さらば、アルデバラン その1
アルデバラン師団 経理部
一夜明けて、バートン・エルザは何食わぬ顔で出勤した。デスクに着いてから30秒、彼を心待ちにしていた、夜勤明けの人事部統括のダグラスは一目散に駆け寄った。
「バートン……準備は整ったぜ」
ダグラスは彼に一冊のファイルを手渡した。すぐさまそれを開くと、一枚目に閉じられた書類に目を留めたまま、バートンは口角を上げた。
そして、
「皆、集合してくれ」
出勤していた経理部の兵士全てに、そう呼びかけたのであった。
その際、エドガーはいつのまにかきれいさっぱり物がなくなっている、とあるデスクの存在に全てを悟ったのであった。
◆ ◆ ◆
アルデバラン師団 団長執務室
「それで、彼はNOと言ったのですね?」
「はい。でも諦めてはいません。本人の意志を尊重して――」
「その生易しさに、何もできずに帰ってきてしまったと?」
「……」
「とんだ体たらくですね」
執務室に持参品を全て運び終えると、待っていたのは西方将軍ハリー・フレディリックによる昨夜の状況聴取であった。
直球な誹謗にマノロは心を痛めながらも、毅然と努めた。
だが、眼鏡から覗くハリーの瞳は彼女を嘲笑う。
「おかしな話です。それはあなたを否定したにも等しいのに、なぜ平然としていられるのでしょう?」
「ひ、否定だなんて大げさです……!」
「いいえ、否定です。もっと言いましょう――命令違反であると」
亡霊なる機兵しか映さぬマノロの瞳は、彼女を射抜かんとするハリーの冷徹な眼を恐怖として脳に焼き付けた。
銀色の杖を持つ手が汗ばみ、震える。
「わ、私はそんな強引な手で理解が得られるとは思っていません!」
「理解? そんなものは必要ない」
彼は眼鏡の位置を整えた。
「彼は兵士だ。団長たる、あなたに背くことは、すなわちナルムーンへの反逆です」
「そ、そんな……!」
「マノロさん、ここまで言ったのです。やることはわかっていますね?」
そのスカイブルーの髪は、この凍える寒さの元凶なのだろうか。絶対零度そのものであるがごとく、彼が放つ気迫の前にマノロの持論は完全に凍り付いた。
目の前の少女にはもはや反論の余力もないと知りながら、ハリーはまだ容赦なく、
「小姑のようで申し訳ありませんが、もう一つ付け加えると、あなたは騙されたのです」
「……え?」
その返事にハリーは眉をひそめた。
「とぼけるおつもりですか? ステファンの両親はリゲルに逃亡済みです。ならば昨夜、あなたと話した女性が何者であるのか、知らないはずはありません」
「……監視していたのですね、私を!」
「当然です。元帥から、あなたが一人前の団長になるまで手助けをするように言われています。あなたほどの魔導師が、あの家にいた魔導師の気配に気づかないはずがありませんね?」
マノロは口をつぐんだ。
「十中八九、泥棒兎の頭領です。ラスティーラと奴らは、目が見えないことを利用し、あなたを背いた……酷い話じゃないですか」
「……」
「その様子だと、亡霊なる機兵を識別できることもしゃべってしまったのでしょう?」
「それは……!」
「気づきなさい、あなたは12騎士の中では最弱です。舐められているのですよ」
決定的な一言だった。深く傷ついたマノロの心に滲む負の感情、彼女はそれを必死にとどめようとするが――中にいるもう一人の自分はそれを許してはくれない。
亡霊なる機兵としての人格は理性に反して、怒りという敬遠すべき感情を焚きつける。
――違う、こんなの私じゃない!
