何とかしないと、旗艦に追いついちゃいますよッ!!」
ドォンッ!
兵士の渾身の一打のせい――ではないが、今までにない大きな衝撃が艦内を揺るがした。
「き、来た……!? 少佐、待ってますから、早く来てくださいッ!」
艦内アラームが所々で鳴き出す。兵士はトイレでしょーもない上官の相手をしている場合でないと、我に返り、颯爽と持ち場へと戻った。
その折、フェンディの「はーい」という気のない返事に気づきもしなかった。
彼の足音が完全に聞こえなくなると、トイレのドアがガチャリと開き、中から真紅のショートヘアと黒縁眼鏡の男がキョロキョロと辺りを見回した。
渦中のフェンディ・ノーウィック、その人である。
黙っていれば20代前半にしか見えない、犯罪的童顔の三十路男は、伏兵がいないとわかるとほっとしたように胸を撫で下ろした。
「弱った、弱った……冗談じゃないよ。そんな素直に戦っちゃ、あの七三分けの思うツボだっての! 自分でやればいいのに……」
不服そうに、彼はトイレに持ち込んでいた雑誌を丸め、掌を叩いた。
ちなみに便座の蓋は降りたままだ。中に残したまま――いや、腐っても紳士のフェンディがそんなことをする訳ない。
これは確信犯。間違いなく、出る出る詐欺で戦線を離脱したのだ。
指揮官にあるまじき行為だが、彼がこのような行動に出た理由は他でもない、ノーウィック家当主である彼を貶めようとしている輩への反抗心である。
再び艦隊が激しく揺れる。やはり今までと違う雰囲気に、さすがのフェンディも表情を引き締めた。
「超遠距離攻撃……懐かしいな、サージェントかな?」
さっと手を洗い、モノトーンの軍服を翻す。
いよいよサボっていられないと、筆頭魔導師フェンディ・ノーウィックは、ついに戦場へと赴くのである。