「もうローザ団長の陰に隠れて、防御魔法ばかりをしていればいい訳にはいかないんですよ、マノロさん。しっかりしなさい」
苦しそうにかがむ彼女を、ハリーは見下ろした。だが彼女の性格を顧みても、このまま自力で団長としての判断ができるとは思えない。
そこで、ハリーは一つの提案を示した――
「お飾りになりたくなければ、これも試練です。ですが、ここで一つ……あなたの助けとなる騎士をご紹介しましょう。入りなさい」
ハリーの声に、扉が開いた。
上級魔導師達に監視されながら、一人の少年が執務室へと放たれた。
それは黒髪をバッサリ切られた、金色の目の少年であった。
マノロの瞳にそれが映るということは、彼が何者であるか説明は不要だった。何人たりとも近寄らせぬ鋭利な眼光と、正装の下に隠された殺気に彼女は息を呑んだ。
彼は前に出ると、首に嵌められた拘束具に手を触れ、そのまま二人の元へ跪く。
「ミュラー元帥が拾ってきた、ジェイ・ファンと呼ばれる元奴隷です」
「奴隷……!?」
ハリーの言葉にマノロは驚愕した。
「驚くのも無理はない。あなたも見えているからわかるでしょう? 元帥と同じ目をしています……亡霊なる機兵として類まれなる才能と魔力を備えた戦士です。田舎の農村でくすぶっているところを、勿体ないので買ってきたのですよ」
まるで、骨董品の取引でもして来たような言い草だった。
「ジェイ・ファンはまだ奴隷気質が抜けませんでして……命令がなくては、彼は動けません」
「……」
「元帥は一人前の騎士となるまで、傭兵として彼を使えとおっしゃっています。いい機会です、彼を使ってみてはいかがでしょうか?」
「な、何を――」
そう言いかけた時、ハリーの眼に心は屈した。
たったその間で、状況を理解した彼女をハリーは満足そうに微笑んだ。
「あなたを否定した彼の始末を、です」
心臓が早鐘を打つ。
マノロの脳裏にはかつての上官、シャーレル・ローサの姿が浮かぶが、もはや彼女に助けを求めることなどできない。
孤独だ――孤独故に、恐怖だ。
長たる責任という言葉は、残忍性を含有している。ただ単にアルデバランの体制を変えたい、その理想の光に彼女は自分に課せられた、血塗れの剣から目を逸らしていた。
立場を受け継ぐということは、その剣を継承する覚悟こそ必要であったのだ。
己の認識の甘さにマノロは唇を噛みしめた。
金色の瞳を持つ、この黒髪の少年も彼女を助けてはくれない。
それどころか、憎しみに似た色をその瞳に宿している。この場で自分がハリーに殺されたとしても、何も思わないだろう。
世界は、彼女を見離したのだ――
「どうされました? 生温い単語など使わないでください。命令はシンプルに――さあ!」
追い詰められた精神は、次第に昨夜の出来事を呪った。
彼が悪いのだ、何もかも。
彼が自分の手を取ってくれていたら、こんな苦しみと残酷さの螺旋に叩き落とされることはなかった。
身の程も知った。
自分は綺麗ごとしか言えない、甘ちゃんなのだ。だからこそシャーレルは、スピカを離れた今でも自分のことを認めてくれない。こうなることを、元上官はわかりきっていたのだ。
だから、盲目を、生まれながらのハンデすら利用される。
悔しい。誰も彼もが軽侮の目で自分を見る。
団長に抜擢した、ミュラー・ヴァシュロンでさえもこの迷走ぶりに、腹を抱えて笑っているに違いない。
笑われるのは仕方ない。だけど、それで終わってしまう非力な人間にはなりたくない。
覚悟を、覚悟を今――決めなくてはならない。
「……」
すがるように持っていた杖を、彼女は正位置に突いた。
「フレディリック閣下……これはナルムーンの民を守る命令ですよね?」
涙ぐむ彼女を徐に眺め、
「もちろん」
ハリーはそう返した。
それを聞くと、マノロは震える唇を開き、光のない青い瞳で、命令を待つジェイ・ファンを見下ろした。
そして彼女は命じたのである――
「ジェイ・ファン……これが私の、魔導騎士団団長マノロ・リリアーノの最初の命令です」
「……」
「ラスティーラを……殺しなさい!」
すると、彼は金色の瞳を動かして、
「御意」
そのにじみ出る魔力は、殺戮への欲求か。首につけられた拘束具は、水面下で荒ぶる魔力を押さえつけんと力を発揮しているように見えた。
彼はそれ以上何をも問うことなく、執務室から出ていった。
その後、ハリーはやり切った彼女を少しばかり褒めた後、ジェイ・ファンを追うように彼も執務室を後にしたのだった。
一人になったマノロは、執務室のソファーに座り込み、
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ケント!」
しばらくの間、泣き崩れていたのであった。